村上家最後の当主・村上義清殿です。
烈風伝では、1554年7月、扇谷上杉家が村上家を滅ぼした際、当家の家臣団に加わりました。
大名状態から家臣団に加わったので、「宿世」デビューという特別待遇です。
見かけによらず、意外と要領が良い?
大名の場合、
自家滅亡時には「人の風下に立つのが嫌い」とかいうわけの分からない理由で仕官拒否
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その後、結局、他家の足軽頭としてくすぶっていたり、浪人としてブラブラしている
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当家に拾われる
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足軽頭としてデビュー
というもったいないパターンが多いんです。
変なプライドなど捨てて、義清殿のように、うまく立ち回ってほしいものです。
なお、義清殿は、扇谷上杉軍において、「高い戦闘力」と「騎突能力」を生かして、大奮闘してくれました。
「建設」能力もあるので、部隊の先陣を切り、果敢に城門破りに挑んでいた姿が印象的です。
さて、史実上の義清殿はいかなる人物であったかというと、
武田信玄軍を二度も撃退した武勇伝の持主。
特に、天文19年(1550年)に勃発した砥石城攻防戦(「砥石崩れ」)は圧巻です。
義清が高梨氏と戦って本領を留守にしている隙をついて、武田晴信が砥石城に侵攻。
しかし、義清は高梨氏と和睦を結んで急遽反転。
晴信のコマンド「にげる」
しかし、まわりこまれてしまった。
義清の痛恨の一撃!
・・・というわけで、武田方は1200名の死傷者を出す大敗を喫したのでした。
(一方、村上方の死傷者は200名足らず)
その後、晴信は、まともに戦ったのでは、勝ち目がないと悟ったのか、得意の「敵方武将切り崩し調略作戦」に出ます。
(当家もこれにはさんざん泣かされました)
さすが、口八丁・手八丁の晴信。
信州の猪武者どもは、コロコロ調略に引っ掛かる。
村上義清は謀反に次ぐ謀反に見舞われ、結果、長尾景虎を頼って、越後へと落ち延びるに至りました。
・・・とまあ、史実でも波乱万丈な義清殿でありますが、個人的にはこういう不器用な武将は嫌いではないです。
烈風伝での顔グラも、いかにも先陣を切って突撃するを潔しとする野武士然とした雰囲気があって、非常に好感が持てます。
しかし、村上家の家紋、これはいくら何でも「やっつけ仕事」に過ぎるのではないか・・・と思うのは私だけでしょうか。