「南山の部長たち」(2)金載圭の移動経路 | 一松書院のブログ

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映画「南山の部長たち」にまつわる考察。その2

 

 「安家アンガ」で、朴正煕パクチョンヒ大統領と車智澈チャジチョル警護室長を殺害した金載圭キムジェギュは、実際にはどのような経路でどこに向かったのか。

 

 事件が起きた時、「安家」には陸軍参謀総長の鄭昇和チョンスンファが金載圭を訪ねてきていた。金載圭は、鄭昇和を自分の執務室のある가棟に招き入れ、そこで第2次官補と食事をして待ってくれるよう伝えた。

 銃撃後、金載圭は鄭昇和を自分の公用車に乗せて秘書官の朴興柱パクフンジュを伴って事件現場を離れた。合同捜査本部の発表では、この時の金載圭はワイシャツ姿で靴を履いていなかったという。宴席のままの姿で、車の中で、秘書官朴興柱が携行していた予備の上着と靴で身なりを整えた。

 秘書官はいつも予備の上着と靴を持っていたわけではなく、たまたま持っていたらしい。

 

 映画の中のKCIA部長キム・ギュピョンは、いつの間にか上着を着て車に乗っている。ただ、靴は履いていなかった。

 

 この時点で、鄭昇和は、まだ金載圭が朴正煕と車智澈を撃ったことを知らない。ただならぬことが起きて大統領が死んだと伝えられていただけである。

 

 この時の金載圭の車の移動経路が11月6日付の『朝鮮日報』の号外に載っている。

 

 当時の道路状況に今日の地図上の目印をまじえてルートをたどると次のようになる。

 

 「安家」から紫霞門チャハムン路に出て内資洞ネジャドンの交差点(現在の地下鉄景福宮キョンボックン駅)方向に下る。光化門クァンファムンの前を右折して世宗路セジョンノに入り、光化門交差点を過ぎてコリアナホテルの前の三叉路を清渓川チョンゲッチョン方面に左折。まだ清渓川は覆蓋されたままで道路であった。広橋クァンギョ朝興チョフン銀行(現在の新韓シナン銀行)の前に三一サミル高架道路(清渓高架道路)への進入口があった①。

 ここから高架道路に上がって右車線を行って南山1号トンネル方面に向かう。退渓路テゲロと交わるところに右への出口があって②、大韓赤十字社の前に出る。その先のドラマセンターの角を左に入って行くとKCIAの南山庁舎に行ける。

 そこをそのまま直進すると、南山ケーブルカーの駅の前を通る南山循環道路になる。南大門ナムデムン方向の分岐を厚岩洞フアムドンの通りに入る。今のヒルトンホテル前の道路であるが、この時はまだホテルの場所はスラムのままだった。この厚岩洞の通りの右側に兵務庁ビョンムチョンがあった。解放直後に、植民地時代の金千代会館を国防部クッパンブにして、それがその後兵務庁になったものである。

 この通りを真っ直ぐ行くと龍山ヨンサン高校の正門がある。植民地時代の「龍山中学」である。ここを直進すると米軍基地のゲートがあって一般車両は進入禁止。

 しかし、政府や国家機関、外交関係の車両などで通行許可ステッカーがあれば基地内を通行できた。金載圭の乗ったKCIAの車両にもステッカーが貼ってあった。③から米軍基地の中に入り、三角地から梨泰院に通じる道川のゲートを出て、右折して陸軍参謀本部(陸本ユッポン)に到着した。参謀本部に隣接して国防部がある。

 いまは向かいに戦争記念館があるが、この当時は戦争記念館の場所も米軍基地だった。

 

 

 合同捜査本部の11月6日の発表文では、31高架道路方面に向かっていることを察知した鄭昇和が、どこに向かうのかと金載圭に尋ねたとなっている。地図で言えば、①の手前であろう。

 

 1979年10月26日は金曜日である。時間はまだ午後8時前。映画では、周りに車がないかのようになっているが、実際には退勤ラッシュの時間帯である。特に、市庁前から南大門、ソウル駅、漢江大路方向はかなり渋滞する。KCIAの部長車といえども先導車なしには渋滞の中を周りの車を蹴散らして走るわけにもいかない。

 三角地の参謀本部・国防部に行くにしても、31高架道路から南山を回って厚岩洞、そこから米軍基地を突っ切るのはよく使われたルートだった。

 他方、31高架道路は南山のKCIA庁舎に向かうルートでもあった。

 

 行く先を尋ねられた金載圭は、KCIAの南山庁舎に行くと答えた。しかし、鄭昇和は、国防部に隣接する参謀本部の方が非常事態への対処には適しているとして、参謀本部に向かうべきだと主張した。朴興柱もそれに同調し、金載圭も参謀本部に向かう決断をした。

 すなわち、②の手前で、南山庁舎ではなく三角地の参謀本部に向かうことを決断し、②の地点で左折せずに直進して三角地へ向かうよう指示した。午後8時5分には参謀本部に到着した。ほぼ20分で到着している。

 

 映画では、5車線の道で停車し、そこでUターンしている。しかし、実際の経路ではこんなに道幅のある道は通らないし、Uターンする必要もない。それに金曜日の午後8時にこんなに空いている道はソウル市内にはない。

 

 しかし、まぁ、そこは映画だから…。

 

 

 三角地の作戦司令室で金載圭は翌日未明に逮捕された。事件現場に居合わせた生存者である秘書室長金桂元キムゲウォンが、事後処理の過程での各閣僚や軍部首脳の動静を見極めて、金載圭が銃撃したことを告げたことが転機となった。

 

 1980年5月24日に西大門拘置所で金載圭の絞首刑が執行された。