『毎日経済メイルキョンジェ 新聞』のサイトに、2015年3月6日付で「韓国の上位1%の空間 富豪村(대한민국 상위 1%의 공간 부촌)」という記事がアップされている。
https://www.mk.co.kr/news/culture/view/2015/03/216601/
この記事では、ソウルの10カ所の富豪村が取り上げられている。城北洞ソンブクドン 、平昌ピョンチャン ・旧基洞クギドン 、奨忠洞チャンチュンドン 、漢南ハンナム ・梨泰院洞イテウォンドン 、東部二村洞トンブイチョンドン 、清潭洞チョンダムドン 、三成洞サムソンドン 、道谷洞トゴッドン 、瑞草洞ソチョドン 、方背洞バンペドン 。
このほとんどは解放後に開発されたものだ。
漢江の南側の宅地化は、1970年代後半からの高層マンション建設から始まった。
漢江の北岸についても、富豪の居住地として注目を浴びるようになるのはほとんどが1970年代以降。城北洞については、映画「パラサイト」で撮影に使われたこともあって以前ここでも取り上げた(パラサイトのロケ地(1) 城北洞 )が、1970年代以降に開発されたものである。東部二村洞は、漢江の洪水対策の一環として1960年代に宅地造成が始まり、漢江マンションや外人アパートが建てられた。平昌洞・旧基洞や梨泰院洞に高級住宅が建てられるのは1970年代の後半からである。
そんな中で、奨忠洞と漢南洞UNビレッジの2カ所だけは植民地時代に宅地として開発され、それが解放後に高級住宅地化していったものである。
ここでは、その変遷を追ってみたい。
奨忠洞
1994年7月2日の『東亜日報トンアイルボ 』に、三星サムソン グループが奨忠洞チャンチュンドン 1街ガ 110の李秉喆イビョンチョル 会長が住んでいた邸宅の周囲を買い占めているとの記事が掲載されている。
奨忠チャンチュン 体育館の向かい側、大通りから一歩中に入ったところで、広い区画に建物が建っている。ここは、1934年に朝鮮都市経営会社が宅地開発して売り出した「奨忠壇住宅地」の場所である。
朝鮮都市経営会社は、国策会社の東洋拓殖の子会社で、「奨忠壇住宅地」のあった東四軒町の東に隣接する新堂町に大規模な「桜ヶ丘住宅地」を造成した。1932年の「桜ヶ丘住宅地」第1期販売では、坪19円で売り出されており、ここは中流の内地人をターゲットにした宅地であった。一方、1933年に開発に着手した「奨忠壇住宅地」の方は坪平均30円、1区画が200坪から500坪という高級住宅地であった。東洋拓殖会社の仲介で京城府から払い下げられた府有地だったところに造成された。
翌1934年7月中旬の整地の完了を前にして、5月にはこの高級住宅地の半分が貯蓄銀行の重役宿舎と東洋拓殖の理事社宅として契約されていた。
残り半分は、おそらく内地人の金持ちや企業がその多くを購入したであろうが、朝鮮人の富豪もここを購入していた。
1939年4月23日付の新聞に、朴基孝パクギヒョ ・張達莫チャンダルマク 夫妻が総督府に、時価約4000円あまりの金製品130点を寄付したと報じられた。
『東亜日報』では、朴基孝・張達莫夫妻の住所は「東四軒町100番地」となっている。「奨忠洞1街100番地」で検索してみると、前掲の三星グループ買い占め記事の地図で、110番地の李秉喆宅の向かいが100番地になる。この区画も「奨忠壇住宅地」であった。
朴基孝は、咸鏡南道北青の出身で、植民地統治下で不動産や株の売買で富を築き、大韓毎日新報の大株主でもあった。そうした朝鮮人の富豪もここに邸宅を構えたようだ。
この東四軒町には、「奨忠壇住宅地」が造成される前から、総督府の官舎や京城帝国大学の官舎があった。また、1928年にはアメリカ人宣教師の50坪の洋館が全焼し3万円の被害を出したと報じられており、相当の豪邸があったと思われる。
その一方で、新聞を検索すると、高額の賭博事件で検挙された朝鮮人の住所が東四軒町のこの一画にあったりしているので、内地人ばかりが住んでいたというわけではない。
1945年8月15日正午、天皇によるラジオ放送で日本の敗戦が知らされた。京城帝大では9月までに朝鮮人の大学自治委員会に研究室の鍵などが渡され、責任者のポストも朝鮮人に引き継がれた。京城帝大の日本人教職員は住宅や家財道具、蔵書などを放棄して内地に引き揚げていった。官界や財界の日本人も同時期に引き揚げた。
残された住居は、帰属財産・帰属宅地として接収されて「縁故者」が引き継ぐものとされた。
しかし、混乱の中で、「縁故」のはっきりとしない「新たな居住者」や「新たな所有者」に引き継がれたものも少なくなかった。
