大学・学問裏街道 -6ページ目

ずれている私

今日職場の会議で、同僚から「あなたとは、仕事の話をしてももりあがらない」といわれた。


同じ対象を仕事上で観察しても、もりあがるポイントがその人とはずれているということらしい。


これは、いまの職場にかぎったことではない。


学問分野でも、わたしの言っていることは業界スタンダードから大きくずれている。


では、このブログを「もりあがって」読んでくださる方は、みんな「ずれて」いるのだろうか。


それとも、そういう人は「マイナーな」存在なのか。


読者の皆様、ご自身でどう思われますか。


わたしに共感できるあなたは、世間からずれている人なのでしょうか。


悲惨な職場状況

ついに同僚二人から、強い叱責を文書で受けた。


「あなたはチームワークに貢献していない」と。


そのとおりである。


チームの仕事の方針や内容は、私以外の二人で実質決められ、私はそれにアップアップと従うのみ。


あなたの仕事への意欲や関心が見られない、と言われる。


そもそも、仕事へのスタンスや取り組み方が全く違う。


わたしは、学問的な概念をもとの演繹的に課題を抽出する一方で、職場の聞き取り調査から得られた現場の実態の解析を突き合わせて、仕事を進めたいと考えている。


ふたりは、既存の解析ツールをもちいて、形式的に職場診断モデルをつくろうとしている。


とにかくお役所仕事で、形式化、形骸化、数量化、平板化などの解析に思える。


職場分析を、研修という観点からきわめて形式式主義的に分類把握しようとする。


それに対して、私がやってきたのは、職場訪問での聞き取りを中心として職場の抱える人的育成問題のリアルな姿を言語化することであった。


その結論は、各現場の課題として「職員の社会性の欠如」が大きく問題となっていることだ。


あいさつからはじまり、決められた仕事しかしない、向上心の欠如、コミュニケーション不全などのよくいわれる若者現象が職場をおおっている。


彼ら二人は、そのような質的現象には興味を示さず、ひたすら研修体制の不備を洗い出す作業に没頭している。


研修で何を改善するのかが見えてこない。


いわば、カリキュラム表の構築を最終目標としているようで、カリキュラムの内容や理念はどこかへ消し飛んでいる。


たしかに、職場研修は「人材育成と定着」「サービスの質の向上」を目的としている。


しかし、そのためにどのような内容のOJTやOff-JTが必要なのかという中身の議論を進めないまま、外的条件整備を仕事にしようとしている。


それでいいのかもしれない。


われわれの役目は所詮、講師になることではなく、講師や教育の体制作りなのだから。


下手をすると、講師へのお茶の出し方や上司の部下の叱り方のマニュアルづくりなんてことに、なるかもしれない。


やはりここは、職場研修のプロにアドバイザーになってもらってプロジェクトをまとめないと、素人三人では限界がある。


大変厳しい状況になってきました。


私は今、ストレス性の腸炎を患っています。


本気を出すと大変なことになる

もしも、いまの職場で、いまのわれわれのプロジェクトについて、わたしが本気で議論すると大変なことになる。


いつでも「そもそも論」からはじめるので、それを本気でやると仕事にならない。


「そもそも○○は何のためにあるのか」


理念や概念を抽象化された一般論にまで深めようとするので、そうかんたには動けない。


高校の時、受験勉強を否定して、「そもそも学問は何のためにあるのか」とまわりに問いかけると、そんなこと言ってたら受験に間に合わない。大学入ってから考えろと言われた。


