【長文】自分史[39]〜[43] | オカハセのブログ

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[39]充実した音楽活動
この頃僕は小さな喫茶店で僕のサックスとギタリストとのデュオのミニライブを週に一度していた。噂を聞き付けて弘前大学の学生のピアニストとベーシストが聴きに来て挨拶をして来た。じゃあ1曲だけ合わせてみようという事になりセッションした。
ふたりともかなりよかった☆ピアニストは荒削りで音数は少々多いけど、凄く個性的なものを感じた。そしてベーシストは、ベースラインとかは結構曖昧なのだが、とにかく強いグルーヴ感がある。これは良いバンドが作れると思いそれからはこの喫茶店で一緒に演るようになった。ただこの時、それまでこの喫茶店で一緒に演っていたギタリストは居場所を無くした気持ちになり去って行きました。僕のデリカシーが足りなかった様です。何故ならこの喫茶店でのミニライブはもともとこのギタリストがマスターから依頼されて演ったものだから。なので結果として僕が乗っ取ってしまった様な形になってしまった…
このギタリストと和解をするのにそれから1年の月日が必要でした…。
最初はこの喫茶店で3人で演奏していましたがやはりドラムが欲しくなったので、青森ではかなりの引っ張り凧の当時50歳くらいで足が片方義足のドラマーにメンバー加入を打診した。この3人の演奏を聴いてもらうと気に入ってくれたようで4人のユニットとして活動することになります。。
そしてこのメンバーで嫁さんが昔長く勤めていた青森のジャズ喫茶で月に一度づつライブを演るようになった。それと同時期に店内にピアノがある高級クラブで毎日サックスソロorピアノとデュオで演奏する仕事をもらった。こちらのほうはもっぱら映画音楽やムードミュージックなどです。そしてその店に嫁さんもホステスとして働くことになり夫婦揃って出勤していた。
隼人さんの店「ウッドコーポレーション(仮名)」にもこの学生のピアノとベースを連れて行ったりもする様になった。ドラムに関しては上北辺りはジャズからロックまで中途半端ではなく対応出来るドラマーが結構いたから現地のドラマーで対応した。
嫁さんは僕が抱えるコミュニケーションの問題を知っているので、マネージャーの様に常にメンバーとのコミュニケーションをしてくれた。うちの家族で青森健康ランドに行く時にもこのふたりを連れて行ったりもした。だから僕の人生の中で、もっとも長生きしたバンドだったしもっとも活動が充実していました。それは本当に嫁さんのおかげだったと思います。

いっぽう隼人(仮名)さんの奥さんの病状はかなり末期でした。彼も半分くらいは腹をくくっていたのかギタープレイの調子はかなりよくなっていた。隼人さんは奥さんの身に奇跡が起きてガンが治ることを願い、祈りを込めて「ブルースフォームーンチャイルド」という曲を作った。この曲のコード付けにはかなり僕が関わっているはずなんだけど隼人さんの中では「コードも100%自分がつけた」と思っています。僕が勘違いしていると思っているのです(笑)。だけど「あの部分のあのコードの進行は確かに俺が考えた〜」というはっきりした記憶があるんだけどな…
まあ印税入るくらい売れたらまた駄々をこねよう(笑)。
「ムーンチャイルド」とは隼人さんの店「ウッドコーポレーション(仮名)」に三沢の基地から演奏しに来る外人ミュージシャンがつけた奥さんへのあだ名です。奥さんは美人で眼力がありチャキチャキして気が強いけど、優しくてかわいいところもあったから外人のファンも多かった様です。英語もペラペラだからコミュニケーションもしやすかっただろうし。


[40]結婚の報告に父に会いにいく
青森で結婚してから時々親には電話をかけて色々報告こそはしてました。
だけど一度北海道に挨拶に行くのがスジだと嫁さんは言うし確かにその通りなので、里奈を連れて3人で父の住む北広島に行くことになった。北広島駅まで車で迎えに来た父親はサングラスをかけて革ジャンという格好。僕は前から父親がこういった格好をすることは知ってるし別になんとも思わないんだけど、嫁さんは妙に身体が硬くなっていた…
家に着き親父はサングラスを取って挨拶をした時、嫁さんは少し安心した様子だった。そして父は「ちょっと用事足して1時間後に帰って来る」といって何処かへ出かけて行った。
おとなしかった嫁さんが口を開く。
「ねえ?こうちゃんのお父さんってヤクザさんなんだよね?」というから、僕はびっくりして「ええ?違うよ!ヤクザじゃないよ(笑)」
嫁「だって革ジャンにグラサンってヤクザじゃないの?」
僕「そうなの⁈昔からああいう格好してるよ」
嫁「本当にカタギなの?」
僕「本当だってば(笑)」
嫁「あー良かった、てっきり【騙された】と思って身体固まったよ〜(笑)」

