本稿は本ブログの
のうち、紙面の空白に関する部分を再検討し、修正したものです。あわせてお読みください。
◆差押えられた紙面の空白
1936年8月24日夕刻に発行されるはずだった「8月25日付夕刊」の紙面を見ると、東亜日報のデータベースでもNAVERニュース・ライブラリーのデータベースでも、2面中央部に掲載された孫基禎の表彰台上の写真の右側に大きな空白がある。
この空白は、朝鮮総督府の検閲によって記事が削除された跡とする説がある(蔡白「『東亜日報』の日章旗抹消事件研究」『韓国言論情報学報』第39号、2007年)。ところが、問題とされた「日章旗が消された写真」がなぜそのまま残されたのか、また空白部分にはどのような「不穏当な記事」があったのかについては、明らかにされていない。
李吉用の供述では、「(府民館で)活動写真を上映すべき計画発表の記事を掲載し、其の次欄にマラソン優勝者孫基禎の写真を掲出」する予定だったとなっている。したがって、この空白部分には、翌8月25日から予定されていた府民館上映会の記事が組み込まれ、写真と一体となった告知の文字部分があったと考えられる。
◆図書課による新聞の検閲
この時期、発行される新聞は、日本語新聞・朝鮮語新聞のいずれも、朝鮮総督府警務局図書課による検閲の対象となっていた。ただし、書籍や雑誌のように発行前の原稿を審査する「事前検閲」ではなく、新聞の場合には、印刷・発行と並行して完成紙面を納本し、迅速に検閲する方式がとられていた。
図書課は1926年に新設され、検閲業務が高等警察課から移管された。新聞・雑誌などの出版物に加え、著作権、検閲済み出版物の保存、活動写真フィルムの検閲なども所管し、「言論・映像・出版物」に広く関わる検閲・管理部署であった。
朝鮮語媒体の検閲も行うため、奏任官クラスの上級専門職である通訳官、判任官クラスの実務担当者である通訳生や朝鮮人官吏、それに補助的専門職である朝鮮人嘱託などが配置されていた。
この図書課員の一人、兼田要が書いた「新聞の取締に就て」という記事が、『警務彙報』1936年9月号に掲載されている。『東亜日報』の日章旗抹消事案が8月25日であることを考えると、少なくとも記事の骨格は事件以前にできていた可能性が高い。
新聞は發行し始めたら各社共一刻を爭つて頒布するものであるから、明日でも寛り打合せてなぞ呑氣な處置は勿論出來ないので、差押するか、不問にするかを急速に判斷して決定する必要がある。それで新聞を見た刹那に於て、或は電話口で話して居る間に認定し、一旦方針が定つたら即決即行寸時の猶豫を許さないのである。
さらに、「治安妨害」として取り締まる項目の一つには、次のようにある。
植民地ノ獨立運動ヲ煽動シ、又ハ內鮮人ノ對立的、差別的言辭ヲ用ヒ、其ノ他內鮮人ノ融和ヲ阻害スル事項
そして記事の削除に関してはこのように記述している。
其他規則の上には明記してないが、實際上の行政處分の一種に削除と注意がある、よく新聞の一部に白紙の部分があるものを頒布する場合があるが、此れが削除處分にしたものである。此の削除處分はその新聞が未だ讀者の手に頒布せられない內に當局に於て削除を命ずるもので、新聞社としては白紙の部分のある不體裁のものになるので、苦情を洩す事があるが、全紙が差押處分になる事に比較すれば不體裁位は忍ぶべきであり、寧ろ寬大なる處置に感謝すべきだと思ふ。
(下線部は引用者による)
上に挙げた『東亜日報』8月25日付夕刊の空白は、まさにこの「削除処分」によって生じたものと考えられる。
この部分には、東亜日報の読者を対象として京城府民館で行われるベルリン・オリンピックのニュース映画上映会の告知記事があったと思われる。同内容とみられる記事は、8月25日付朝刊にも掲載されている。したがって、告知記事の文字そのものに、「治安妨害」として削除を命じられるような内容があったとは考えにくい。
