【長文】自分史[44]〜[49] | オカハセのブログ

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[44]あの時僕はおかしくなったのか?
その時もあまり気にし過ぎないようにして、その後もあまりその事には囚われないようにしていた。弘前大学の学園祭の帰りの「急に死にたくなった」不可解な[43]のエピソード
あまり僕のブログはオカルトチックなものにしたくないし、ましてや自分史は特にリアリティがあり過ぎるので出来れば避けたかったのだが、自分史[42]で書き出してみると、曖昧には出来ないと思った。その後の人生がドロップアウト気味になったのはたまたま偶然かもしれないが、その時「急に死にたくなった」のは理由が見当たらない以上少し尋常ではない事は確かなので、自分史を通じて内観していかなければいけないと思う。
学園祭のウチらのライブは楽しかった。だか帰りの青森行きの電車の中で急に理由も無く死にたくなった…
その晩は青森駅に着いてからも暫く家には帰る気持ちになれずに鬱と躁を繰り返したような状態で当てもなく市内を徘徊してた。確か3時か4時くらいに家に帰ってきた。嫁さんは「お帰り…遅かったね、どっか寄って来た?」と言った。学園祭が終わってから今迄の事を嫁さんに話すと、帰宅して僕の顔付きをみてなんか普通ではないと感じてたらしい。次の日内装工事の仕事に行く事になっていたけど、事もあろうに僕は電話口で「何か霊障のようでどうしても行く気にはならないのでやめさせて下さい」と言ってしまった。内装屋の親方は「大人の対応」で話をしていたけど、おそらく「統合失調症のやつとは関わりたくない」という感じでスンナリと受け入れたのだと思う。「こいつヤバイな」と思ったと思う。僕も電話する時には今日は体調が最悪と言おうと思ってたのになぜかたたみ込むように「本当の事」を言ってしまった。
メンバーのピアノは学園祭の夜に金縛りにあいそして窓から女の顔が急に飛び出して来て消えたという。でも本人はそれほど引きずらなかったようだ。ベースも半月の間怠惰だったけどその後大学にもちゃんと行っていたようだ。
その後いくつか出稼ぎ労働をしてみたけど、本当に続かなかった。結構楽しく働いてる矢先にでもやめてしまう。要するにただでさえ我慢強くないメンタルが更に我慢できない人間になってしまった。
そして茅ヶ崎に出稼ぎ労働の最中に夜逃げして九州にサックスを持って放浪に出てしまう事になりました。


[45]数ヶ月の放浪
茅ヶ崎の西○運輸の寮を出たあとはすっかりタガが外れて、最初は3日間くらい厚木市内で浪費した…  浪費と言っても僕の場合せいぜい食べ物にお金使うだけですが。
厚木市内には炭火の網で肉を食べられるカウンターだけの小さな店が多く、入ったばかりの給料を降ろしては毎晩通っていた。泊まりは健康センターみたいなところに。
その後横浜の伊勢佐木町辺りに移動してから約3日間は、外出可能なサウナ(珍しい)に泊まりその近所にある中華料理店で毎晩浪費した。極度なストレスから解放されると僕は買物&飲食依存症になるみたいです。浪費しまくるようになるのです。
それから、川崎港〜日向港の長距離フェリーが存在していた頃なのでその船で九州に渡った。日向に着いてから宮崎市の街でお金を降ろそうとしたら残りの全額を嫁さんに抜かれていた。後で聞いたら「毎日一万とか二万とか減っていくから、やばいと思って残り全部抜いた」と。当たり前だ、本来なら家に仕送りするために働いてたんだから…しょうがないので宮崎市内の路上でサックスを吹いてやりくりした。
以前、長期間放浪していた頃に宮崎市の「ライフライン」(仮名)というジャズ屋に世話になっていたので、今回も立ち寄った。
最初は「お〜、久しぶりだなぁ」と歓迎してくれた。
だけど1週間くらいするとマスターになんと無くシカトされている感じがしてきた。また不快感を与える様な事を言ってしまったのかもしれない。なんと無く居心地が悪くなり僕は鹿児島に移動することにした。
鹿児島では「ヤマさん」というサックス吹きのアパートに居候させてもらった。ヤマさんは小さな居酒屋をやっていてほとんど店の奥の部屋で寝ていてその部屋には簡単な生活道具が揃っているため、そのアパートにはほとんど僕1人で居られた。そのことが僕のハングリーさを弱くさせて、あまり路上にサックスを吹きに行かずに部屋でダラダラと過ごしていた。そのせいである時ヤマさんに説教をされて、その後なんと無く追い出される形になった。
僕はもう一度宮崎に戻り宮崎市の南部の山間にある「加江田渓谷」の「ねむの木キャンプ場」というところでサックスを練習したりしながら数週間過ごした。ねむの木キャンプ場は、今はもう閉鎖しているらしい。
それにしても僕はまた箍が外れたみたいだ。元々出稼ぎで茅ヶ崎に来たはずなのになんで九州の山の中でサックスの練習しているんだろう…
自由気ままに旅をして気持ちに余裕が出て来た途端に、ここ数ヶ月の自分があまりにも勝手だと気が付いた。考えてみると、「ライフライン」のマスターがよそよそしくなったのも、鹿児島の「ヤマさん」に部屋を出されたのも、西○運輸の社員と上手くコミュニケーション出来ないのも、すべて僕の【まわりが見えてない勝手な行動】から来ているのだろう。僕は僕が思っている以上にイタい人間なのかもしれないという気持ちが頭によぎったけど、すぐにその考えを引っ込めて誤魔化す事をこの頃はしていた。
宮崎市内に戻って「ライフライン」に寄るとマスターが無愛想に「おい、お前に青森から手紙が来てるぞ」と渡された。
手紙は嫁さんからだ。
「生きてますか?○月○日は里奈の運動会があるので、帰って来てください」
と書いてあった。
僕は日向からフェリーで川崎へ渡りそこから長距離バス等で青森に帰った。