なるほど一般的にはヤクザのファッションなんだなと知った。何せ息子にとっていつもの格好なら、あくまでも父親のファッションであってヤクザのファッションとは思わなかった。
つまりヤクザと間違われる格好をわざとにしてるんだなと知って、なんか少し父親が残念な人に見えた(笑)。
しかし、これには実は父親なりの切実な事情があったようだ。これについては別な記事に書きます。
その日の晩か翌日の晩かは忘れたけど、僕の兄夫婦と父と父の彼女と僕らは寿司屋さんで食事をすることになった。
余談だが、兄夫婦がおススメの寿司屋だがシャリがべちゃべちゃだった…恐らく炊き方に失敗したんだろう、失敗したシャリでそのまま握って出すこの店とんでもない商売してるなと思った。嫁さんがいなかったら父は店の大将を怒鳴りつけていたと思う。他の客席を見てもウンザリ顔のテンション下がった表情で食べてる…
嫁さんは後で「北海道ってお寿司こんなに不味いの?」って言いました(笑)。話が逸れました。

そしてこのあと兄と交わしたある会話で、僕はもう兄とは必要以外には関わらないことにした。
とは言っても兄は自分の言ったことを忘れてるんだろうけど。
兄は今は「長○川技研」の社長という立場。僕のような最下位の底辺の人間(皮肉のつもり)が彼の名を汚すようなことを書くのは武士の情けで伏せておきます。
なので、この兄との話はそのうちアメンバー限定記事に書きます。

翌日、入居してるばあちゃんの施設に父と嫁さんと里奈とで行った。ばあちゃんはすっかり目が見えなくなったので、父が働いてる間にボヤを出したりして危なかった。だから施設に入れることにしたのだ。
ばあちゃんは僕が結婚したこと、そして連れ子だけど娘がいることにとても安心して、何度も何度も嫁さんに「孝二のことよろしく頼みますね」と頭を下げてすごくせつなかった…
3日くらい滞在して最後に嫁さんと里奈と3人でばあちゃんの施設によってから青森に帰ってきた。


[41]バラードフォームーンチャイルド
或る日の夜、青森の家でギターをつま弾いていると、ふと曲のモティーフが浮かんで来た。なんとなく「一曲出来そうだ」とピンと来るものを感じていたら電話が鳴った。出ると隼人さんの先輩のベース弾きの人だった。そのベース弾きは電話口で「あいちゃん(仮名。隼人さんの奥さんのこと)がいまさっき亡くなったぞ」と静かに行った。このベース弾きにも色々と世話になっていました。まだ旅をしていた頃「千曳駅」に滞在してサックスを練習していた時に、僕に注意と撤退を呼びかけようか躊躇していた汽車の乗務員に「あいつは変わってるけど悪い事するやつじゃないから黙認してやってくれ」と言ってくれたり…

