(リマスター版)
造山古墳3(岡山市北区)2019年3月20日
渡り廊下のような長い前方部の崩落現場を過ぎると緩やかな斜面
高度差10ⅿ余りの後円部へ登り詰めると径200ⅿ余あろうかとみえる平坦部が拡がります。古墳全体は三段築成で、表面には葺石がふかれ、各段には円筒埴輪も立て並べられていたようです。
残念ながら墳丘上には一切の痕跡は見当たらず、ほのぼのとしたピクニック広場のようなそっけなさを覚えます。
墳頂には隆起斜道(後円部に登道)や掘割墓道(墓壙に至る道)が設けられていたと推定されているが、中世末には城砦と改変さていたため、相当の部分が作り直されていると推測されている。
後円部の頂は平坦で斜面の傾斜が強く、三段三斜面の築成であり上斜面の傾斜が特に急になっている。それは禁忌(きんき)あるいは畏忌(いき)の考え方と結びついていたと考えられています。
平坦部は、安土桃山時代に羽柴秀吉の毛利攻めの際、毛利方が陣地を設けるために頂上を平らにしたことによるものとされます。
この巨大古墳はもともとあった低丘陵を削り取ることで造成されており、その際に生じた土を盛り土しながら墳丘を成形していると思われます。周濠を掘って土を確保する必要がなかったため、大規模な周濠は確認されておらず、現時点では後円部の一部に濠が確認されている程度とされています。
造山古墳が築造された時期については、出土した埴輪の類型から石津ヶ丘古墳(かみいしづみさんざいこふん)と誉田御廟山古墳の間、須恵器の編年から5世紀第1四半期に築造されたと推定されています。当時の倭国は朝鮮半島では高句麗の好太王に撃破されて、
半島経営に行き詰まり、いわゆる倭の五王による遣宋使によって、宋の柵封体制下に入った時期にあたります。
後円部からは北東面の田園を一望に見渡すことができます。この平野は標高5ⅿ余りで、古代児島湾が海進していたのかもしれない。それが自然の周濠の役割を果たしていたのかもしれません。
ここから見える山並みは古墳時代から変わっていないのではないでしょうか。北面側には前方部との付け根に造り出し部分が残っています。残念ながら、南東面は民家が立ち並び大きく改変を受けていました。