$圏外の日乘-『やぶにらみの時計』中公文庫版
(1961/中公文庫、1975.7.10)

都筑道夫の第1長編を読み直してみました。

上の本はまだ自分が郷里にいた頃
中学生だった頃ではないかと思いますが
新刊書店で買ったものです。

カバー・イラストは真鍋博。


ある朝、浜崎誠治が目を覚ますと
妻だと称する見知らぬ女から
自分が雨宮毅という
雨宮商事の社長だと言われてしまう。

何か誤解があったのだと思って
自分の住んでいたアパートに戻ってみると
同棲していた女は自分のことを知らないと言い
隣人夫婦も他人のような接し方をする。

まるで時計がやぶにらみになって
時間が歪んだみたいに
自分を取り巻く世界が
いきなりおかしくなってしまった男を
主人公とする、スリラーです。


都筑道夫の初期長編は
いずれも凝りに凝ったスタイルを持つ
「超本格」といわれたことがあり
翻訳ミステリばりの
スタイリッシュな書きっぷりと
プロット上の工夫による驚きに
しびれたものでした。

本書の場合、メイン・トリックは
ワン・アイデアなので
いまだに記憶に残っています。

だから、ミステリとしての驚きを
再び味わうということは
できませんでしたが
その他のところで
いろいろと面白いところがありました。


たとえば
本書『やぶにらみの時計』では
二人称で話が進むという
スタイルを採っています。

当時、ミシェル・ビュトールの小説
『心変わり』(1957)が訳されて
そのスタイルを借りたのだとか。
(邦訳は1959年11月です)

今では二人称のミステリも
いくつかありますので
その意味では
新鮮さは薄れたかもしれません。

ただ今回、読み直して思ったのは
表面上は二人称の語り口を
採用していますけれど
結局は一人称のヴァリエーション
ではないか、ということでした。

『心変わり』の方は読んでませんので
(いちおう古本で買ってはありますが Σ\( ̄ー ̄; )
どういう使われ方をしているのか
比較考察することはできませんが
『やぶにらみの時計』の場合、
視点人物(主人公)にナレーター(語り手)が
寄り添って語っているだけで
それが証拠に
視点人物の知らないペダントリーを
得々として(といっては悪いけれどもw)
披露する語りがあったりします。

これが三人称だと
ペダントリーを披露するたびに
語り手が表面に出てきて
古臭い小説のように見えてしまう。

それを避けるためもあっての
工夫なのかもしれないわけで
もし、作者・都筑道夫が
ある場所でいっている通り
視点人物と読者との距離感をなくすためなら
ダシール・ハメットの三人称スタイル
別のいい方をすれば
純粋なカメラ・アイで書いた方が
よほど距離はなくなるかと思います。


ただ、ペダントリーを披露するというのは
いってみれば都筑の癖なのですね。

それが上手くハマれば
無類に面白い語り(ナレーション)になりますが
時として鼻につく場合がなきにしもあらず。

基本的に、説明はできても
描写はできない作家だったんじゃないか
とか、生意気なことを考えてしまいましたが
そんなことをいう自分は
描写ができないからダメだとは思わない。

どんな小説にも〈語り手〉というのは
厳然として存在するものなので
それならむしろ
語り手の語り口で個性を出せばいいというか
都筑のように
ペダントリーが骨がらみになっている作家は
語り手をキャラクターとして
前景化した方がいいのではないか
と思ったりします。

それが見事に功を奏しているのが
第4長編の『誘拐作戦』(1962)ではないか
と思いますが、それはまた別の話。


と、まあ、こんなことは
読んでいた当時はもとより
今、読み直し、この記事を書くまで
ぜーんぜん考えてなかったことで
こういう新たな考えが浮かぶから
やっぱり再読というのは大事ですね。

初読のおりは、ただただ
書き方(スタイル)がカッコいいなあと
思ってただけでした。

我ながら素朴だったなあ。


ちなみに『やぶにらみの時計』、
今は『女を逃すな』(光文社文庫)に
収録されているようなので
簡単に読むことができると思います。
(Amazon でも買えるようだし)

各章の冒頭に載っている
真鍋博のしゃれたイラストまで
復刻されているのかどうかは知りませんが
興味がおありの方は、そちらで。