葬式には嫁さんとふたりで行った。最初は涙は全く出なかった。「ああ、こういう時って涙が出ないものなんだろうな」と思った。僕も隼人さんの奥さんは大好きだったし、気が強い人だけど僕には優しかったから奥さんに好かれていると勝手に思っていたし…
ところが式が終わって廊下に出た瞬間に、自分の意思とは思えないくらい大粒の涙がポロポロと出てきた。最初の涙が流れた瞬間に悲しい気持ちを我慢している事に気づいた、嗚咽を漏らすくらいに…
恥ずかしかったがもう止めることは出来なかった。そしたら普段はポーカーフェイスでクールな隼人さんの後輩のロックギタリストが、何も言わずに僕の肩を抱き手を強く握り締めた。涙はすぐに止まった。急に悲しみが押し寄せて急にそれが収まった感じがまるで通過儀礼のようだった。僕の潜在意識だけが勝手に泣いてる感じだった。だけど涙が止まった瞬間に【あの世へ旅立つ彼女を祝福】するようなそんな、なんとも言えない満たされた様な癒やされた様な気持ちになった。あの時彼女は僕のすぐ近くにいたのかもしれない。
そのあと隼人さんのお母さんが「精進落とし(会食)にこのあとふたりとも来てね。お酒とお食事をしていってね」と優しく僕ら夫婦を招待してくれました。僕らが付いた席は隼人さんの友人=ミュージシャンばかりなので変に緊張はせずに食事ができた。
製材所のウマが合わない職人が遠くの席に座っていたので目を合わせない様にしていましたが。隼人さんとのそもそもの出会いやそれから起きた事や奥さんの思い出などを僕もみんなもしみじみと、しかし重くなく明るくミュージシャン達は話していました。本当にミュージシャン達に愛された人だったんだなとしみじみ思いました。
会食が終わると今度はミュージシャン達だけで奥さんを偲ぶ事になり「ウッドコーポレーション(仮名)」にみんな移動しました。そしてあまり遅くならないうちに電車で青森市内に帰ってきました。

彼女はまさに月の子供(ムーンチャイルド)と呼べるくらいに闇の中にいる人に光を与えるような人でした。
純粋で一途で曲がったことが嫌いで、そして皆に対しても愛情を持って接する素晴らしい人でした。
「あいさん」
あなたが決して僕を孤独にしないように労ってくれていた事に、鈍感な僕はあなたが亡くなってからやっと気付きました。
僕や隼人さんが鈍感なことはあいさんの中では想定内だったんですよね。見返りを全く求めない女神のような人でした。本当に感謝しています。
もう20年以上も前の出来事です。
しかし月日が経てば経つほどあいさんの優しさは本当に素晴らしいものだったのだと思わずにはいられません。
「あいさん」ありがとうございました。


隼人さんの奥さんの訃報の電話が来る直前に浮かんだモティーフは後日ひとつの曲として完成しました。
隼人さんの作った「ブルースフォームーンチャイルド」に対して、僕は「バラードフォームーンチャイルド」と名付けました。


[42]安定した音楽生活、不安定な勤労生活
あいさんが亡くなってからは、塞ぎこんでる隼人さんを積極的に青森に誘い出した。嫁さんと里奈と僕と隼人さんの4人で食事をしたりするようになった。「ウッドコーポレーションにも僕のバンドのドラマー以外を連れて行ったりもした。嫁さんも里奈も安室奈美恵に似ていた(笑)ので(時代は謂わゆる「アムラー」ブーム)、里奈はミュージシャン連中の間の人気者になっていた。退屈していそうな時は誰か彼かが里奈と遊んでくれたりする。里奈はすっかり隼人さんのファンになっていた。
隼人さんが「里奈ちゃん、俺の曲で何が好きだ?」と訊くと。
里奈「スペイン!」
…いや〜それは隼人さんの曲じゃなくてチックコリアの曲なんだけど…(笑)。
里奈「孝ちゃんのスペインよりも隼人さんのがいい!」
…少し凹んだ(笑)。
スペイン」が好きな小学4年生^^カッコいー(笑)
隼人さんはロックギタリストだけどこのスペインが得意ナンバーでした。隼人さんが一緒にやってるベースとドラムはロックからジャズまで対応できる人だったのでスペインみたいな曲にも対応できます。三沢基地が近いのは無関係ではないと思います。とにかくアマチュアのレベルが高いです、この地域(八戸から上北町)は。
因みにこの地域出身の「小比類○かほ○」さんは若い頃の隼人さんの彼女だったそうです隼人さんのバンドのボーカルだったそうです。
うちらはジャズユニットが毎月ライブをやっている青森市内のジャズ喫茶にもゲストで隼人さんを加えて何曲かやった。隼人さんには「ブルースフォームーンチャイルド」「スペイン」それとサンタナの「哀愁のヨーロッパ」(笑)、そして僕のバンドの義足のドラマーとデュオでフリーインプロヴィゼーションをやってもらった。普段と違うステージに喜ぶお客さんもいれば「なんでロックギタリストがジャズバンドにいるんだ」と直接客から言われたりもした。「違和感あるのなら隼人さんが悪いのではなくうちらのユニットの力不足です」と答えた。店のマスターがOKする以上はやめるつもりはなかった。そんなこんなで嫁さんのフォローのおかげでバンドは長く続いた。

