(リマスター版)
造山古墳4(岡山市北区)2019年3月20日
岡山市北区ある5世紀前半に築造された古墳です。一世紀も前の大正10年、国の史跡に指定されました。
麓に立つ岡山市教委による案内板は雄弁に語ります。
「長径350mの前方後円墳。履中天皇陵についで全国4位の規模をもち、上・中・下の3段の墳丘をつくり、埴輪円筒列をめぐらせてあった。」とあります。
全国16万基といわれる古墳の中で、墳長規模が300ⅿを超える
8基の中で、墳丘に登って見学できる全国最大の古墳としても有名です。ちなみに墳丘に登れる大きな古墳2位はおとなりの作山古墳
の280mであり、吉備路にはヤマト政権と対峙した王国が存在した証でもある。
古墳時代中期に入ると状況は一変します。
古墳の造営地が奈良盆地から生駒山地を超えて河内平野に移るのです。そして、これまで巨大古墳の最大規模は300mで、200m級のものが主流でしたが、これをはるかに凌ぐ古墳が築かれるようになりました。河内平野の古市・百舌鳥古墳群で最初に造営されたのは津堂城山古墳(208m)ですが、続く仲津山古墳(全長290m)以降には、石津ヶ丘古墳(360m)、誉田御廟山古墳(425m)、大仙古墳(486m)と、300m級を優に超えて、400m級の古墳が築かれます。これらヤマト王権の王墓の巨大化は、この時期に王権の勢力が強大化し、その政治基盤が確立したことを示します。
これら河内平野の巨大古墳とほぼ同じ時期、吉備にも巨大な古墳が築かれていました。それが造山古墳です。
造山古墳が築造されたとする5世紀第1四半期は、いろんな説があるものの、概ね応神天皇の治世下であったと考えられています。
『日本書紀』には、応神天皇が吉備国に行幸した際に、御友別(ミトモワケ)という人物が兄弟そろって饗応を開き、天皇はその奉仕に感動したことが記されています。ミトモワケは、最初に吉備を征圧した吉備津彦(キビツヒコ)と稚武彦命(ワカタケヒコ)の後裔にあたり、妹は応神天皇の妃になっていました。このように、天皇家と吉備地方はもともと繋がりがあったうえに応神天皇のときに特に結びつきを強くしたようです。
吉備地方は、荒神社の石棺や陪塚の石室に見られる九州地方とのつながりや周辺から渡来系の遺物が出土することなどから、物資や情報が集まる交通の要衝でした。これらの交易によって多くの富が蓄積され、巨大古墳を築造するための経済的な土壌が整っていたのだと考えられます。
こうした土地に応神天皇とのつながりで畿内から巨大古墳を造営するための土木技術が伝わり、造山古墳のような巨大古墳の築造に繋がったのかもしれません。造山古墳は、応神天皇の御陵とされる誉田御廟山古墳と同じ設計原理を持つとも考えられています。
しかし、竪穴式石室と目される造山古墳の埋葬部は未発掘であり被葬者についての情報はほとんどありません。畿内の大王墓に匹敵する巨大古墳の被葬者は一体どのような人物だったのでしょうか。
その造山古墳に葬られている人物は、通説では大和(中央)政権にきっ抗した吉備(地方)政権の大首長とされています。
ですが筆者は別の視点を持ちます。少なくとも築造時に限れば、全国最大規模と判断される最大規模観の達成と、倭国大王陵に想定されている同時期の巨大な前方後円墳との墳丘形態の類似性から、倭国の政治体制の頂点にある大王とみてよいのではないかと。
(速報)
伊藤有希さん札幌大会優勝おめでとう。