むしろ、その後ただちに問題とされたのが孫基禎の写真であったことを考えると、図書課が削除を求めた対象は、告知記事の左側に置かれた写真だった可能性がある。
ところが、その写真は紙面にそのまま残っている。
◆検閲とその対応―一つの仮説
1927年4月30日付『東亜日報』の本社落成記念号には、新聞製作の工程表が掲載されている。
整版して紙型を取り、鉛版を作って輪転機で印刷を始める。刷り上がった新聞は図書課に納本され、検閲を受ける。図書課では、兼田が「新聞を見た刹那に於て、或は電話口で話して居る間に認定し、一旦方針が定つたら即決即行寸時の猶豫を許さない」と記しているように、きわめて短時間のうちに処分を判断した。
削除命令が出れば輪転機を止め、指定された箇所を版から削除・修整したうえで、再び印刷を行う。
当時の東亜日報社屋は3階建てで、1階に営業部・印刷部・発送部、2階に社長室・応接室・編集局・校正室、3階に写真部・大講堂・倶楽部などがあったとされる。
1927年4月30日付東亜日報紙面より
検閲結果は電話で東亜日報側に伝えられ、編集側から印刷部門へ紙面の修整が指示されたと考えられる。
ここで一つの仮説が成り立つ。
警務局図書課が問題視したのは、告知記事とともに掲載された孫基禎の写真だった。しかし、実際には告知記事の活字部分だけが版から外され、写真はそのまま残されたのではないか。
孫基禎の胸の日章旗を抹消する作業には写真部員が関与した。3階にあった写真部で写真の修整が行われ、さらに製版工程で日章旗部分を処理した亜鉛版が作られた。この亜鉛版は1階の印刷部に渡され、活字とともに紙面に組み込まれた。少なくとも現時点で確認できる関係者の取調調書からは、編集局長や印刷部門に、日章旗を意図的に抹消したことが事前に伝えられていたことを示す記述は確認できない。
検閲の結果を受けて削除作業を実際に行う印刷部門の担当者には、その理由まで詳しく知らされていなかった可能性がある。また、写真に細工が施されていたことも知らなかったと考えられる。そうした中で、図書課から新聞社への電話、あるいは新聞社内で編集側から印刷部門へ指示が伝えられる過程のどこかで、本来「写真」を対象としていた指示が「告知記事の削除」として受け取られたとすれば、活字部分だけが外され、写真が残ったことも説明できる。
そして再び輪転機が回り始めた。
刷り上がった紙面が再度図書課に届けられると、問題となった写真が依然として残っている。そこで図書課は、今度は「削除」ではなく、夕刊そのものの発売頒布禁止・差押え処分に踏み切った――。
このような経過だった可能性はないだろうか。
東亜日報社への立入り捜査が同日午後7時30分から始まり、写真の原紙や亜鉛版が証拠品として押収されたことも、夕刊の発行時刻から考えるとやや遅い。一度「削除」の指示が出され、その後の再検閲で「差押え」に切り替わったとすれば、この時間差も不自然ではない。
東亜日報社では、家宅捜索や社員への事情聴取が続く一方で、8月25日付朝刊の編集・製版作業も進められた。
李吉用の供述によれば、府民館での映画会は当初8月25日から予定されていた。しかし、実際に朝刊に掲載された告知では、上映日は「26日から28日まで」となっている。
24日夕刊が差押えとなって発行できなくなったため、25日からの開催を読者に告知できなくなり、その結果、上映開始を1日遅らせたのだとすれば、「上映会を25日から予定していた」とする李吉用の供述と、実際の開催が26日からだったこととの食い違いも説明できる。
警務局図書課による新聞検閲の実態と、東亜日報の紙面製作の工程について、かなり具体的なことが分かってきた。
そこで今回は、東亜日報の「日章旗抹消事案」の紙面に残された大きな空白が、どのような経過で生じたのかについて、新たな仮説を提示してみた。
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