ブログを開店休業状態にして2年ほど
「和」物にはまった日常を
時々、書かせていただくことで、
気負わず、ぼちぼち再開しようかと…思います。
ご縁があって、このブログを訪れてくださった方に感謝。
拙文をお読みくださり,ありがとうございます。
「和」物にはまった日常を
時々、書かせていただくことで、
気負わず、ぼちぼち再開しようかと…思います。
ご縁があって、このブログを訪れてくださった方に感謝。
拙文をお読みくださり,ありがとうございます。
実践的きもの塾
着物勉強中の者にとっては、
能楽堂は格好の学びの場である。
茶会以外で、これだけ大勢着物姿の女性が集まる場所は他にない。
また、茶会では見られない
いろんな種類の着物や帯、小物を観ることができて、サンプリングにはもってこい。
これまでの学習から得た結論としては、
能を観にくる着物熟達者は、
演目や、その時の能の主旨、出演者と関係の有る無しによっても、着るものを変える
ということ。
そんな熟達者にどの程度近づけたかを測るバロメーターは、
「浮いているか」どうかだ。
全体の雰囲気から浮いてなければ、着こなし合格(^_^)v。
浮いてはいないけど、平凡すぎない組み合わせがきまっていれば大成功(=⌒▽⌒=)。
準正装に近い人が多い中、カジュアルな着物で出かけたりすると、
思いっきり負け…(-"-;。
和服に限ったことではないかもしれないが、
着物には、その人の考えやセンスだけでなく、年齢や立場、教養までもが表れる。
手持ちの着物や帯の取り合わせを考えながら、自分らしさを体現できる楽しみもある一方、
着物の約束事を踏まえ、まわりと協調することもとてもたいせつに思える。
さて、先日の薪能。
都心の能楽堂でないこと、野外であること、また最も暑い時期であることもあり、
着物姿が少なかったことがちょっと残念だった。
かくいう私も、旅先に着物一式もっていくことは はなから考えになかったが、
観能は、客席の着物も雰囲気づくりの一役を担っているようだ。
能楽堂は格好の学びの場である。
茶会以外で、これだけ大勢着物姿の女性が集まる場所は他にない。
また、茶会では見られない
いろんな種類の着物や帯、小物を観ることができて、サンプリングにはもってこい。
これまでの学習から得た結論としては、
能を観にくる着物熟達者は、
演目や、その時の能の主旨、出演者と関係の有る無しによっても、着るものを変える
ということ。
そんな熟達者にどの程度近づけたかを測るバロメーターは、
「浮いているか」どうかだ。
全体の雰囲気から浮いてなければ、着こなし合格(^_^)v。
浮いてはいないけど、平凡すぎない組み合わせがきまっていれば大成功(=⌒▽⌒=)。
準正装に近い人が多い中、カジュアルな着物で出かけたりすると、
思いっきり負け…(-"-;。
和服に限ったことではないかもしれないが、
着物には、その人の考えやセンスだけでなく、年齢や立場、教養までもが表れる。
手持ちの着物や帯の取り合わせを考えながら、自分らしさを体現できる楽しみもある一方、
着物の約束事を踏まえ、まわりと協調することもとてもたいせつに思える。
さて、先日の薪能。
都心の能楽堂でないこと、野外であること、また最も暑い時期であることもあり、
着物姿が少なかったことがちょっと残念だった。
かくいう私も、旅先に着物一式もっていくことは はなから考えになかったが、
観能は、客席の着物も雰囲気づくりの一役を担っているようだ。
秘すれば花(一字金輪佛頂尊)
渋めの緑と白、くすんだ桃と白のぼかしの花弁が
交互に重ねられた蓮の台座の上は
微かに緑味を帯びた身体に
柔らかく巻かれた流れる襞の紫の衣
ぽってりとした頬に、すぼめたような朱の唇
薪能が始まるまでには、まだ間があったので、
12年ぶりの公開だという秘仏を拝観することにした。
仏像が置かれた部屋の前で、解説映像を観るよう促される。
仏像の名は、一字金輪佛頂尊、またの名を「人肌の大日」。
奥州藤原氏三代秀衡公が、個人的な礼拝の対象としていた仏様だとか。
