大学・学問裏街道 -5ページ目

急に忙しくなった

このところ、大変忙しいです。


普段の仕事、大学講師の出張、原稿の執筆・校正、電車内の読書、テストの採点、電話相談・・・


忙しくなると、考える時間が減って、悩んでいる余裕がありません。


苦悩のブログも減ってきました。


ぎゃくに、ワーカホリックのほうが心配です。


それと、独創性も落ちたかも。


調子が悪い時の方が、悩んでいいものが書ける。


皮肉なものです。


最近こちらお休みです

障害者にかかわるようになりました。


原初的な意識に触れる思いです。


始原的純粋性というか。


クレーマーや「会社の中の困った人たち」を発達障害とか人格障害とレッテル貼りする人たちがいますが、きちんと言葉の意味を把握して差別なく思いやりをもって接するのであれば、そういう人たちの根本人格を見抜く力は求められます。


しかし、あくまでも自分の力で十分に観察を関わりをもってのことですが。


安易な、素人精神医学は無益なだけです。


いつまでたっても進歩がない

まあ、開設以来ずっと同じことを書き続けてきた。


自信がない。


今日も、大学のゼミのアンケートがあった。


結果を見るのもいやだ。


評価されることがたまらない。


別の職場でも疎外されている。


ようするに、自分が主人公でいられる場がどこにもない。


家でも小さくなっている。


ひたすらマゾのように、耐えているのを快感にする。


でも、こうやって組織にボロボロにされ、周囲の視線にオドオドするのが、生き甲斐かもしれない。


ひとりきりになると、もっと何もできなくなる。


組織にズタズタにされることが、創作意欲をかきたてる。


まあ、こんな生き方しかできないのだろう。


残念ながらこのまま終わるんだろうなぁ

終わるのは、ブログではありません。


わたしのキャリアもそうそうアップしないでしょう。


ライターとしての独立や、いやな組織への就職も、無理でしょうね。


このまま終わりそうです。


公式見解は、別のところに書いていますので。


死を匂わせるのはよくない

ごめんなさい。


いままで、ちょくちょく「死にたい」ともらしてきたのが、うつ系の人たちを心配させて気にさせたかもしれません。


わたしの、多少「演技性」のはいったSOS信号だったようです。


みなの気をひきたいというよりも、それほどの苦悩をどう表現していいのかわからなかった。


じっさい会ってみると、わたしはけっこう明るい中年(?)です。


文章を本業にしているので、ついつい過剰な演出になってしまいます。


ほんとうは、多くの人たちに「認めてもらいたい」という強烈な「名誉欲」が根底にあります。


そうです、「密かに目立ちたい」という自己愛です。


とくに、いままで学会で注目されず、無視されてきたのがこたえているようです。


もうアカデミズムに未練はないはずなのに、やはり「故郷」で認知されないのはとてもつらい。


どうにかして、「学者」としての名声を確保したい、そんな想いがあります。


とても、繊細で傲慢なわたしです。


チームワークのリーダーシップ

むらゆきさんに答えて。


団塊女性は、実質上のリーダー的存在ですが、待遇上は3人平等のチームメンバーです。


誰に決定権があるという制度上のきまりはありません。


それでも、どうしても「しきる」人がでてくるのは世の常です。


もちろん、彼女は福祉現場の経験もあって、一番事業について理解があります。


しかし、わたしの素っ頓狂な意見をとにかく頭ごなしに否定して、いかにも不快感を露わにします。


最近わかったのですが、彼女は自分の掌中で他人が動かないとひじょうに不快になるようです。


だから、異なる意見にはほとんど耳を傾けません。というよりも、頭を素通りするようです。


わたしの議論が学者的で、とてもじゃないが実践的に使えないのはよく自覚しています。


それでも、なぜこの人はこういうことをいうのだろうという「共感的想像力」がまったくないのです。


