さて、以前の記事 でもお伝えした通り、圧倒的な兵力を誇る我が扇谷上杉家は、最強の騎馬軍団を擁する武田家に対しても連戦連勝。

しかし、一筋縄ではいかないのが、武田家・・・というか、武田晴信(信玄)の恐ろしいところです。


1555年10月

合戦中に鬼庭良直が敵勢力に寝返る
武田家の支城・木曽福島城を攻略


1555年11月

屋代政国率いる独立勢力が配下となる


1556年 1月
武田家の本城・稲葉山城を攻略


1556年 2月

九戸政実が武田家に寝返る
武田家の支城・大垣城を攻略


そう。戦闘で叶わないと見るや、晴信は、お得意の「籠絡作戦」に打って出たのです。


そもそも、1554年10月に武田家との同盟を破棄した時点で我が扇谷上杉家家臣団は一枚岩ではなく、同盟破棄について不満を訴える武将が一部いたことは確かです。

しかし、殿も私も、そんな不満は一時的なもの、対武田家戦の戦局が有利に運べばいずれ解消するものと楽観視していました。

やがて、武田家と抗争状態に入って間もなく、「我が領内に間者がうろついているらしい」という情報が、頻繁に入るようになります。

しかし、我々はそれに対し、無為無策を決め込んだ。

性善説?

いいえ。この頃には、配下武将数があまりにも膨れ上がって、管理が行き届かなかったというのが実情です。

小所帯で始めたのが勢いに乗って一気に規模を拡大したあまり、内部のほころびに気付かないとは、まるで一昔前の新興IT企業と同じような過ちといえるでしょう。


二人目の離反者が出た時点で、さすがにこのままではまずいのでは?と私が殿に直々に進言。

そこでようやく殿も重い腰を上げ、家臣団に対し、「緊急意識調査」を実施。

当家に不満げな(忠誠度の低い)武将には、次々と家宝をリリースし、なんとか事態の収拾を図りました。


武田家との抗争は、まだまだ続きます。