以前、こんなブログを書いた。
『原三渓翁伝』の第9章第4節には、「朝鮮農林株式会社」に関する次のような記述がある。
朝鮮農林株式会社は三溪翁が予て朝鮮の土地が頗る廉価で将来朝鮮発展と共に価値の昂騰を期待して土地買収に指を染めたものである。これより先き横浜に永くゐて横浜貿易新聞を主宰し後代議士となつた佐藤虎次郎氏は、昔、先代の原家に事へ、後三溪翁の知遇を得てゐたが朝鮮に渉り事業を起さんと心懸けてゐたので仕事をさせたいと云ふ考もあつたものである。
初め朝鮮人万玉なるものが京城の郊外に土地を纏めて所有したが、これを売りたいと云ふので買収して大正元年四月一日三溪翁は中村房次郎、市原盛宏、佐藤虎次郎の三氏と共に匿名組合を組織し、京城府吉野町、三坂通等京城府内に於ける宅地七千五百坪、同地上家屋及京畿道、坡前郡全村農地十三万坪を所有し、土地家屋及び農事経営に着手することとなつた。
ここに「朝鮮人万玉」とある人物は、実際には仁川在住の日本人実業家「萬玉」である。このことは、以前のブログでも取り上げた。
『原三渓翁伝』は、藤本實也が戦時中にまとめたものだが、稿本のままで活字化されていなかった。それが横浜開港150周年記念事業の一環として、2009年に校訂を加えて刊行された。
「萬玉」を「まんぎょく」と読む苗字は徳島県に分布するとされるが、そのルーツまでは確認できない。珍しい苗字なので、藤本實也が朝鮮人と誤認したのであろう。
さて、韓国の国家記録院が提供する「地籍アーカイブ(지적아카이브)」は、2006年からインターネット上で利用できるようになった。このデータベースを検索すると、1912年当時の三坂通(現・厚岩洞)一帯の土地所有関係を具体的に調べることができる。
地籍アーカイブで閲覧できるのは1912年以降の土地調査資料だが、それ以前のこの一帯の様子は、1906年9月に起案された『陸軍省 密大日記』(防衛省防衛研究所所蔵)に付属する「韓国龍山軍用収容地明細図」に描かれている。
1904〜05年の日露戦争中から龍山には日本軍の兵営が置かれていたが、当初は京城城内にも部隊を分散して駐屯させ、韓国政府への圧力や治安維持、交通・通信の確保にあたっていた。
1905年9月のポーツマス条約、同年11月の第二次日韓協約を経て日本の韓国支配が制度化されると、1906年頃から龍山の兵営建設が本格化し、日本軍の恒常的な軍事拠点として急速に整備されていった。
上掲の「明細図」の上部中央が、その後の三坂通、現在の厚岩洞にあたる。
図中の「典牲署」は、その後、曽田嘉伊智夫妻が運営にあたった孤児院「鎌倉保育園」となり、解放後は永楽教会に引き継がれた。現在は永楽保隣園となっており、これを手がかりに場所を特定できる。
現在の地図と照らし合わせると、厚岩市場からソウル市教育庁の新庁舎の横に伸びる道沿い、葛月里(旧・岡崎町、現・葛月洞)の丘の麓に、朝鮮人の集落があったことがわかる。
1912年に朝鮮総督府臨時土地調査局が作成した『龍山面南部』の「土地調査簿」には、仁川海岸町2丁目に住所を置く萬玉岩吉の所有地が22カ所記載されている。
萬玉岩吉が土地を取得していたのは、朝鮮人集落よりも東側、上掲の地図で青線と赤線に挟まれた、集落が描かれていない部分を中心とする地域である。
これらの土地が、1912年4月に、原富太郎(三溪)、中村房次郎、市原盛宏、佐藤虎次郎の4人による匿名組合に売却されたと考えられる。
また、1912年の土地調査簿には、萬玉岩吉の所有地の北側、黄色で囲んだ土地が斎藤久太郎の所有として記載されている。
