扇谷上杉の野望-遠藤直経

またまた「浅井家の人々」で恐縮ですが、今回は遠藤直経殿。

浅井家の重臣で、浅井長政の信頼が厚かったとのことです。


長政・お市(織田信長の妹)の婚姻の際、信長暗殺を画策→結局、長政の反対により、実行には移されず

姉川の合戦の際、信長軍に忍びこんで信長暗殺を企図→結局、正体がばれて返り討ちに合う


といった具合に、なかなかファンキーなお方です。


やることなすこと空回り気味のためか、烈風伝での能力値は、戦闘力「77」を除いて、全般的に低調です。

しかし、早くから信長の才気を見抜き、朝倉氏・織田氏の関係が悪化した際、織田氏側につくことを強硬に主張するなど、着眼点はお見事(結局、この主張も採用されず、浅井家は滅亡の途をたどるわけですが・・・)。

政治「16」のDQN扱いは、あまりにも酷ではないかと擁護したくなります。


扇谷上杉の野望-浅井久政

浅井家関連の人物が続きますが、今回は浅井久政殿。浅井長政殿のお父上であります。

六角氏に従属したことや、織田氏よりも朝倉氏を優先したこと(その結果、浅井氏は滅亡)などから、あまり評価の芳しくない久政殿。

烈風伝での能力値も、それを反映して全般的に低めです。

そのわりには、顔グラに威厳があるのは、やはり「長政パパ」という補正がかかっているのでしょうか。


前述のように、史実上、浅井家滅亡の要因を作った人物として、愚将イメージのある久政殿ですが、一部では再評価する声も少なくないようです。


というのも、六角氏への従属は、諸般の状況に鑑みてやむをえなかったことであるし、むしろ、従属しつつも浅井家の勢力を保ったという点で、なかなかしたたかに立ちまわったのではないかという評価がひとつ。


また、朝倉氏を優先したことで結果的に浅井氏滅亡を招いたといえど、当時、織田家は三好・朝倉・石山本願寺・武田に包囲され窮地に立たされていたのであり、久政の選択は戦略上、決してまずくはなかったとも評価されています。


さて、烈風伝では、浅井家滅亡の際、久政殿は即時に扇谷上杉家の家臣団に加わりました。

大名状態での加入なので、宿世デビューです。

宿世は900人の兵隊を統率できる強みがありますが、如何せん戦闘力25では前線に立たせるわけにはいきません。

というわけで、史実では戦乱の世に翻弄された久政殿も、烈風伝では平和に城下町開発に従事しましたとさ。

(初期設定では、特技は「農業」のみだったのが、いつのまにか「商業」を習得しています)


扇谷上杉の野望-お市の方

前回の記事 が、浅井長政でしたので、この人を登場させないわけにはいけません。

織田信長の妹にして、浅井長政の恋女房。絶世の美女と伝えられるお市の方です。

浅井家滅亡の際、お市は、夫とともに自害することを望みますが、夫から娘たちの行く末を託されたこともあり、生家の織田家に身を寄せます。

その後、織田家の家臣・柴田勝家と再婚。

勝家61歳(初婚)・お市36歳という、びっくり年の差カップルです。

前述のように、お市といえば絶世の美女ですから、そのときの勝家殿の心境はいかなるものだったでしょう。

こういう僥倖がありますから、人間諦めてはなりません。


ところが、その翌年、勝家は賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉に敗れ、自害するに至ります。

その際、お市は生き延びるよう説得されますが、今回は夫とともに死する途を選びました。


サゲマン疑惑がないわけでもないですが、戦国時代の女性として、壮絶な一生を送った人物といえるでしょう。


ところで、信長の野望・烈風伝では、支配下におさめた他家の武将を、自分の家臣団に加えることができます。

一方、姫は、お家滅亡とともに、自然消滅してしまうのが不満です。

本城制圧の際、姫も捕獲できればと思います。

もちろん、武将同様、姫にも意志があって、「貞女は二夫にまみえずと申します」と、仕官拒否されたりなんかして。

私は烈風伝の世界しか知らないのですが、他の版ではそんなシステムがあったりするのでしょうか。


扇谷上杉の野望-浅井長政

前回の記事 で、浅井家滅亡について少し触れたので、今回はこの方を採りあげることにしました。

史実では、織田信長の妹・市を娶り、織田家と同盟関係になるも、後に朝倉家と組んで、織田家に反目。

しかし、結局は織田軍に敗れ、愛妻・市や娘を信長に託して、自害した有名武将です。


烈風伝では、浅井家滅亡の際、長政殿は元服前でした(当時の浅井家当主は久政殿)。

1560年、我々が中国・四国地方に進出していた頃、ようやく武将デビュー。

既に、浅井家は我が扇谷上杉家の支配下にあったため、当然のごとく、当家の家臣団に加わりました。

史実では名将と謳われ、その人生が、後世においてテレビドラマ等、数々のメディアで描かれた長政殿。

(嫁さんや娘が有名なために本人が美化されすぎではないか?というのは禁句です)