一方、朝鮮人の所有する宅地や邸宅はそのまま居住が続いた。朝鮮総督府に多額の寄付をしていた朴基孝は、1945年の解放直後に「輔国金二億円起債」の名簿に名前を連ねており、12月に設立された「大韓独立愛国金献金会」の中央委員に就任している。1952年には、李承晩イスンマン 政権の産業界からの政策委員にも就任している。
1946年には、東四軒町は奨忠洞1街と行政区画名が変更になった。この時期に帰属宅地がどのように取り扱われたか、はっきりしない。
ただ、1953年には現代ヒョンデ の鄭周永チョンジュヨン の自宅が奨忠洞1街37-7にあったことがわかっている。
「モダンタイムス」は鄭周永の実弟鄭仁永チョンインヨン が関係していた雑誌である。この住宅の入手経路はわからないが、現在ここは、「現代ソンウ奨忠ビル」になっている。
解放後に京城電気キョンソンチョンギ の社長になった高在鳳コジェボン も、奨忠洞1街33-9所在の281坪の宅地に住居を構えていた。1961年に、時価1150万円の帰属宅地を不当に安く賃貸借していたとして裁判にかけられている。植民地時代、東四軒町33には京城電気の監査役平井秀雄が住んでいた。ここは、京城電気の社有地だった可能性がある。それが帰属宅地となり、そこを李承晩時代に高在鳳が安く賃貸借していたとして、李承晩政権が崩壊した後に不正蓄財で告発されたとみられる。
三星サムソン の李秉喆が奨忠洞1街の居住者であることが確認できる記事は、1959年『朝鮮日報チョソンイルボ 』に掲載されている。この時点での高額納税者として報じられている。上述の朴基孝の100番地の向かいの110番地である。どのような経緯で李秉喆が奨忠洞1街110番地に居住するようになったのか、その経緯はわからない。朴基孝の関与なども想像されるのだが…。
冒頭の『毎日経済メイルキョンジェ 新聞』の記事では、柳韓洋行ユハンヤンヘン の創業者柳一韓ユイルハン 、泰光テグァン 産業会長李林龍イイムヨン 、大韓電線テハンジョンソン 会長薛慶東ソルギョンドン など、解放後の大韓民国財界の第一世代の中にここに居宅を構えた人々がいたとある。
ただ、現在の奨忠洞1街は、大きめの敷地の邸宅もあるにはあるのだが、冒頭の三星グループで買い占めたとされる旧奨忠壇宅地以外は、特に富豪村という街並みではなくなっているように思える。
漢南洞
漢南洞ハンナムドン の富豪村は、UNビレッジと呼ばれる漢南大橋ハンナムデギョ のたもとの東側の丘陵地に広がる一角である。冒頭の『毎日経済新聞』には、鄭夢九チョンモング 現代ヒョンデ 自動車会長、朴三求パクサムグ 錦湖クムホ アシアナ会長、金俊起キムジュンギ 東部トンブ グループ会長、朴容晩パクヨンマン 斗山トゥサン 会長などの財界人、それに芸能人のオム・ジョンファ、ウォン・ビン、チェ・ファギョン、ビックバンのG-DRAGONやT.O.Pも住んでいるとある。
2019年には、EXOエクソ のベク・ヒョンが「UN Village」を出して一層有名になった。
ここには芸能人が多いこともあってネットでもよく取り上げられているが、そうしたサイトの説明では、ここは解放後の「外人ウェイン 住宅」から始まったとされている。
実際は、この一帯は、日本の植民地時代、1937年に朝鮮農林会社が「華鏡台」という名前で売り出した宅地であった。
『京城日報』1938年4月17日
1941年版の『朝鮮年鑑』
朝鮮農林会社は、朝鮮で不動産投資と山林事業を行うために横浜の原富太郎(三溪園のオーナーで富岡製糸場を経営していた)が出資したもので、佐藤虎次郎が京城の三坂通(今の厚岩洞フアムドン )に事務所を置いて経営していた。佐藤虎次郎が1928年に死去した後は原四郎が経営を引き継いだ。
1930年代に入って、京城の東側の新堂里方面で舞鶴住宅地、桜ヶ丘住宅地が開発され、宅地造成は漢江里方面へと進んだ。
1936年から、朝鮮農林の原四郎は漢南町の7万坪の丘陵地帯で宅地造成をはじめ、1937年に華鏡台の第1期が売りに出された。奨忠壇住宅地が、高級住宅地として1区画が200坪から500坪、1坪平均30円という価格であったのに対して、華鏡台は半額以下の坪12円から16円、建売だと坪70円から100円。売り出し当時は、まだ交通の便がよくないこともあって桜ヶ丘住宅地の坪19円よりも安い価格設定で、格安の中流内地人向け住宅であった。ただ、梨泰院から龍山方面へのアクセスが可能なことは売りであった。
原四郎は、1937年に吉野町1丁目から、華鏡台の一番高い漢江を見下ろす家に引っ越した。原四郎の四女であった私の母は、華鏡台から三坂通の第二高等女学校に徒歩で通学した。卒業後は、三坂通の朝鮮農林の事務所で働いていた。1945年8月15日にそこで日本の敗戦を知った。