斎藤久太郎はこの場所で金千代醸造場を営み、1940年前後には金千代会館を建設した。この建物は、その後、大韓民国の国防部となり、1998年まで兵務庁の庁舎として使用されていた。
現在はブラウンストーン南山アパートが建っており、場所を特定できる。
さて、『原三渓翁伝』の「第4節 朝鮮農林株式会社」には、その後の事業展開についても次のような記述がある。
大正三年六月一日に至り、原合名会社を母体として原拓植部を京城府に設け、京城府外狎鴎亭里(旧朴泳孝別荘所在地)盤浦里附近の農地十三万坪を主体とし、京城府内三坂通普光里梨泰院里東氷庫里方面等南山門外より緑地南山を廻り漢江の清流に沿へる形勝地帯を併せ約十五万坪を所有し、農地及び果樹の経営に着手した。
大正七年四月二十二日に至り前記の匿名組合并に京拓植部の経営体を買収し、資本金参拾万円の朝鮮農林株式会社を創立し、京城府龍山区三坂通二四四番地の一一に本社を置き、現業地は住宅地経営は京城府及び仁川府内并にその近郊に、山林経営は全羅南道長興郡、慶尚北道青松郡に、農業経営は全羅南道長興郡に夫れぞれ事業を拡げた。
ここで注目したいのが、「旧朴泳孝別荘所在地」という記述である。
朴泳孝は、朝鮮王朝の名門・潘南朴氏の出身で、哲宗の娘・永恵翁主と結婚して王室の一員となった。若くして開化派の中心人物となり、1884年、金玉均らとともに甲申政変を起こしたが、清国軍の介入によってわずか3日で失敗。日本へ亡命し、反逆者として官職を剥奪された。
1894年、日清戦争を機に帰国して復権し、内務大臣として改革を主導したが、翌年再び失脚して日本へ亡命。1907年に帰国して宮内大臣となったものの、高宗の強制退位に反対して済州島に流された。
ところが、1910年の韓国併合後は日本から侯爵の爵位を与えられ、朝鮮貴族会会長や朝鮮総督府中枢院の要職を歴任するなど、植民地統治体制の有力者となった。
その朴泳孝が、京城郊外の狎鴎亭里に広大な別荘地を所有していた。1912年の土地調査簿と1913年の地籍原図から、その位置と範囲を確認することができる。
朴泳孝と狎鴎亭との関わりは甲申政変以前にさかのぼる。政変に失敗して亡命した際に土地が没収され、その後の復権に伴って取り戻した可能性も考えられるが、この点はさらに検討が必要である。
『原三渓翁伝』によれば、原富太郎の原拓植部は、1914年には漢江の北岸から南岸にかけて、合わせて約15万坪もの土地を「所有」していたという。
そして、こうした土地取得の実務を現地で担っていたのが、佐藤虎次郎であった。
この時期は、朝鮮総督府による土地調査事業の最中であり、土地の権利関係を確定する制度も整備の途上にあった。土地調査簿や地籍原図にも記載漏れや誤記があり、これだけですべてを明らかにできるわけではない。
しかし、当時の地図や土地調査簿、地籍原図を照合し、さらに『原三渓翁伝』のような記録と突き合わせると、それまで単なる地名や面積の数字でしかなかった土地取得の実態が、具体的な場所と所有者の姿を伴って見えてくる。
萬玉岩吉という一人の実業家が、龍山の日本軍兵営建設に伴う地域の変貌のなかで土地を集め、それが原富太郎らの手に渡り、やがて朝鮮農林株式会社の事業へと組み込まれていく。
さらに、漢江沿いの狎鴎亭では、甲申政変から韓国併合までの政治的激動を生き抜いた朴泳孝の別荘地も、日本人実業家の土地事業と結びついていた。
土地調査簿に記された一筆一筆の土地を追っていくと、そこから近代朝鮮の政治や経済、そして日本人による土地取得の具体的な姿が浮かび上がってくる。
地籍アーカイブを使うと、こんなことまでわかるのである。
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