私が初めてJSAに入ったのは1976年3月である。
当時、現在の第3哨所(当時は第5哨所)から「帰らざる橋」の方向には、大きなポプラの木が立っていた。
夏になると葉が茂り、橋のたもとの哨所(当時の第3哨所)への見通しを遮る。その枝を国連軍(米軍)側が剪定しようとして起きたのが、同年8月18日のポプラ事件(斧蛮行事件)である。
剪定作業をやめさせようとした北朝鮮側の警備兵と米兵が乱闘になり、アーサー・ボニファース大尉とマーク・バレット中尉が死亡した。
剪定の作業員は韓国人だった。当時のJSAの国連軍側警備は米軍が主体で、韓国軍が警備を担当していたわけではない。ただし、米軍部隊には韓国軍から配属されたKATUSA(韓国軍支援団)の兵士も勤務していた。
改めて事件前の写真を見ると、このポプラはかなり大きな木だった。
1976年3月は、まだ文字通りの「共同警備」が行われていた時代である。共同警備区域(JSA)が北朝鮮人民軍側と国連軍側に分割されるのは、このポプラ事件後のことである。
そのため、この時点では、現在のように休戦会談場の外側にコンクリート製の軍事境界線はなく、会談場の中では、机の上を通るマイクのコードが事実上の軍事境界線となっていた。
キャンプ・キティホークから休戦会談場へ向かう際にも、途中で最初に通る哨所は北朝鮮側のものだった。人民軍兵士のすぐ前を通り過ぎ、八角亭前へ入っていくのが当時のルートであった。
ポプラ事件からちょうど10年後の1986年8月18日、キャンプ・キティホークは、事件で死亡したアーサー・ボニファース大尉の名をとって「キャンプ・ボニファース」と改称された。
その後もJSAは、一般の観光地とはかなり違う場所だった。
1990年代までのJSAツアーでは服装チェックが厳しかった。ブルージーンズはもちろん、カラージーンズもダメ。ノースリーブ、ミニスカート、スニーカー、かかとにストラップのないサンダルもダメ、とされていた。
1990年代に入ると、JSAの国連軍側警備でも韓国軍が次第に前面に出るようになった。
1991年には、軍事停戦委員会の国連軍側首席代表に初めて韓国軍将校が就任した。北朝鮮側はこれに反発して軍事停戦委員会本会議への出席を拒否するようになった。その後もしばらく当直将校間の会合などは行われていたが、それも次第に途絶えていった。
こうしてJSAのあり方そのものが変化していったが、韓国軍が警備の前面に出るようになってからもJSAツアーは引き続き行われ、厳しい服装チェックもそのまま続いていた。
ただ、この服装については、それ以前から細部まで統一された明確な規則や基準があったわけではない。
実際には、キャンプ・ボニファースでチェックする兵士の判断に左右される部分がかなりあった。率直に言えば、その時々の兵士の「見立て」や「気分」次第、というところもあった。
そこで旅行社側は、専属ガイドの経験をもとに「この程度なら大丈夫」という無難なラインを決めていたのである。
理由をガイドに尋ねると、「北から貧しく見られるから」とか、「アメリカの手先だと思われるから」といった説明が返ってきた。
しかし、少なくとも私には、かなり後付けの説明のように聞こえた😄
服装について統一された明確な基準があったわけでも、合理的な理由が示されていたわけでもない。
しかも、兵士が一度「ダメ」と言ったものは、撤回されない。
そこで旅行社は、替えの靴やスカート、ズボンなどをバスに積んでいた。キャンプ・ボニファース内にあった旅行社の出先にも、着替え用の服や靴が用意されていた。
要するに、服装そのものを美しく整えるというより、いったん「ダメ」と言った兵士にも最後に「OK」と言ってもらえる形を作る、という面があった。
だから、着替えた結果が格好いいか、見てくれがいいかなど、問題ではなかった。
私も何度か、学生にどう見ても似合わないスカートをはかせたり、バスの運転手から靴を借りてはかせたりしたことがある😄