解説映像を観終わって入室し、
畳12畳ほどの部屋の真ん中に置かれた仏様を見上げると、
ほぉっと息がもれて、ミゾオチ辺りがこそばゆくなる。
「女性的」と形容されるあらゆる美が、高さ1mに満たない仏像に凝縮されている。
こそばゆさは、それが性愛の恍惚感につながるような艶かしさを放っているからだが、
驚くべきは、それが決して猥雑なものではないこと。
性を象徴するような形や動きが、何一つない中、
仏としての品格を損なうことなく「人肌」と言われる艶やかさを生み出した仏師は、
いったいどのような人物だったか。
交互に重ねられた蓮の台座の上は
微かに緑味を帯びた身体に
柔らかく巻かれた流れる襞の紫の衣
ぽってりとした頬に、すぼめたような朱の唇
薪能が始まるまでには、まだ間があったので、
12年ぶりの公開だという秘仏を拝観することにした。
仏像が置かれた部屋の前で、解説映像を観るよう促される。
仏像の名は、一字金輪佛頂尊、またの名を「人肌の大日」。
奥州藤原氏三代秀衡公が、個人的な礼拝の対象としていた仏様だとか。
解説映像を観終わって入室し、
畳12畳ほどの部屋の真ん中に置かれた仏様を見上げると、
ほぉっと息がもれて、ミゾオチ辺りがこそばゆくなる。
「女性的」と形容されるあらゆる美が、高さ1mに満たない仏像に凝縮されている。
こそばゆさは、それが性愛の恍惚感につながるような艶かしさを放っているからだが、
驚くべきは、それが決して猥雑なものではないこと。
性を象徴するような形や動きが、何一つない中、
仏としての品格を損なうことなく「人肌」と言われる艶やかさを生み出した仏師は、
いったいどのような人物だったか。
野との共演(中尊寺薪能)
ゆったりと舞う唐織の衣装の前を蝶がひらりと横切り
鼓の音に合わせてヒグラシが鳴く
地謡の声が響き、薪が火の粉をあげ 音をたててはぜると、
闇の中に舞台が薄赤く浮かび上がる
能のおっしょさんが、毎年シテを務められている中尊寺の薪能に行ってきた。
ここ2年ほど能は結構観るようになったが、薪能は初めて。
屋内の能楽堂と大きく違うと思ったのは、光と音、そして闇。
開演が4時なので、一番目の演目の際はまだ明るく
傾きにつれて射し込んでくる西日に強烈に照らされて、
翁の面の凹凸がくっきり映し出され、装束の金糸と鮮やかな青がまぶしい。
大鼓と小鼓の掛け合いに、カタカタカタカタッと絡むヒグラシの声は絶妙!
日が落ちると、気温が下がり、闇を背にした客席の視線が舞台に集中して、緊張感を増す。
ただ暗いだけでも、静かなだけでもない、
しんと張りつめた空気の中から、生き物の呼吸さえ聞こえそうなこの感じ。
すっかり忘れていた。
人の手で創りあげたものと、自然のままにあるもの
対するのではなく、共にあり、もしくは、
野の中に人が身を置く…
この立ち位置を忘れた表現など、きっと絵空事にすぎない。
鼓の音に合わせてヒグラシが鳴く
地謡の声が響き、薪が火の粉をあげ 音をたててはぜると、
闇の中に舞台が薄赤く浮かび上がる
能のおっしょさんが、毎年シテを務められている中尊寺の薪能に行ってきた。
ここ2年ほど能は結構観るようになったが、薪能は初めて。
屋内の能楽堂と大きく違うと思ったのは、光と音、そして闇。
開演が4時なので、一番目の演目の際はまだ明るく
傾きにつれて射し込んでくる西日に強烈に照らされて、
翁の面の凹凸がくっきり映し出され、装束の金糸と鮮やかな青がまぶしい。
大鼓と小鼓の掛け合いに、カタカタカタカタッと絡むヒグラシの声は絶妙!
日が落ちると、気温が下がり、闇を背にした客席の視線が舞台に集中して、緊張感を増す。
ただ暗いだけでも、静かなだけでもない、
しんと張りつめた空気の中から、生き物の呼吸さえ聞こえそうなこの感じ。
すっかり忘れていた。
人の手で創りあげたものと、自然のままにあるもの
対するのではなく、共にあり、もしくは、
野の中に人が身を置く…
この立ち位置を忘れた表現など、きっと絵空事にすぎない。