ただ、プロジェクトとしてはそれくらいのほうが、テンポよく進展します。


つまり、異質者の声に耳を傾けているとチームは動かないからです。


所長からも、わたしの協調性のない行動をたしなめられたので、わたしにも非はあります。


それでも、どんな狂った見解でも、いったん引き受ける度量が積極的傾聴力でしょう。


まあ、彼女の言う通りに動いている方が無難だし、事業も進むのでしょう。


強引に意見を通す必要もありません。


リーダーシップというものについて、深く考えさせられました。


何をしていいのかわからない

ちょっとちがう話題を。


勉強でも仕事でも、課題を目の前にしてまったくフリーズしてしまうことが度々ある。


この原型がつくられたのは、大学受験のころである。


それまでは、学校の日々の宿題と中間・期末のテスト勉強と、毎日の部活の練習を最低限やっていた。


べつに、なにか自主的に勉強するわけでもないし、クラブでうまくなるために自主練したわけでもない。


やらされる課題を最低限こなすという、まったく主体性のない青年期だった。


その後、大学や社会で、それなりに「自主的な」活動はしたが、それでも自分なりの工夫ができなかった。


いまの非常勤講師の授業でも、授業準備を全然しないし、学生にたいする授業の創意工夫にまったく熱意がない。


原稿も、締め切りがなければ書かないし、校正もまったくしない。


つまり、与えられた最低限の勉強や仕事しかしないのである。


とうぜん、お金も生活のための最低限を確保しなくてはとあせるが、それ以上に豊かになろうという発想はまったくない。


そして、与えられた課題でも、いやいややることがおおいから、目の前の仕事でフリーズしてしまう。


こうしてみよう、ああしたらうまくいくかもしれない、などと積極的に頭が回らない。


生きることに積極的な意欲がないのだ。


「しかたなく生きている」これが本音だ。


今回の仕事も、与えられた課題に対して自由裁量度はあるのだから、必死になって創意工夫すればもっと生産的な結果が出るはずだ。


それを、パソコンの前で茫然としている時間が長い。


ようするに、やる気と能力がないのだ。


じゃやめさせるよといわれたら、はいはいと引き下がるだろう。


ほんとうに、人生をなめている。


社会で生きていくことの意味が分かっていない。


こうして、ブログに愚痴を書くことだけが、唯一積極的意志でやっていることだ。


とにかく、人生が疲れる。


過労のような疲労ではなくて、なにか内側から情熱が喪失していくような感覚だ。


ひじょうに、ネガティブでできることならば何もしたくない。


でも、ときどき原稿ができあがあると、とてもうれしくなる。


それが、評価されたらもっとうれしいのだが、残念ながら2000部売れる本が精一杯だ。


いまも、このブログを書き終えたら、集中講義の採点があるのだが、これまた目茶苦茶手抜きだ。


できることなら、ほったらかしたい。


目の前の課題に誠実ではない。


すごく、サボりだ。


やっぱり、人生なめてる。


こんなことだから、生活も困窮する。


与えられた仕事の範囲内で、積極的意志を発揮する仕事ができないだろうか。


原稿でも、ちょっとでも査読がはいると、もうやる気をなくす。


いろいろと、編集者や査読者に注文をつけられると、どうしていいのかわからなくなる。


つまり、他者との関係性の中で仕事できないのだ。


ひっきょう、まったくの一人で孤独にものを書く作業を選ぶ。


しかし、それでは社会性がないから生活していけない。


ほんとうに、もう疲れました。


こんなことをいうと、何をぜいたくな、世の中にはもっともっといやなことを低賃金で働いている人たちが大勢いるといわれるだろう。


そのとおり、わたしは、人生をなめている。


体中に疲労物質とやる気のなさの虫が渦巻いている。


この積極性のなさが、ひきこもりと同じなのかもしれない。



チームワーク

むらゆきさん、おっしゃることとてもよくわかります。