烈風伝においても、能力値が高く設定されており(しかもイケメン)、その活躍が期待されました。

しかし、長政殿の元服時、我が扇谷上杉家は「人大杉」状態。

「配下に浅井長政が加わりました」といえば、本来、ビッグニュースなのですが、当時の扇谷上杉家にとっては馬耳東風。

「あーなんかまた新しい人が増えたの。じゃ、とりあえずそのへんの田んぼでも耕しといて」

となってしまったのは、長政殿にとって実に不幸だったと思います。


嗚呼。長政殿の登場が、あと10年早ければ・・・。

さて、宿敵・武田家が上洛目指して西へ西へと勢力を拡大するのを追って、我が扇谷上杉軍も西方へ進軍します。

その道中、武田家以外の領土を避けて通ることは不可避です。

もっとも、既に強国と化した当家に恐れをなしたのか、我が軍が領地に土足で踏み行っても、異議を唱える大名はおりません。自城に籠って念仏でも唱えるばかり。

ここは素通りするべきか?

いいえ、鬼畜モードです。我が扇谷上杉家に武士の情けはありません。


1556年 3月

浅井家の支城・佐和山城を攻略


1556年 4月

六角家の本城・観音寺城を攻略


1556年 5月

浅井家の本城・小谷城を攻略
浅井家が滅亡する
六角家の攻撃で支城・今浜城が落城


ここまで来れば、京都は目前。

しかし、武田家との抗争は、まだまだ続きます。

村上家家臣のお二方をご紹介。



扇谷上杉の野望-屋代政国

まずは、屋代政国(正国)殿。

上の画像では、「強国を頼りにするのが一番」などと、小国・村上家において身も蓋もない台詞をのたまっておられます。


史実では、武田家が村上家に侵攻してくると、武田家に下り、武田家が織田家に滅ぼされると織田家に下り・・・という具合に、台詞通りの処世術を実践しました。

ちなみに、嫁は主君・村上義清の養女。


烈風伝では、扇谷上杉家により村上家が滅亡した際には、なぜか意地を張って当家には下らず(うちが小国に見えたのでしょうか)、独立勢力化。しかし、その数ヵ月後、自ら城ごと投降してきました。



扇谷上杉の野望-高梨政頼

お次は、高梨政頼殿。

史実上、政頼殿は、ギリギリまで武田家に抵抗した後、武田家と対立していた長尾家に助けられました。

また、政頼殿の姉妹・於フ子(おふね)は、村上義清殿の側室です。


烈風伝では、村上家滅亡時に扇谷上杉家の家臣となりました。

その後、全国各地の城下町の開発に従事し、天下統一直前の1562年8月、寿命で没しました。


☆おまけ☆

平時の村上家領内。殿さまは川へ灌漑に、家来は町へ開発に出かけました。


扇谷上杉の野望-村上家


扇谷上杉の野望-九戸政実

南部家の重臣・九戸政実殿です。

史実では、南部晴信・晴継父子に仕えたものの、その跡目を継いだ信友とは対立。

(信友には、晴継暗殺疑惑があった)

信友から政実討伐の要請を受けた豊臣軍の攻撃を受け、九戸家は滅亡するに至りました。


さて、烈風伝ではどうだったかというと、扇谷上杉軍が南部家の三戸城を制圧した際、当家の家臣団に加わりました。

(ちなみに、その時点で南部晴信は存命しており、南部家も滅びていなかった。なので、史実とは若干イメージが異なります)

