朝鮮神宮のあった南山を1946〜47年に撮影した写真がある。まだ、鳥居と石段が残っている。
DesignerspartySeoul, Korea, 1946-1947photographer Cecil B. White
DesignerspartySeoul, Korea, 1946-1947photographer Cecil B. White
8月15日正午に、ポツダム宣言受諾の天皇の放送があると、朝鮮神宮ではすぐに対応を協議、「神霊昇神儀」を行うものとし、翌日総督府関係官員参列のもとにこの儀式が行われた。要するに、たとえ壊されたとしても、もうそれは「神社にあらず」というかたちにしたのである。
神社の関係者とか総督府の担当者は、日本が戦争に負けた途端に、日本が朝鮮に作った神社は朝鮮の人々の「仕返し」の標的にされると思っていたということだ。
御神体は8月24日に汝矣島飛行場から日本に送り返した。その後、9月7日に旭町の建設業松山吉四郎に発注して朝鮮神宮正殿などの解体・焼却に着手した。しかし、その直後に京城に入ったアメリカ軍は工事の中止を命じた。朝鮮神宮と総督府の関係者が、朝鮮人に壊させるわけにはいかないとアメリカ軍政当局に泣きついて、建物の取り壊し許可を得て工事を再開し、10月7日に本殿の取り壊しを完了した。
(事実関係は森田芳夫『朝鮮終戦の記録 資料篇2』による)
朝鮮神宮取り壊しの事実は、当時まだ京城で発刊されていた『京城日報』にわざわざ掲載させている。「いさぎよさ」を気取った虚勢である。
朝鮮神宮の建物の主要部分は消滅したが、鳥居や参道の石段はそのまま放置され、米軍政府の管轄下に置かれた。
いち早く反応したのはキリスト教団体である。神社参拝の強要に抵抗していたこともあり、この朝鮮神宮の跡地にキリスト教博物館とキリスト教各派の連合礼拝堂を建設するという計画を打ち出した。
しかし、この計画はその後立ち消えになったらしい。基督教博物館だけは、金良善牧師が独力で本殿跡地に建設して運営していた。後述する1959年の国会議事堂建設計画で博物館は消滅したが、収蔵品などは1967年に開館した崇実大学キリスト教博物館に引き継がれた。
鳥居がそのまま立っていることには反発も強く、解放から1年目の8月には、米軍政長官ホッジ(John R. Hodge)に鳥居撤去の陳情があり、ラーチ(Archer Lerch)がアメリカ軍工兵隊に撤去作業を行わせると言明したとの記事もある。
しかし、実際に鳥居が撤去されたのは、1947年6月6日に「帰属財産」の管轄権がソウル市に移譲されてからのことである。ソウル市は、米軍政庁からの移管を受けて、百数十万ウォンを投入して6月30日から市内57カ所の鳥居と皇国臣民誓詞塔を取り壊した。
朝鮮神宮の鳥居は7月3日に解体された。
デジタルデータで残っている『東亜日報』掲載の写真は、残念ながら判別不能である。
「皇国臣民誓詞」が収められていた各所の塔は取り壊され、保管されていた数十万の誓詞は麻浦の刑務所(旧京城刑務所:現ソウル西部地方法院・検察庁)で再生処理された。
1949年6月26日に、李承晩と対立していた金九が暗殺された。8月に「金九先生銅像建立推進委員会」は、旧朝鮮神宮の本殿前の広場に金九の銅像を建てることを決議した。しかし、「当局と交渉中」という報道があるだけで、その後について新聞報道がない。李承晩の政敵と目されていた金九の銅像は、この時は建立できなかったのであろう。いま南山の白凡広場にある銅像はこの時のものではない(後述する)。
朝鮮戦争休戦後、李承晩は「大統領は4年任期で2期まで」という憲法の規定を、初代大統領に限り適用しないように憲法を変えようとした。3期目をねらったのである。1954年11月の国会採決では賛成が135で、成立に必要な2/3に0.333…だけ足らなかった。しかし、これを「四捨五入すれば135が2/3となる」と詭弁を弄して、自身の3選出馬を可能にした。
1956年5月の大統領選挙で、李承晩は3選を果たした。
この年の8月15日、南山の旧朝鮮神宮跡地で李承晩大統領の銅像の除幕式が行われた。銅像の工事は、大統領選挙前の前年10月にすでに始まっていた。
台座を含めると高さが25m弱(6階建ビル程度)、総工費は2億600万ウォン。今の貨幣価値に換算すると日本円10億円前後であろう。南山の中腹に突出した巨大な建造物であった。
1959年になると、この朝鮮神宮跡地に国会議事堂を建設する計画が持ち上がった。
大統領銅像の前の34000坪に建坪24000坪の国会議事堂を70億ウォンの予算を投入して1963年までに建設するというものである。
1959年4月22日付けの『京郷新聞』は、前日に参道の階段を爆破処理するために工兵隊が準備作業をしているという記事とともに参道石段の写真を載せている。この時に石段は撤去された。
起工式は、5月14日に李承晩大統領の巨大な銅像の前で盛大に行われた。
1960年3月15日の大統領選挙で、4選を目指した李承晩は当選を果たした。しかし、選挙時の露骨な介入と不正が問題となり、抗議運動が広がった。4月19日に大統領官邸へ向かおうとするデモ隊と警察部隊が衝突し、警察の発砲で186人の死者を出した。李承晩は、4月26日に大統領辞任を表明し、5月29日にハワイへ亡命した。
