戦国時代の家紋の中でも特に有名な「六文銭(六連銭)」は、真田家の象徴として知られています。
一般的には「三途の川の渡し賃」としての意味が語られ、真田家が「死をも恐れぬ覚悟」を示していたとされています。
しかし、実はこの解釈は後世の創作であり、六文銭の本当の由来は別のところにあるのです。
今回は、六文銭の本当の意味を紐解き、そこから見えてくる真田家の精神を探っていきます。
1. 六文銭は「三途の川の渡し賃」ではない?
「六文銭=死の覚悟」という説は広く知られていますが、歴史的な記録を調べると、この解釈には疑問が生じます。
🔹 大坂の陣で六文銭は使われなかった?
大坂の陣において、真田信繁(幸村)の軍勢が掲げていた旗には、六文銭が描かれていなかった可能性が高いのです。
『福富茂左衛門覚書』という当時の記録には、
「あかねに大もくの文ノのほりはいぐんニ見へ申候」 と書かれています。
また、大坂城天守閣に所蔵される『大坂夏の陣合戦図屏風』にも、信繁の軍勢の旗には六文銭ではなく、真っ赤な幟(のぼり)が描かれています。さらに、これらの幟には「南無妙法蓮華経」という題目が書かれていたことが分かっています。
つまり、信繁は大坂の陣で六文銭ではなく、仏教的な意味を持つ旗印を掲げていたのです。
では、そもそも六文銭とは何だったのでしょうか?
2. 六文銭の本来の由来とは?
六文銭は、真田家が独自に生み出したものではなく、実は真田氏のルーツである滋野一族(海野氏・望月氏・真田氏)に広く用いられた家紋でした。
🔹 六文銭は戦の象徴? 『滋野通記』によると、海野小太郎が「水島の戦い」に際して、海面の渦が銭が連なったように見えたことから、旗標にしたと伝えられています。
🔹 「連銭葦毛」との関係 また、戦国時代の軍記物では「連銭」という言葉がたびたび登場します。「連銭葦毛(れんせんあしげ)」とは馬の毛色を指し、海野氏の本拠である信濃小県郡(現在の長野県東部)には、名馬を育てる望月牧がありました。
つまり、六文銭は元々「死の覚悟」ではなく、「戦の象徴」「馬と結びついた繁栄の証」として使われていた可能性があるのです。
🔹 六文銭と雁金紋の共通点 真田家では、六文銭と並んで「雁金(かりがね)紋」も用いられました。中国では穴の開いた銭を「鵞眼(ががん)」と呼び、これはガチョウの目に似ていることから名付けられたものです。
つまり、六文銭と雁金紋はどちらも「富と繁栄」の象徴として用いられた可能性が高いのです。
3. 真田の精神とは何か?
こうした背景を知ると、六文銭が単なる「死の覚悟」ではなく、 ✅ 戦に臨む者の誇り ✅ 知略と生存戦略の象徴 であったことが見えてきます。
これは、真田家三代の生き方にも表れています。
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