ずれている私
今日職場の会議で、同僚から「あなたとは、仕事の話をしてももりあがらない」といわれた。
同じ対象を仕事上で観察しても、もりあがるポイントがその人とはずれているということらしい。
これは、いまの職場にかぎったことではない。
学問分野でも、わたしの言っていることは業界スタンダードから大きくずれている。
では、このブログを「もりあがって」読んでくださる方は、みんな「ずれて」いるのだろうか。
それとも、そういう人は「マイナーな」存在なのか。
読者の皆様、ご自身でどう思われますか。
わたしに共感できるあなたは、世間からずれている人なのでしょうか。
悲惨な職場状況
ついに同僚二人から、強い叱責を文書で受けた。
「あなたはチームワークに貢献していない」と。
そのとおりである。
チームの仕事の方針や内容は、私以外の二人で実質決められ、私はそれにアップアップと従うのみ。
あなたの仕事への意欲や関心が見られない、と言われる。
そもそも、仕事へのスタンスや取り組み方が全く違う。
わたしは、学問的な概念をもとの演繹的に課題を抽出する一方で、職場の聞き取り調査から得られた現場の実態の解析を突き合わせて、仕事を進めたいと考えている。
ふたりは、既存の解析ツールをもちいて、形式的に職場診断モデルをつくろうとしている。
とにかくお役所仕事で、形式化、形骸化、数量化、平板化などの解析に思える。
職場分析を、研修という観点からきわめて形式式主義的に分類把握しようとする。
それに対して、私がやってきたのは、職場訪問での聞き取りを中心として職場の抱える人的育成問題のリアルな姿を言語化することであった。
その結論は、各現場の課題として「職員の社会性の欠如」が大きく問題となっていることだ。
あいさつからはじまり、決められた仕事しかしない、向上心の欠如、コミュニケーション不全などのよくいわれる若者現象が職場をおおっている。
彼ら二人は、そのような質的現象には興味を示さず、ひたすら研修体制の不備を洗い出す作業に没頭している。
研修で何を改善するのかが見えてこない。
いわば、カリキュラム表の構築を最終目標としているようで、カリキュラムの内容や理念はどこかへ消し飛んでいる。
たしかに、職場研修は「人材育成と定着」「サービスの質の向上」を目的としている。
しかし、そのためにどのような内容のOJTやOff-JTが必要なのかという中身の議論を進めないまま、外的条件整備を仕事にしようとしている。
それでいいのかもしれない。
われわれの役目は所詮、講師になることではなく、講師や教育の体制作りなのだから。
下手をすると、講師へのお茶の出し方や上司の部下の叱り方のマニュアルづくりなんてことに、なるかもしれない。
やはりここは、職場研修のプロにアドバイザーになってもらってプロジェクトをまとめないと、素人三人では限界がある。
大変厳しい状況になってきました。
私は今、ストレス性の腸炎を患っています。
本気を出すと大変なことになる
もしも、いまの職場で、いまのわれわれのプロジェクトについて、わたしが本気で議論すると大変なことになる。
いつでも「そもそも論」からはじめるので、それを本気でやると仕事にならない。
「そもそも○○は何のためにあるのか」
理念や概念を抽象化された一般論にまで深めようとするので、そうかんたには動けない。
高校の時、受験勉強を否定して、「そもそも学問は何のためにあるのか」とまわりに問いかけると、そんなこと言ってたら受験に間に合わない。大学入ってから考えろと言われた。
親にも友人にも、わたしの発言は奇異な突拍子もない問いだと受け止められた。
そして、根本から学問を究めて、その結果「受験」に合格するのだと、とんでもない勉強を提起した。
たとえば、古文は「古事記」から読み始めた。
英語の原書も購入した。
数学は、公理主義的に再構築しようとした。
しかし、どれも時間が足りず、頭もおかしくなって勉強も手につかなくなった。
まわりに言葉が通じなくなり始めた。
いまの仕事もそうだ。
方法論や事業理念を根本的に再検討しようとするので、ぜんぜん具体的な動きにならない。
しかも、その話を同僚や上司に理解可能な形で提起できない。
でも、本や雑誌記事を書くときは、もっと気楽に書いてるよなあ。
「そもそも論」よりも、思ったことをそのまま書いている。
それは、長年の修業の甲斐あって、言葉を獲得したんだよ。
そうはいっても、アカデミズムからは承認されない議論だ。
つまり、業界では認められないが一般市場にはちょっとでもポジションを得た。
それでもよく言われるのは、「アカデミズム共同体との対話のない研究」だと。
いまの仕事は、慣れない分野だし、他人と一緒にやるので自己流では通用しない。
結局これも、「職場共同体」には理解不可能なやり方なのだ。
それは、狂気かもしれないし、未来の真理かもしれない。
だが、現時点ではわたしの学問も仕事も、多くの共感や同調を調達しえていない。
それを、孤立化と言ってみたくなる。
いつになったら、自分は「世間」と折り合いをつけるつもりなのか。
こういうことをしているから、生活破綻するのだ。
「永遠の真理と美」を追求するような、前時代的な考え方を払拭できない。
これって、「社会性」と「コミュニケーション能力」がないってことなのか。
もしも、いまの仕事でほんとうにやる気を出して根本からやったとしたら、まず認められないし、成功もしないだろう。
だから、黙って言われたことだけやっておこうという気になる。
これは、ちょっと違っても多くの若者の仕事にもあてはまる。
不満があるが、言語化できないから上司に意見を言えない。
たんなるミウチでの愚痴に終始して、改革案を示せない。
あとは、遊びで紛らわせて仕事では根本論は実行しない。
勉強でも仕事でも、そもそも論をやる人は孤立してひきこもる。
そもそも、疑問や怒りを感じることがタブーなのだ。
思考停止して順応したフリをするしかない。
団塊世代などの陳腐なお説教臭い言説に従ったフリをする。
そうして、滅びていくのか。
なぜ、若者は発言しない。
いや、発言してもメディアが潰してくる。
売れるように体よくモディファイされて、本質は消え去る。
もう若くないわたしは、団塊に抗してもっと発言しなくては。
職場でもしきっている同僚は、団塊オバさん。
うっとうしいんだよね。
たんに、形になる仕事をするだけで。
それでも、わたしは黙っている、混乱を恐れて。
朝早くに目が覚める
5時半には目が覚める。
べつに仕事があるわけではない。
うつ病の「早朝覚醒」とも違うようだ。
なんとなくテンションがやや高め。
軽躁状態か。
とくに、老眼になってから朝も早くなった。
いやな職場だが、ほとんど一番乗り。
自分でも何をしているのかよくわからない。
ただただ、元気というよりもやや多動。
これで以前失敗したことがある。
とくに、選挙と9月は要注意だ。
世間が騒擾として暑さの疲れが出る頃に気をつけなくては。
体調そのもは、マアマアかな。
何のかのと言って、わたし、粘り強く生きてます。
生への執着はあるようです。
それと、苦しいことをマゾヒスティックに我慢するのが生き甲斐のような。
やっかいな性格になってしまいました。
そして、このブログはすごいパワーをもらっています。
みなさま、ありがとうございます。