そんなとき、学生から、
「なんでこんな妙ちくりんな格好をするんですか? 北側から見たら、かえっておかしいんじゃないですか?」
と言われたことがある。
なるほど、言われてみればその通りである。
そこで初めて、これは本当に「北朝鮮側からどう見られるか」という問題なのだろうか、と疑問に思った。
そもそも「安保観光」には、ある程度の「危険」や「緊張感」が必要とされた。
軍側には当然、規律や安全管理という理由があった。一方でツアー会社にとっても、JSAツアーは一般の観光より料金が高く、その特別感を支える意味で「緊張感」は重要な要素だったと思う。
南北関係が融和ムードに向かった時期には、逆にバスの前後に装甲車を付けたり、出発前に兵士がバスの前で拳銃に実弾を装填し、
「いま皆さんの警護のために実弾を装填しています」
とガイドが説明したりすることもあった。
ブリーフィングのあとに、「何か起きても責任を問わない」という趣旨の書類に署名させるようになったのも、私の記憶では1990年代半ば以降だったと思う。
「JSAツアーは服装チェックが厳しい」という話も、かなり早くからガイドブックなどで知られるようになっていた。
ところが、ある日本の女子高校の修学旅行で、制服のミニスカートをめぐって大騒ぎになったことがあったという。
この話は、2001年にJSAへ行ったとき、うちの女子学生をナンパした韓国軍兵士のK君から聞いた。
休戦会談場のあるJSAからキャンプ・ボニファースへ戻ると、土産物屋での買い物とトイレ休憩になる。
その間、案内してくれた兵士たちは、見送りというわけでもないのだろうが、外に立っていた。
ほぼ全員が背が高く、名の知れた大学に在学中で、英語も不自由なく話した。時には日本語のできる兵士もいた。
「一緒に写真を」と頼むと、気軽に応じてくれる兵士も多かった。
レンタル携帯電話を持つ学生が増えてくると、「電話番号を教えて」と言う兵士まで出てきた。
アメリカの大学に在学中だというK君も、そんな一人だった(上掲写真は別人)。
K君が休暇でソウルに出てくると、私も一緒に飲むことになった。その席で聞いたのが、この女子高生の話である。
その女子高校では、あらかじめ「極端に短いスカートはダメ」と生徒に伝えてあったという。
ところが、「スカートは絶対に短くないとイヤ」という女子高生が何人かいた。
その格好でキャンプ・ボニファースまで行ったが、案の定、服装チェックで引っかかった。
教師、添乗員、ガイドが説得し、上から別のスカートをはかせようとした。
しかし何人かは、
「やだ」
「ダメなら行かない」
と頑として聞かなかった。
韓国軍側も、とうとう将校まで出てきて何とかしようとしたが、どうにもならなかった。
結局、その女子高生たちだけは例外扱いとなり、短いスカートのままJSAに入ることになったという。
どうも、そのあたりから服装チェックが少しずつ緩くなったような気がする😄
もちろん、歴史的に説明するなら、1990年代末から2000年代にかけて南北関係が変化し、南北首脳会談などを経るなかで、JSAを取り巻く環境そのものが変わり、服装規制も次第に緩和されていった、と説明した方が説得力があろう。
しかし私は、案外あのミニスカートの女子高生たちが強引に突破してしまったことで、
「ここまで厳しく言ってもしょうがない」
という空気が生まれたことも、小さなきっかけの一つだったのではないか――などと思っている。
まあ、これは史料のない私の与太話である😄
現在も、臨津閣を起点に第3トンネルや都羅展望台などを巡る「板門店ツアー」「DMZ(非武装地帯)ツアー」は行われている。
ただし、「板門店ツアー」と称していても、かつてのように板門店の共同警備区域(JSA)に入り、休戦会談場を見学するものではない。JSAへの一般見学ツアーは現在も中断されたままである。
2026年10月現在