[46]家庭人失格の結婚生活
九州から帰って来た僕は、里奈の運動会に間に合いました。数ヶ月も九州を放浪していたことに関しては嫁さんにはそんなに強くは責められなかった。嫁さんはなんでも結構言う気の強い人でしたが、僕の家庭人としてはありえない行動はどこか「想定内」で見てるところがありました。とにかく仕事が長続きしない僕のせいで嫁さんも仕事をせざるを得ませんでした。いや…… 【嫁さんも】ではなく【嫁さんが】仕事をしていました。「もうあんたサックスだけはちゃんとやってね」と。娘の里奈と一緒にいる時間が長いせいか仲良しになったのはいいのですが、嫁さんのお母さんには顰蹙をかっていました(マスオさんのように、婿ではないけど嫁さんの実家にいました)。お母さんは僕のことを嫁さんが選んだ相手だからとあまり直接には言っては来なかったけど「仕事だけはちゃんとやって欲しい」と嫁さんには漏らしていたようです。あたりまえですが…
たまに面接を受け仕事をしました。ペンキ屋も2軒くらい行きました。どちらも2〜3ヶ月しか続きませんでした。職場では今までと同じように自分の居場所が無い空気になりました。近所に便利屋さんが出来てスタッフ募集していたので、面接に行きました。社長と面接をしました。社長はスーパーマリオにそっくりなおっさんでした(笑)。僕はペンキ屋の経験があることから翌日には駆り出されました。かなり働きやすい環境だったし日給8000円を1ヶ月後には9000円にアップしてくれたのに、何故か3〜4ヶ月しか続きませんでした。引越しセンターも募集していたので行きましたがこちらは1日でクビになりました。理由は、この頃になると【前の学校でいじめられて転校してきた生徒のように仕事初日からオドオドしていた】と思うので、テンパり過ぎて指示された内容が殆ど入って来なくなり作業も覚えられず【使えない奴】とバカにされてクビになったのだと思います。
年は32歳頃になりました(ここから離婚するまではそう長くはない)。サックスでの音楽活動は順調に進んではいた。メンバーも弘前大学のピアノとベースそして義足の年輩のドラマー、それは解散せずに3年くらい続いていた。僕の音楽遍歴の中では安定してユニットが続いていた時期でした。けれど仕事のほうはやったりやらなかったりだった。派遣会社がトヨタ自動車の岩手県の工場勤務を募集していたので面接を受けて採用されました。
僕のいつものメンバーで函館のライブが決まりました。うちのベーシストはもともと札幌出身で札幌のジャズメンとも交流があったため、彼のつてでうちらのバンドと札幌のバンドのツーマンライブをする事になったのです。このライブが終わってから岩手のトヨタの工場に働きに行くことに決まっていました。
函館まではバンドメンバー4人と嫁さんの計5人で船で行きました。青函連絡船がまだ残っていたのか、或いは青函フェリーかは忘れました。対バンの札幌のバンドはなかなか面白いメンバーでした。


