椚田のブログ  -62ページ目

夕映え

小さな駅の改札を出たところに、ヘッドギアを着けた女性が立っていた。母親とおぼしき人がそばで体を支えている。
彼女は電車から降りてくる人々を一心に見つめていた。誰かを迎えようとしているのだろうか。
その無垢な笑顔に、私は激しく打たれた。あたりを満たす夕映えの中で、女性はこの世のものとも思えない美しさを放っていた。

私は感じたままを、さもなければ別の言葉を彼女、もしくは親御さんに伝えたいと思った。しかし、当然のごとく思いとどまった。
相手が健常者なら、まずそんな衝動を満たそうとは考えなかったはずだ。

私は何をしたかったのだろう。

そんな振る舞いが一種の励ましになるなどという不遜な考えは、みじんもなかった。
相手を傷つける可能性と礼儀の観点から、何もしなかった私に大きな難は無かった。
だが、れっきとしてそこに存在していた彼女たちを、あたかも空気のように扱って通り過ぎることが、もっとも優れた選択だとも思えなかった。

十人にも満たない降車客がそれぞれの行く先へ消えると、ふたりは満ち足りた様子をこぢんまりと共有しながら、一歩一歩をいつくしむようにしてその場を去っていった。






別れ

クルマを手放すことになった。

十五年経ったが走行距離は十万キロ弱、大きな問題はなく、まだ当分乗るつもりでいた。実際のところ、昨年タイヤやバッテリーを交換したばかりだった。
理由は、タイミングベルトと周辺機器の定期交換に想像を超える費用がかかるというもの。水平対向エンジンの特殊性が、隠していた別の顔を見せたような気がした。加えて車検の見積もりを取ったところ、こちらの金額も普段の倍近いことが分かった。

今でもその筋では「エンスー」などという言葉を使うのだろうか。
昨年だったか、どこかの町でいすゞのベレットGTが走っているのに出くわし、見惚れたことを思い出す。きれいなたまご色で、すべてが磨き上げられ、乗り手もクルマもしあわせそうだった。
愛着は尽きないが、私のクルマはエンスージアストとして向き合う車種ではないし、その財力もない。選択の余地はなかった。

もともと3ドアに乗っていたのだが、子供が生まれたことが購入の動機だった。クルマとの日々は、娘の成長の歴史そのものと言ってもいい。キャンプなどアウトドアを、好きながら少し苦手とする彼女は、海でクラゲに刺されたり、山でハチにおびえたりと、散々な目にも遭ってきた。
近頃は一緒に乗る機会が減ったが、チームメイトふたりとともにバスケの試合会場まで送ったのが最後の遠出となった。小田原厚木道路から見えたびっくりするほど大きな富士山に、みんなで息をのんだ。

趣味の釣りにおいては、SUVとしての資質を存分に発揮してくれた。ボートに取り付けるエレクトリック・モーターは非常にかさばるものだが、その一式を積み込んでなお、荷室には余裕があった。それをいいことに年中積みっぱなしだったので、これは燃費を悪化させる一因となっていただろう。
4WDの恩恵にあやかったとはいえないが、レンタルボート店へ向かう穴ぼこだらけの未舗装路を、なんの気を遣うこともなしに走ることができたのは確かだ。

程度のいい日本の中古車は海外で人気があると聞く。買取店で引き取ってもらうことになったこのクルマは、どこかに輸出されるのだろうか。スクラップにされるより、そのほうが断然うれしい。遠い国の雪原を走る姿を、無邪気に想像してしまう。

MOMOの革巻きステアリングは、吸い付くような感触になっている。






看板

重たくなった看板を外すことにした。

大上段に振りかぶったタイトルを、面映ゆいと感じるようになってしまった。釣りのことを書こうと始めたブログだったが、いろいろとバランスが悪くなってきたのである。
書きたいことは、いくらでも、まだまだある。ただ年間の釣行回数が十回を切ってくると、見える風景が違ってくる。いや、見えていた風景がかすんでくるというべきか。

私は一種の病気をわずらっている。言葉の自家中毒とでもいうようなものだ。
滅多に過去の記事を読むことはないのだが、なにかのきっかけで目に触れるともうだめだ。それにこうしてキーボードを叩いているそばから、今も侵され続けている。
その正体はいうまでもなく自意識と、読んでもらえるという前提に対する甘え、このふたつにほかならない。

少し前まで、書いたものに目を通してくれるのは学校の先生ぐらいだった。今は誰もが広く発信できるようになり、表現したい人間にとってはいい時代になったと思う。しかしそこには落とし穴もあって、ことSNSにおいては、その海を泳いでいくのにある耐性が必要とされる。(意識しない方は、十分にそれを備え持っている)

こうした自意識や甘え、弱さを乗り越えようと時に語り口を変え、人称を変え、言葉がはだかになれない代わりに身をさらしたりもしてきたが、うまくいかなかった。この鼻持ちならない感じのただよう文体こそが、どうしようもなく私自身なのである。
丁寧に言葉を選んで、磨いて、置いていくしかない。もういちどそこから始めてみたい。

家でチラシの裏にでも書いておけ、と別の自分があざける。