その後、しばらく扇谷上杉軍の主力として活躍したものの、前回の記事 でご紹介したとおり、対武田家戦争中に、「ウラギリーズ」の一人となってしまいました。


それにしても、鬼庭良直 殿といい、九戸政実殿といい、当家から武田家に寝返った武将は、なぜか「騎馬」のイメージです。

お二人とも、最強の騎馬軍団擁する武田家に憧れでもあったのでしょうか。


さて、以前の記事 でもお伝えした通り、圧倒的な兵力を誇る我が扇谷上杉家は、最強の騎馬軍団を擁する武田家に対しても連戦連勝。

しかし、一筋縄ではいかないのが、武田家・・・というか、武田晴信(信玄)の恐ろしいところです。


1555年10月

合戦中に鬼庭良直が敵勢力に寝返る
武田家の支城・木曽福島城を攻略


1555年11月

屋代政国率いる独立勢力が配下となる


1556年 1月
武田家の本城・稲葉山城を攻略


1556年 2月

九戸政実が武田家に寝返る
武田家の支城・大垣城を攻略


そう。戦闘で叶わないと見るや、晴信は、お得意の「籠絡作戦」に打って出たのです。


そもそも、1554年10月に武田家との同盟を破棄した時点で我が扇谷上杉家家臣団は一枚岩ではなく、同盟破棄について不満を訴える武将が一部いたことは確かです。

しかし、殿も私も、そんな不満は一時的なもの、対武田家戦の戦局が有利に運べばいずれ解消するものと楽観視していました。

やがて、武田家と抗争状態に入って間もなく、「我が領内に間者がうろついているらしい」という情報が、頻繁に入るようになります。

しかし、我々はそれに対し、無為無策を決め込んだ。

性善説?

いいえ。この頃には、配下武将数があまりにも膨れ上がって、管理が行き届かなかったというのが実情です。

小所帯で始めたのが勢いに乗って一気に規模を拡大したあまり、内部のほころびに気付かないとは、まるで一昔前の新興IT企業と同じような過ちといえるでしょう。


二人目の離反者が出た時点で、さすがにこのままではまずいのでは?と私が殿に直々に進言。

そこでようやく殿も重い腰を上げ、家臣団に対し、「緊急意識調査」を実施。

当家に不満げな(忠誠度の低い)武将には、次々と家宝をリリースし、なんとか事態の収拾を図りました。


武田家との抗争は、まだまだ続きます。


扇谷上杉の野望-村上義清

村上家最後の当主・村上義清殿です。

烈風伝では、1554年7月、扇谷上杉家が村上家を滅ぼした際、当家の家臣団に加わりました。

大名状態から家臣団に加わったので、「宿世」デビューという特別待遇です。

見かけによらず、意外と要領が良い?


大名の場合、


自家滅亡時には「人の風下に立つのが嫌い」とかいうわけの分からない理由で仕官拒否

その後、結局、他家の足軽頭としてくすぶっていたり、浪人としてブラブラしている

当家に拾われる

足軽頭としてデビュー


というもったいないパターンが多いんです。


変なプライドなど捨てて、義清殿のように、うまく立ち回ってほしいものです。


なお、義清殿は、扇谷上杉軍において、「高い戦闘力」と「騎突能力」を生かして、大奮闘してくれました。

「建設」能力もあるので、部隊の先陣を切り、果敢に城門破りに挑んでいた姿が印象的です。


さて、史実上の義清殿はいかなる人物であったかというと、

武田信玄軍を二度も撃退した武勇伝の持主。


特に、天文19年(1550年)に勃発した砥石城攻防戦(「砥石崩れ」)は圧巻です。

義清が高梨氏と戦って本領を留守にしている隙をついて、武田晴信が砥石城に侵攻。

しかし、義清は高梨氏と和睦を結んで急遽反転。

晴信のコマンド「にげる」

しかし、まわりこまれてしまった。

義清の痛恨の一撃!

・・・というわけで、武田方は1200名の死傷者を出す大敗を喫したのでした。

(一方、村上方の死傷者は200名足らず)


その後、晴信は、まともに戦ったのでは、勝ち目がないと悟ったのか、得意の「敵方武将切り崩し調略作戦」に出ます。

(当家もこれにはさんざん泣かされました)


さすが、口八丁・手八丁の晴信。

信州の猪武者どもは、コロコロ調略に引っ掛かる。

村上義清は謀反に次ぐ謀反に見舞われ、結果、長尾景虎を頼って、越後へと落ち延びるに至りました。


・・・とまあ、史実でも波乱万丈な義清殿でありますが、個人的にはこういう不器用な武将は嫌いではないです。

烈風伝での顔グラも、いかにも先陣を切って突撃するを潔しとする野武士然とした雰囲気があって、非常に好感が持てます。


しかし、村上家の家紋、これはいくら何でも「やっつけ仕事」に過ぎるのではないか・・・と思うのは私だけでしょうか。


扇谷上杉の野望-家紋一覧



躑躅ヶ崎館(どくろがさきやかた)は、武田家の本城の一つ。


地下の一室に、武田家が合戦で得た敵方武将のクビを累々と保管していたことが、その名前の由来である。


武田信玄が当主の時代には、その保管数が3000にも及んだと言われている。



嘘ですd(*´∀`)b


躑躅ヶ崎館=「つつじがさきやかた」と読みます。

(ちなみに、「どくろ」は「髑髏」と書きます)


中は、こんな感じになってます。


扇谷上杉の野望-躑躅ヶ崎館



外観↓攻め込むときは、矢印の方向から行くと、最初の城門破りが楽でしょう。


扇谷上杉の野望-躑躅ヶ崎館2