[47]急遽、札幌へ帰るの?
函館の港に着きこの日のライブ会場の「地球塵(ちきゅうじん)」(仮名)というお店に行く。対バンの札幌のバンドも到着してリハをしている最中でした。彼らのバンドもピアノトリオプラスサックスでした、テナーではなくアルトでしたが。だけどやってるサウンドはウチらよりもずっとハイカラなものでした。そういう意味でも刺激になるバンドでしたね。リーダーはピアノで女性で多分大学生だったと記憶しています。ドラムは樽商(小樽商科大学)の女の子でした。んで、サックスとベースが男でした。多分大学生だったか卒業したばかりかだったと思います。
リハを終え軽く食事をしてから少しバンド同士が会話をしてコミュニケーションを取ってから本番が始まります。ウチらがトップバッターでした。その後札幌のバンドの演奏だったのですが、樽商の女の子のドラムはとてつもなく凄かった!☆凄いテクニックがあるわけでもないのだけど、包み込まれるようなシンバルレガートと思いっきりのよさとそれを冷静にコントロールするセンスと更にどことなく孤高な空気を感じさせるドラミングが僕のツボにハマりました。あまりにも良かったから僕は思わず無口になってしまった(笑)。そしてそのあと函館在住のアバンギャルドなアルトサックス吹きとベースがセッションを始めた。この人達の演奏は年季が入っていて凄まじかった。
樽商のドラムや僕も途中から加わってセッションした。
その日はマスターが用意してくれた部室みたいな感じの部屋(⁈)に2バンドとも雑魚寝しました。僕も無口になっていたのが収まり(笑)みんなと夜遅くまでワイワイ騒ぎましたが何故か札幌のバンドのリーダー(ピアノ)がいません。訊くとひとりビジネスホテルに泊まってるそう。こういうのが苦手なのかな?と思ったけど他のメンバーによるとそればかりではなく地球塵のマスターとあまりウマが合わなくてお互い避けてるみたいだった。
翌日船で青森に帰る。
青森に帰ってからも僕は嫁さんに「あの子のドラム凄かったな〜。一緒にバンドやりたいなぁ」と仕切りに言った。嫁さんももちろん素晴らしいドラムと感心していた。
函館に行く前に面接してた出稼ぎの仕事の採用通知が来た。トヨタ自動車の盛岡辺りの工場の勤務だった。
盛岡に旅立つ2日くらい前に嫁さんと喫茶店でコーヒーを飲んでいると嫁さんがおもむろに言った。
「札幌のメンバーと演りたいんじゃないの?盛岡に行ってる場合?札幌に行かなくていいの?」


[48]札幌での活動スタート
僕は嫁さんの言葉に耳を疑った。
僕「えっ?札幌に行っていいの?」
嫁「問題はこないだのメンバーの誰かのところに居候できるかだよね」
家に帰ると嫁さんは早速この間のバンドのメンバーに電話をかける。まるでマネージャーだ(笑)。
とりあえずそのメンバーのサックス吹きが「10日間くらいなら僕の家に居ていいですよ。その後も何人か居候できる後輩がいるから3〜4ヶ月はなんとかなると思います。その間にアパートをみつけてくれたらいい」とのこと。
因みにこれはまだ嫁さんと離婚すると言うことではないです。このあと一年経たずに離婚することにはなるのですがね…