李承晩政権が崩壊すると、すぐに南山の銅像の撤去が決定された。
撤去作業は、8月17日から始まり、数日間で銅像は台座から取り外された。同時に、ここに予定されていた国会議事堂の建設も中断し、結局議事堂新築は白紙化された。
国会議事堂に変わって浮上してきたのが文化施設の建設と公園化案であった。
下の地図は、実業之日本社のガイドブック『韓国』(1985年)に添付されている地図の一部だ。1980年代中盤の南山の旧朝鮮神宮跡地の配置がわかる。1985年の地図なので86年に設置された李始栄の銅像はない。しかし、ちゃんと存在していた安重根の記念館が描かれていない(下のには私が描き入れてある)。そういえば、この頃のツアーガイドさんは景福宮の一番奥までは行かなかった。閔妃殺害の碑と絵のある場所の手間でUターンすることになっていた。
それぞれの来歴を新聞記事でみていこう。
①1963年7月に旧参道石段を上がった下段のスペースに「南山野外音楽堂」が完成した。
②1965年の1月にソウル市の南山図書館が開館した。
小公洞にあったソウル市立図書館(南大門図書館)を南山に移したものである。
京城府立図書館は、1922年10月に明治町2丁目(現在の明洞)の漢城病院跡に開館した。1927年5月に長谷川町旧大観亭跡に移転し、1928年6月に完成した社会館の2階を閲覧室とした。
ちなみに、図書館が移転したあとの建物は、朴正煕大統領の与党共和党の中央党舎として使われた。その後1972年に共和党は南山図書館の道路を挟んだ向かいにビルを買ってここを党舎とした。1979年に朴正煕が殺害され、全斗煥が権力を握ると、共和党は党の資産を全斗煥の与党民正党に無償で譲渡した。ただ、中央党舎はイメージがよくないと民正党はソウル市にこれを売却して図書館に改修させた。これが現在の龍山図書館である。
③植物園などの市民公園化に着手されたのは1967年のことである。
④安重根記念館が開館したのは1970年9月。現在の記念館は、2010年にリニューアルオープンしたもので、位置は同じだが建物は完全に建て替えられている。
安重根の銅像が最初に南山に建てられたのは1959年4月。ちょうど旧朝鮮神宮跡地で国会議事堂の新築工事が始まった時期である。この時は、安重根像は、南山といっても「外れたところ」に建てられた。安重根の銅像を建てる計画自体は早くから進められており、交通部の了解を得てソウル駅前に建てられるということになっていた。ところが銅像が完成した後に、設置場所が白紙化された。やむなく代替の場所探しに奔走し、京城神社跡に開校していた崇義女子中学の裏手の斜面に銅像が建てられ、1959年4月末に除幕式が行われた。
1966年になって、朴正煕政権からの特別資金と有志からの寄付によって、新しくできた南山の野外音楽堂の東側に銅像を移設できることになった。さらに、ここに安重根の遺品などの展示施設の設置の計画も具体化した。
1970年9月2日に安重根記念館が開館した。建物の前に立っているのがここに移されていた銅像である。
この記念館の前には旗を手にした銅像があったのだが、2010年にリニューアルされた現在の記念館とその周辺には見当たらない。
⑤金九の銅像は、上述のように暗殺された直後にこの場所に立てようとする動きがあった。しかし、それは実現しないまま、李承晩の銅像がこの場所に建てられた。そして、政変で李承晩の銅像が倒された9年後に、金九の銅像がここに建てられたのである。
銅像だけでなく、南山のこの一帯が、金九の号である「白凡」にちなんで「白凡広場」と命名された。
いま、南山でソウル市内に向かって手を挙げているのは、大韓民国初代大統領李承晩の銅像ではなく、大統領の座に就くことなく凶弾に倒れた政治指導者の銅像なのである。
⑥国立中央図書館は、1974年に南山のこの場所にあったオリニ(子供)会館に移転した。オリニ会館は、1970年に新たにビルが建築されて7月25日に開館した。
国立中央図書館の前身は、朝鮮総督府図書館で、解放後はそのまま蔵書資料などを引き継いで国立の図書館となった。もともとの場所は、現在のロッテショッピング駐車場のところで、現在はその駐車場の一角にプレートが設置されている。
1973年から図書館の移転計画が持ち上がった。当時、広津区陵洞のゴルフ場跡に1973年5月5日にオープンしたオリニ大公園に隣接する場所に新築・移転が決まっていたオリニ会館の建物を図書館に転用することになった。
その後、1988年に瑞草洞に建設された現在の国立中央図書館に移転し、建物はソウル市教育庁の科学展示館として使用されている。国立中央図書館は、朝鮮総督府図書館時代からの蔵書資料などもデジタル化してインターネット公開している。
⑦1986年、独立運動家の李始栄の銅像が金九の銅像の横に建てられた。
以上が、解放以降、1980年代までの旧朝鮮神宮跡地の動きである。
1990年代に入ると、南山の復元計画が活発になり、さらに大きく南山の姿が変わってきている。
追記:国立中央図書館の部分を修正(2021年2月1日)