(1962/岡村孝一訳、
ハヤカワ・ミステリ、1968.5.15)
アラン・ドロン主演
ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の映画
Diaboliquement vôtre(1967)の邦題が
そのまま原作の邦題になっています。
映画のスチールを使った
カバーのかかった版も出たようですが
手許にあるのは残念ながら
カバーなしの裸本で
むかし買った時の値段は300円、
読むのは今回が初めてです。
自動車事故で
九死に一生を得た主人公は
周囲の人間が
自分の記憶とは違う名前で自分を呼び
それを指摘すると
一時的な記憶喪失だと言われます。
その上
本来の自分なら
憶えているはずもない
別の人物の記憶も頭の中にあって
いったい自分が何者なのか
混乱するばかり。
自分は何者なのか
いったい何が起きているのか……
というお話です。
結末は
バッド・エンディングで
まさにノワールという感じ。
映画の方も
このバッド・エンディングを
踏襲しているのかどうか
気になるところですが
残念ながらソフトは品切で
中古でも高額商品になっており
気軽に確認できないのがもどかしい。
本来の自分であれば
もっているはずのない記憶を
もっているのはなぜか
という謎解き自体は
呆気ないんですけど
その他の部分で
いろいろと
興味深い点の多い作品でした。
たとえば
館の中に閉じ込められており
何度も逃亡を図ろうとする
という状況が
つい最近読んだ
ボアロー et ナルスジャックの
『影の顔』(1953)を
彷彿させるところがあること。
また
本書が発表されたのと同じ1962年には
セバスチアン・ジャプリゾが
『シンデレラの罠』を上梓しており
やはりアイデンティティ・クライシスを
ストーリーに取り入れていること。
さらに、前年の1961年には
都筑道夫が『やぶにらみの時計』を
書下しで刊行しています。
都筑の作品も
自分とは違うアイデンティティを
押しつけられる男の話で
この手の物語が、この時期
立て続けに書かれているのは
興味深いですね。
ちなみに都筑道夫は同じ1961年に
『猫の舌に釘をうて』を出しており
『シンデレラの罠』の趣向を
先取りしていることは
前にも書いた通り。
あと
この時期のフランス・ミステリは
自動車絡みの話が多く
ミッシェル・ルブランの
『殺人四重奏』(1956)
『未亡人』(1958)
『罪への誘い』(1959)
フレデリック・ダールの
『蝮のような女』(1957)
『甦える旋律』(1956)
『並木通りの男』(1962)等々
アリバイ・トリックに使われたり
凶器になったりするなど
多かれ少なかれ自動車が
重要な役割をはたしています。
『蝮のような女』の訳者あとがきで
「車が重要な小道具として
使われている」ことを
ダール作品の
ライトモチーフのひとつに
あげてましたけど
こと、自動車に関しては
決してダールだけのことではないことが
今回のトーマの作品や
上にあげたルブランの作品からも
分かるのではないでしょうか。
ちなみに
今回のトーマ作品を映画化した
デュヴィヴィエ監督も
自動車事故で亡くなっているのは
妙に因縁めいてますけど
フランスではこの手の事故が
多かったということでもありましょうか。
原題の
Manie de la persécution
というのは
手許の辞書だと
「迫害妄想狂」
という訳語になっています。
主人公が
自分は監禁されていて
命を狙われている
と主張している状態を
指している言葉です。
この言葉は
物語中にも出てきて
「迫害妄想症」
と訳されています。
タイトルとしては即物的なので
映画の邦題を流用して
正解だったかも知れませんけど
「あなた」とは誰のことで
その「あなた」を「悪魔のよう」だと
誰が思っているのか
よく分からないのが
難点かも。
映画を観れば分かるのかなあ。(´(ェ)`)