いっぽう男として僕の日々の勤労のほうはどこも長続きせずでした。どうしても一箇所のところで長く続かない。飽きっぽいとかそういうことではないのだ。職場内で必ずというくらい孤立して毎朝行くのが苦痛になる。そしてある日を境に行かなくなってしまう。それの繰り返しなのだ。この現象はその後の人生でどんどん悪化していく。嫁さんも働きに出ざるを得なかった。
そして僕にコミュニケーション上の問題がある事は多分僕本人よりも嫁さんが気付いていたのだろう。ライブの時はできる限り付いてきてメンバーとコミュニケーションしてくれた。数年後離婚してから自分が何年も孤立するという経験をするまでは、嫁さんのフォローがどれだけ音楽活動をスムーズにさせているかにこの頃は気付くことができなかった。


[43]社会不適合な性質が表面化
結婚して2年近く経過した頃、僕のバンドで弘前大学の学園祭に出演することになった。うちのベースとピアノは現役の弘大生だったからだ。演奏が終わり少し他のバンドを観て、僕は青森駅行きの終電に間に合うようにうちのピアノに弘前駅前まで車で送ってもらった。車を降りるときピアノとベースも降りてきて「今日はどうもお疲れ様です!今日のオカハセさんのサックスはジャズ研のやつらの刺激になったと思います、ありがとうございます」と挨拶して見送ってくれた。青森駅行きの終電に乗って揺られながらこの時、妙にブルーな気分になった。乗客はまばらでずっと田園地帯で灯りもなく電車の中だけが明るいのだが普段はこの雰囲気は好きだ。だけどこの夜は少し違った。暫く電車の窓から真っ暗な田園風景を眺めていると、急に「ああ…なんか死にたいなぁ」という気持ちになった。
すぐに気をとりなおし「あれ?なんで俺は急に死にたくなったんだ?」…
今でこそ色々あって死にたいと思ったことは何回もあるけどこの頃は死にたいなんて思ったことはこの時までなかった。しかもこの時【急に死にたくなるような理由がなかった】のだ。学園祭のうちらのライブは楽しかったし…
「あれ?なんかおかしいぞ。理由もなく死にたくなるなんて…」
人が多い学園祭の大学内から持って帰った「何か」なのか?…
弘大は医学部もある…
あとで聞くとベースも「学園祭のあと何も気力がなくなって半月以上授業もろくに受けに行かずにダラけてました」といい、ピアノは「学園祭が終わったあの夜、金縛りにあって云々〜」と。お祓いしてもらったほうがいいのかな?この日を境にメンタル面の疾患予備群みたいなモノが表面化してきて人生がドロップアウト気味になって行ったことは確かだしね…   偶然かもしれないけど。
その後仕事がどこも長続きしないスパンが極端に短くなってしまった(もちろんあくまで結果であって霊のせいとは決めつけてはいない)。
青森以外の土地で期間を決めて出稼ぎをすればせめてその期間は続くのではないかと思い、それまで毎月やってたジャズ喫茶のライブを中断して、そしていくつか出稼ぎに行ったけどどこも期間満了前にやめてしまう有様。大阪に「線路工(軌道工)」の仕事も行った。寮費無料食事三食無料で純手取りが月41万から45万円。内訳は、昼間は9時〜16時、その後風呂と食事、そして19時には仮眠をして夜中の終電が終わったあとに2時間〜始発ギリの5時間働く。この夜中の仕事がかなりハードだったが睡眠時間を少なくして淀川沿いにサックスの練習をしに行ってた。給料もらったらすぐに嫁さんに書留で35万円くらい送ってはいたけど、そこも色々あってたったの2ヶ月でやめてしまう。
そして茅ヶ崎市に西○運輸のセンター内仕分け作業で寮に入ったけどその時は2ヶ月後くらいに寮を夜逃げして青森に手紙を「俺は音楽を探求しないといけない。少しの期間放浪する」と書いて送り、サックスを持って九州の各都市を回った。今から考えるととんでもない判断なんだけどこの時は大真面目でした…
僕はアホですよね。




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