ただ、嘱託職員3人チームなので、融通がききません。


そして、同じ福祉職場を見学に行っても、わたしだけ目の付けどころが違います。


だから、マニュアルを作るにしても、観点が違うので共通のフォーマットにならないのです。


そこで、形式化作業の前に理念的な意見交換をしようとするので、「間にも暇にも合わない」と言われるのです。


たしかに、福祉職場の人材育成の改善という同じ課題を背負っているのです。


なのに、その職場の問題点を洗い出す時に、まったく視点が異なるのです。


たとえば、「女性職員が3人集まると、いじめのような人間関係が発生する」と、施設長が発言したりします。


そうすると、彼女(一番年長のチームメンバー)は、「そういう施設長の女性観が問題だ」と反応します。


それに対してわたしは、女性の見方に問題はあっても、そういう発言の背後にある福祉職場の人間関係の複雑さに敏感に想像力を働かせます。


同じ「職場の人間関係」という問題ひとつをとってみても、感じ方考え方がすごく違うのです。


ですから、そのような問題解決の対策のためのアンケート調査をつくるにしても、まったく観点が違ってしまいます。


想像力や構想力の発想法が根本的に違うのです。


それは、団塊世代とわれわれとの違いでもあります。


職場の何を問題と感じ取るかのセンスが極端に違うのです。


ですから、そこを共通のフォーマットに落とし込むことがものすごく難しい。


ちょっとは、説明になったでしょうか。


最近、言葉が通じないならば、いっそのこと沈黙した方がましだとも思います。


妻との会話でもそういうことを感じます。


しゃべればしゃべるほど、問題がこじれてくる。


そんなこともあって、若い人たちは職場をすぐに辞めるのではないでしょうか。


改善よりも撤退。


ようするに、上の世代との感覚の違いに絶望感と無力感を抱いているのですね。


仕事ができていない

むらゆきさん、ありがとうございます。


仕事は、福祉職場改善のお手伝いをするような部署です。


わたしは、どうしても理念的なことを先行させて目の前の当面するマニュアル作りとかにとりかかれていない状況です。


緊急性、即効性もある程度必要ですが、中長期の人材育成の体制作りが求められています。


とにかく、目の前に迫るルーチンワークがまったくできません。


マニュアルをつくるにも、そもそも論に立ち返ってしまって、ぜんぜん生産的ではありません。


それに、もうプロジェクト開始からだいぶたっていて、早く現場に入ることが求められています。


わたしは、とにかく現場に入ってみて試行錯誤すればいい、そのために指導理念を固めればいいと考えているのですが、どうしても具体的な作業としては、詳細な業務手順書の作成が必要です。


戦争でいえば、わたしは戦略ばかり描いていて、武器調達を怠っているというかんじです。


ブログの性格上詳細を書けませんが、やはりわたしの抽象論がみんなの足をひっぱっています。


「あなたはいつまで研究者的態度をつづけるつもりなの、ここは仕事するところだから」と非難されてもしかたありません。


いずれにせよ、わたしには、ルーチンワークに落とし込む能力が欠如しています。


まず人間から

>むらゆきさん


おひさしぶりです。いつもありがとうございます。


他のメンバーは、1947年生まれと1982年生まれの女性です。


当初から、ずっといろいろと接し方を考えてきました。お昼ごはんや、帰り道でいっしょに話そうとか思いました。


しかし、ふたりともオン、オフのはっきりした人で、インフォーマルな会話は皆無です。


きょうも、ノミニュケーションなどでもっとお互いを知り合いましょうと提起したところ、まずはフォーマルな仕事上の会話でお互い理解し合うのが先決で、それ以外に話してもしかたないと言われました。


わたしは、仕事よりも何よりもまずは、人間同士としてのつきあいからはじまると考えています。


でも、「仕事でずれている」のだから、どうしようもないと言われます。


かなり、難しい状況です。