この年は9月20日が秋夕チュソック であった。この日の夜、華鏡台の内地人住民は集まってお月見をし、翌21日に、引き揚げの拠点となった龍山へ集団で移動した。大半の家財道具などは放棄し、アルバムや思い出の品は庭に穴を掘って埋めた。その後一度も華鏡台には戻ることはなく、11月に龍山発の引き揚げ列車に乗った。
朝鮮戦争休戦後の1956年に、この宅地に関する記事が出てくる。
『東亜日報』1956年8月24日
財務部で契約保留
漢南洞帰属宅地をめぐり住民代表と中央産業幹部衝突
22日正午ごろ帰属宅地の賃貸契約問題で財務部長官に陳情のため財務部を訪れていた龍山区漢南洞の100名余りの住民代表が、その陳情の対象となっている帰属宅地の賃貸借契約のために財務部に来ていた「中央産業」の趙専務一行と財務部正門前で衝突し、約30分間にわたりもみ合いが繰り広げられた。鍾路署の警察隊の出動で解散したが、陳情団の代表2名が鍾路署に連行された。
財務部関係当局が伝えるところによれば、この紛争は龍山区漢南洞12番地所在の帰属宅地約6000坪を、去る6月下旬頃に外人住宅を建設するという名目で、全く縁故権がない「中央産業」が財務部に賃貸借契約を申請し、これに8月19日財務部長官の決済がおりたことに端を発する。これに対して朝鮮戦争前からこの6000坪の土地に住んでいた約120世帯の代表が取り消しを求めて陳情するに至ったものという。
この漢南洞の帰属宅地6000坪については、昨年末国防部で使用したいとして財務部に国有化の申請をしたが、住民たちの反対で去る6月19日正式に却下された。「中央産業」は国防部の申請が却下された直後に賃貸契約を財務部に申請したとのこと。
住民代表は、「中央産業」の賃貸借申請について、政府関係の高位層が特別善処すべしという付箋をつけて事務当局に契約を強要したものとしている。
財務部長官は、賃貸契約の決済に当たっては、縁故者との紛争がないことという前例のない条件をつけており、22日正午の住民代表の陳情騒動によって、印財務部長官は「この問題は保健社会部の要請で賃貸借したもので財務部としての責任はなく、中央産業に特恵を与えたものではないが、住民たちの騒ぎもあり契約締結を保留し、今後調査して再検討する」と語っており、この紛争の帰趨が注目される。
この記事には、「朝鮮戦争前からこの(帰属宅地)6000坪の土地に住んでいた約120世帯」とある。
1945年9月末に内地人居住者が集団で退去した華鏡台には、その直後から多くの朝鮮人が居住していたものと思われる。ただ、所有権は住民に移転したわけではなく、米軍政当局から移管された財務部ジェムブ の管理下にあった。ここを中央チュアン 産業が、1956年6月下旬に「外国人住宅の建設」という名目で借り受ける契約を財務部と結ぼうとした。「保健社会部ポゴンサフェブ の要請」とあり、住宅営団(後の住宅公社)が運営する「外人住宅」の建設をからめて中央産業が請け負ったと推測される。
中央産業は、趙性喆チョソンチョル が1946年に設立した土建・建築業の会社で、李承晩大統領にも食い込んで景武台キョンムデ (大統領官邸)の修理なども手がけていた。
そうした権力との結び付きもあってのことであろう。住民の陳情は聞き入れられず1957年2月に漢南洞ハンナムドン で工事が始まった。かなり強引に住民を排除して工事が進められ、9月に竣工した。
この工事で、日本人が居住していた住宅の大半が撤去されたものと推測される。
この工事は「帰属財産処理積立金」を資金としており、「復興住宅管理要領」に従って、建築された建物は住宅営団に引き渡された。大韓住宅営団が発行していた『住宅ジュテック 』の第7号(1961年12月)には、このような広告が掲載されている。
1960年に4・19学生革命で李承晩政権が倒れると、趙性喆の中央産業も不正蓄財などで訴追された。1962年に、住宅営団への引き渡しの際に不正があったとして中央産業の趙性喆は告訴されている。李承晩政権の与党自由党ジャユダン の庇護のもとで不当な利益をあげていたとされた(『朝鮮日報』1962年10月2日)のである。
1966年に、第3漢江橋チェサムハンガンギョ (現在の漢南大橋ハンナムテギョ )の建設が発表され1969年に橋が開通すると、UNビレッジとその一帯の地価や建物価格が一気に上昇し、政界・官界・財界の有力者たちがここに集まるようになった。
それ以降、「外人ウェイン 住宅」であると同時に、富裕層の権力者が居住する住宅地となり、1990年代には、芸能人の居住が増えたことで、この一帯は「韓国のビバリーヒルズ」とまで呼ばれるようになっていった。