親にも友人にも、わたしの発言は奇異な突拍子もない問いだと受け止められた。


そして、根本から学問を究めて、その結果「受験」に合格するのだと、とんでもない勉強を提起した。


たとえば、古文は「古事記」から読み始めた。


英語の原書も購入した。


数学は、公理主義的に再構築しようとした。


しかし、どれも時間が足りず、頭もおかしくなって勉強も手につかなくなった。


まわりに言葉が通じなくなり始めた。


いまの仕事もそうだ。


方法論や事業理念を根本的に再検討しようとするので、ぜんぜん具体的な動きにならない。


しかも、その話を同僚や上司に理解可能な形で提起できない。


でも、本や雑誌記事を書くときは、もっと気楽に書いてるよなあ。


「そもそも論」よりも、思ったことをそのまま書いている。


それは、長年の修業の甲斐あって、言葉を獲得したんだよ。


そうはいっても、アカデミズムからは承認されない議論だ。


つまり、業界では認められないが一般市場にはちょっとでもポジションを得た。


それでもよく言われるのは、「アカデミズム共同体との対話のない研究」だと。


いまの仕事は、慣れない分野だし、他人と一緒にやるので自己流では通用しない。


結局これも、「職場共同体」には理解不可能なやり方なのだ。


それは、狂気かもしれないし、未来の真理かもしれない。


だが、現時点ではわたしの学問も仕事も、多くの共感や同調を調達しえていない。


それを、孤立化と言ってみたくなる。


いつになったら、自分は「世間」と折り合いをつけるつもりなのか。


こういうことをしているから、生活破綻するのだ。


「永遠の真理と美」を追求するような、前時代的な考え方を払拭できない。


これって、「社会性」と「コミュニケーション能力」がないってことなのか。


もしも、いまの仕事でほんとうにやる気を出して根本からやったとしたら、まず認められないし、成功もしないだろう。


だから、黙って言われたことだけやっておこうという気になる。


これは、ちょっと違っても多くの若者の仕事にもあてはまる。


不満があるが、言語化できないから上司に意見を言えない。


たんなるミウチでの愚痴に終始して、改革案を示せない。


あとは、遊びで紛らわせて仕事では根本論は実行しない。


勉強でも仕事でも、そもそも論をやる人は孤立してひきこもる。


そもそも、疑問や怒りを感じることがタブーなのだ。


思考停止して順応したフリをするしかない。


団塊世代などの陳腐なお説教臭い言説に従ったフリをする。


そうして、滅びていくのか。


なぜ、若者は発言しない。


いや、発言してもメディアが潰してくる。


売れるように体よくモディファイされて、本質は消え去る。


もう若くないわたしは、団塊に抗してもっと発言しなくては。


職場でもしきっている同僚は、団塊オバさん。


うっとうしいんだよね。


たんに、形になる仕事をするだけで。


それでも、わたしは黙っている、混乱を恐れて。


朝早くに目が覚める

5時半には目が覚める。


べつに仕事があるわけではない。


うつ病の「早朝覚醒」とも違うようだ。


なんとなくテンションがやや高め。


軽躁状態か。


とくに、老眼になってから朝も早くなった。


いやな職場だが、ほとんど一番乗り。


自分でも何をしているのかよくわからない。


ただただ、元気というよりもやや多動。


これで以前失敗したことがある。


とくに、選挙と9月は要注意だ。


世間が騒擾として暑さの疲れが出る頃に気をつけなくては。


体調そのもは、マアマアかな。


何のかのと言って、わたし、粘り強く生きてます。


生への執着はあるようです。


それと、苦しいことをマゾヒスティックに我慢するのが生き甲斐のような。


やっかいな性格になってしまいました。


そして、このブログはすごいパワーをもらっています。


みなさま、ありがとうございます。


孤立化していく

自分は、必死で自己主張しようとしていると、どんどん世間からはずれていく。


大学受験の時期に、「受験体制をどう変えるべきか」って真剣に問題提起しても、誰も相手にしてくれなかった。


どこかずれてる。


研究もそうだ。


ある意味誠実にまじめに議論を展開させるほど、まわりや学界は引いていく。


わたしが何か発言すると、「??」という反応が返ってくる。


で、何が言いたいわけ?という感じで、


はずしている。KYだ。


日本の状況主義では、空気の大勢を読みながら軟体のように身を処していかなくてはならない。


わたしのように、我流で思い込みが激しいと自然と排除される。


まわりは、言葉を失う。


あいつには、かかわらんとこ。何かむずかしそうだ。


フォロー不可能とも言える。


あきらかに、病的異常の領域に足を踏み入れている。


どんどん、社会から孤立していって接点を失い、発狂する。


「現実との生ける接触」の喪失だ。


妄想化する。


しかし、その思いの一片には真理の切れ端が存在するのだが。


そこを認めてくれる人は、まわりに少数ながら集まってくれる。


そんなに、無茶苦茶な主張をしているのではない。


ただ、誠実すぎるのだ。実現不可能。


本質的にラディカルに物事をとらえようとしすぎる。


「マロニエの木の根っこ」は嘔吐を催させる。


わたしは、メジャーになると危険だ。


かといって、マイナーなままならば、犯罪的怨恨を抱き続けて生きるだろう。


もうそろそろ、社会の側と妥協しなくてはならない。


うつでもボーダーでもなく

わたしの抱えている症状は、うつ病やボーダーラインでもなく、もっと何か「非定型」ないろんなものが混じり合ったものだそうです。


ひとつ簡単に言えるのは、対人関係に敏感で疲れやすいこと。


ひとりで家にいると、ほとんど快適です。退屈ですが。


その意味では「ひきこもり」に似ています。


でも、話の合う人と話すのは好きです。


仕事は、利害関係や政治力や意見調整があるので大変です。


しかも、それを組織でやるとなると、どうしても人間関係が複雑になります。