札幌のメンバーの間では「おい!オカハセさんが札幌に来るらしいよ」と歓迎モードだったようです。いや《来る》んじゃ無い、故郷に《帰ってくる》だけなんだけどなぁ(笑)。18の時に旅に出るまではジャズは聴くのも苦手な分野だったから札幌のジャズメンからみたら僕はよそ者なんだろう(笑)。
青森〜函館間は船で渡り、函館〜札幌間は夜行バスで行った。嫁さんが渡してくれたお金が入ってる封筒にはメッセージの書いてる紙が入っていた「せっかく知り合った人達とは上手くやってくださいね。楽しくてもあまりはしゃぎ過ぎず喋り過ぎずにね。私も都合が着いたら札幌に顔を出します。では頑張ってね」
札幌駅に着くと、まずアルバイト情報誌を手に入れた。そしてススキノまで歩き(今はどうかわからないのですが、この頃は札幌駅からススキノまでの約2㎞は早朝に開店しているカフェやファーストフードの店はなかったし、夜行バスが到着した時間には地下鉄も走っていなかった)吉野家で朝定食を食べがてら暖をとった(季節は冬)。アルバイト情報誌のめぼしい仕事欄を付箋を貼りながらお茶を飲んでいると、サックスの「松本君」(仮名)とドラムの「ターニャ」(仮名)が吉野家にはいってきた。「あれ〜オカハセさん!さっき札幌駅のバス降車場所に迎えに行ったんですよ!」と言った。どうやら全く同じ時刻に到着する夜行バスが会社違いで2つあって降車場所が全く別々だったようです。最初は松本君のところに10日間くらい居候した。その間に色々なライブへ僕を連れて行き松本君は僕を紹介して飛び入りさせた。そのおかげで色々なミュージシャンに、音を出して自己紹介することができた。小樽市在住で、2人ともサックスを吹く夫婦の家にも遊びに言った。旦那のほうは北海道ではトップクラスのサックス吹きだ。
松本君の家の後の居候先は彼の後輩のギタリスト「杉山」(仮名)のところに決まった。毎日ずっと一緒に行動している松本君は僕の性格を充分にわかってきたようで、ある日松本君の親友の「小野」(仮名)と3人でコーヒーを飲みに行き、松本君は小野に「オカハセさんが杉山のところにいられなくなったら小野のところに居候させてやってくれないか?」と言った。小野は「俺は全然構わないよ」と言ってくれた。
こうして僕の音楽性を評価してくれたミュージシャン達にはとても好意的に歓迎してもらうことができた。
札幌での活動の出だしは好調だった。


[49]先行きの不安を感じる
10日間くらいすると松本君はギターを弾く後輩の「杉山君」(仮名)のところに居候先を紹介した。杉山君はむしろ僕を居候させることが、ジャズをやる人間として自慢にもなる気持ちだったようで最初は大歓迎でした。しかし実際にはその気持ちは長くは続かなかったようだ。
玄関入ってすぐの個室を僕に与えてくれた。杉山君は奥の部屋なので特に台所とかに用が無い限りはプライバシーを守れる環境にしてくれた。最初の10日くらいの間は夜に彼が働いているススキノのジャズバーに顔を出し店が終わると一緒に餃子の「みよしの」(地元では有名な美味しくて安い餃子チェーン店)で腹ごしらえをしてから帰って来て家ではギターを一緒に弾いたりするくらいに仲良くやっていた。昼間はテレビ塔のある大通り公園や駅前通りやアーケード「狸小路」の入り口辺りでサックスを吹いて日銭を稼いでいた。この頃はまだ今よりは景気が良かったからストリートの稼ぎで夜はジャズバーやライブハウスに行くことができた。10日ほどすると、僕がジャズバーに顔を出しても杉山君とは話が弾まなくなり「俺この後寄りたいところあるので先に帰ってもらって良いですか?」となんだかよそよそしく言うので次の日からは彼が働いてるこの店には顔を出さないようにした。違う理由で来た場合もカウンターには座らなかった。
この頃札幌に大きなジャズライブの店「チャオ(仮名)」というのがあった。東京で長年ジャズミュージシャンのプロデュースをして来た「川上さん(仮名)」が札幌に移住と同時にオープンさせた店だ。そのライブハウスには少なくとも週に1〜2回は通った。結構中央のミュージシャンを赤字になりながらも呼んで頑張っていた店だった、そこでは地元のミュージシャンに飛び入りさせてもらったりした。中央のミュージシャンらの本番ステージ後のジャムセッションに加わったりもした。もう少し落ち着いたらこの街で自分のユニットを組むつもりでいた。良いミュージシャンは沢山いるから後は僕のビジョンに出来るだけ温度差がないサウンドを持っている人間で固めるつもりだった。ドラムは自分の中ではもう決まっていた。函館の「地球塵(仮名)」で対バンだった札幌のバンドのドラムの「ターニャ(仮名)」だ。彼女のドラムに惚れ込んで僕は結婚しているにもかかわらず札幌へやって来たし嫁さんも音楽活動を応援するために送り出したのだから… しかし居候宅に帰っても杉山君は俺と口を聞こうともしない。そうこうしてるうちに「チャオ」に来てる学生のミュージシャンや「ターニャ」さえもなんだかよそよそしくなって来ていた。僕は被害妄想かもしれないとその都度アタマの中で打ち消してはいたが自分の事で「あることないこと」或いは【ないことないこと時々あること】(笑)が噂されているという不安を感じた。







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