「あの人はわたしのことをどう見ているのだろう」というのが、一番気になります。


政治的なことや意見対立というよりも、単純に「嫌われているのでは」という感覚です。


その意味では、「幼児化」しているともいえ、仕事以前の問題かもしれません。


子どものけんかかいじめのように、「好き嫌い」で判断してしまいます。


授業をやっていると、「社会」って何、社会が見えない、わからないという学生の感想も多いです。


自分自身と、自分に直接関わる他人しか認識できないようです。


「政治的無関心」どころか「社会的なものへの無理解」が支配的です。


ほんとうに、昔は「社会主義」だったのだと思いました。


「社会」のことを中心に考えていて、個人のことはあとまわし。


いまの若い人たちは、自分という個人しか見えていません。


それ以外は基本的に「障害物」なのです。


わたしも、「社会」的なことに関心が持てなくなりました。


心の病は、どう考えても社会主義的には解決できませんから。


せいぜい、家庭の問題かな。


それは、エヴァンゲリオンの主題でもあります。


父との葛藤、母への郷愁。


幼少期の家庭環境が、もろに成人後の人間関係や会社で再現されるのです。


ほんとうに「社会主義」は死んだのだと思います。


ここで言っているのは、マルクスやソ連の社会主義ではなく、「社会」を中心に思考することですが。


裸の個人である自分だけが頼れる存在です。


他人は、邪魔ものもいるし快適な相手もいます。


それでも、全面的に頼ることはできません。


大原麗子や飯島愛さんのような孤独死です。


ほんとうに、殺伐とした「社会」です。


「大人」はそこから甘い汁を吸って、自分の保身を図っています。


誰も、真剣に「社会をよくしよう」などと考えられないのです。


自分の生活が特権的に安定すればいい、そいういう大人がほとんどです。


若者は、どこへも行くことができませんね。


ほんとうに、ひどい世の中です。


でも世の中に怒る人は少数です。


みんな、「自分が悪い」と思っています。


そう思わないとやっていけないのでしょう。


そして、薬物に走ります。


社会的にではなく自分の悩みをコントロールするのは、クスリがもっとも手っ取り早いから。


どうも、末期的な症状です。


あらたな「個人間戦争」です。


勇気をもって

むらゆきさんの「勇気」のはなしを考えています。


マゾヒスティックで自虐的なわたしは、自信のないことを売りにしています。


自信はなくても勇気は出せるんじゃないのか。


勇気よりも、蛮勇があるかんじです。


とんでもない大胆なことをしてしまうことがあります。


追い詰められたヤケクソかもしれませんが。


大人数の聴衆を前にした講演会では、妙に肝がすわります。


人格が変わります。


人間、とことんまでいくと開き直るものです。


開き直りと勇気は違うのかな。


勇気は余裕のある人の態度だろうか。


もっと、冷静に計算された振る舞いだろうか。


わたしは、変な時に向こう見ずになってしまいます。


それで、けっこう「ハズし」ます。


怒りと勇気も違います。


勇気にはどこか、内面的な確信がありますね。


「自ら省みて直くんば、一千万人といえども、我行かん」


この感じでしょうか。


日替わりの気持ち

今日は、ましだった。


開き直って、自分のペースで勉強した。


わたしの仕事術は、本や論文から情報を得ることしかできない。


そして、アウトプットがものすごく遅い。


研究でも、著書が書けるまでに何十年もかかった。


だから、誰に何と思われようと、自分の方法を貫くしかない。


学者には学者なりの仕事法があるはずだ。


のんびり行こう。


時間とお金はないけれど。


少し落ち着きました

今日は、たまたまチームの同僚の女性が二人とも休み。


久々に、自由にきままに仕事できました。


いつも二人が仲良く、わたしを排除して仕事をすすめるので苦痛でした。


しばらく、出張と夏休みです。


気分を変えて、出直しです。


ほんと、人間関係に弱いわたしです。


職場での見捨てられ感

むらゆきさん、いつもありがとうございます。


ブログっていう世界は不思議ですね。


顔も見たことのない人の言葉が一番やさしかったりする。


職場は、いまわたしにとって悲惨です。


どこからか、仕事を全然させてもらえなくなりました。


上司も同僚もほぼ無視です。


もちろん、わたし自身にも原因はあります。


仕事の進め方について、こちらに誤解と無能さがあるのです。


基本的方針を理解できず、組織的にではなく我流の方法に固執していました。


そこを、是正して組織的にチームでやろうというのが、上司としての役割でしょうが、放任です。


もちろん、「専門職」として雇われたわけですから、いちいち指導を仰ぐなという論理もあるでしょう。


こちらから、上司に相談する雰囲気はまったくありません。


それができるきっかかけすらありません。


それに、相談するとぎゃくにいろいろ言われそうで怖いのです。


仕事について具体的に書けないのでなんですが、ようは、アプローチ方法がみなとちがうのです。


組織の要請は、かなり官僚的、形式的、数量的に、型にはまったクライアントの扱いを求めています。


わたしは、もう少しクライアントの懐に深く入って、心情的にも理解するレベルを求めています。


わたしが今回の仕事を「職場カウンセラー」的に理解していたのが、間違いのようです。


もっと、データとして突き放して扱うべきのようです。


べつに、依怙地になっているわけではないのですが、そのやり方はしっくりきません。


自分の研究でも数量的な研究を嫌っているのですから。


もちろん、組織のやり方でもクライアントとの心の交流はあるのでしょうが。


どうも、チェックシートを先方に示して、それを計量化してニーズを引き出すという手法が、安直に思えてならないのです。


それにしても、もう少しくらい仕事上の意思疎通があってもいいのですが。


この状態では、「見捨てられ感」を抱いてもしかたないでしょう。