【長文】自分史[32]〜[38] | オカハセのブログ

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[32]青森県上北町で静養
青森県上北町の隣町「東北町」の「乙供駅(おっともえき)」の前にあるジャズ好きのマスターがやってる喫茶店で「隼人(仮名)」さんと待ち合わせをした。
隼人さんは店に入って僕を見るなりすぐに「お前、精神的に相当疲れてるべ?相当に疲れた目をしてるぞ。
俺には良くわかる。とにかく、暫く俺んとこで休め!」と言ってくれた。
助かった…
家に着くと隼人さんは「今、女房は入院してる。あと数日で退院だけどな。いや~癌だったんだよ」
僕は「癌は治ったんですか?」
隼人「いや~なんとか治った」
隼人さんの奥さんには、ライブハウス「ウッドコーポレーション(仮名)」に顔を出すたびに、とても良くして貰った。気が強く姉御肌で元ヤンキーだったらしく、怒らせると怖いのですが、僕にはいつも優しい人でした。彼女は隼人さんに「孝二くんは隼人と一緒で、生まれっぱなしの “同じ穴の狢” だね」と言っていたらしい。
「おー、孝二。これ俺が処方されてる眠剤(隼人さんは重度の双極性障害です)だけど、普通の奴は半分で効くから半分だけ飲んで寝ろ」と渡されたので、僕は素直に飲んで寝た。僕が処方されてるのではないので、薬事法違反ですね(笑)。半分で効くどころか、僕は30時間くらい起きなかった
隼人「おー孝二、お前だいぶまともな目になってるな。少しは疲れ取れたか?」
僕「お陰でだいぶ楽になった」

数日後、退院する奥さんを十和田市の病院に一緒に迎えに行った。奥さんは数年前に比べてだいぶやつれた感じになっていた…
相当大変だったのだろう。
隼人さんは奥さんに「最初こいつが来た時は、随分と精神的に疲れてる顔をしてたから俺の薬を半分だけ飲ませて寝かしたんだ」
奥さん「隼人!あれ孝二くんに飲ませたの!何考えてるの、ダメだって飲ませたら」
隼人「まあ~いかべ~」
奥さん「いかべ~、じゃないよ!全く!…  孝二君、大丈夫だったの?」
僕「僕には4分の一で充分です(笑)。だけどぐっすり眠れました」
それから3人で生活します。最初の一週間くらいは3人でごはんを食べていましたが、そのうち奥さんは「私は今、食欲がないから二人で食べて」という日が多くなりました。時々、胃の辺りに手を当てて痛そうにしてます。彼女は勝ち気な性格なので、少々痛いくらいでそういう素振りは見せないのです。多分相当痛かったのだと思います。
そして、1ヶ月も経たないうちに彼女は再び入院することになります。


[33]奥さんの病、そして共同作業での曲作り
隼人さん(仮名)の奥さんは、また入院をしました。
隼人さんは近所の世話好きな農家のオヤジさんに僕を働かせてみました。
数日はそのオヤジさんとも上手く行っていたのですが、だんだんと僕への話し方や仕事の指示の仕方とかが威圧的になっていきました。それは側から見ている人がいるとすれば、明らかに手下と親分みたいに見えたでしょう。1週間程経った日の夜その事を隼人さんに打ち明けると「いや、確かにオヤジさんはそういうところがあるんだよ。……おう!もう明日から行くな!俺がオヤジさんに『行けなくなった』と言っておくスケッ」

多分、隼人さんの奥さんは末期癌で助かる見込みは薄いという状態だったと思いますが、おそらく隼人さんには告げず、奥さん本人が知ってるという、普通とは逆の告知だったと思います。だけど隼人さんも薄々気づいているはずですが、その現実に目を背けるように酒浸りになっていきました。しかもかなり強めの双極性障害の処方薬を飲んで酒を飲むので、はっきり言ってまともではない状態で酔うのです。
隼人「俺はもう一生、酒もこの薬もやめる事は出来ないべなぁ」
僕は何も言えなかった。責める事も出来ない。彼にとってはとにかく奥さんは大事な人だった。

この頃隼人さんと僕と共同で曲が出来た。メロディーはほとんど彼が考えて、僕がそれにコードを付けるのですが、曲の途中からは僕が先のコードを提示して彼がそこにメロディーを当てはめるという状態で完成したのが「Cow(カウ)」と言う曲。「牛」と言う意味です(笑)。オカリナに合うかもしれない。今度YouTubeに投稿しようかな。
その後、隼人さんの材木製材所の仕事を手伝うようになった。その頃から製材所の2階に1人で住むことになります。昔製材所の景気が絶頂期の頃の住み込み用の飯場だったようです。ひとつしか部屋は無く多分数人がこのひとつの部屋に住んでいたのでしょう。隣は10年は使われて無さそうな食事室で、古い鍋や釜が散乱してました。
隼人さんもひとりになりたくなったし僕もひとりになりたくなったので、この部屋にひとりきりは快適でした。夜遅くまでサックスを吹いていても近所の苦情が無いのも魅力でした。製材所の隣は隼人さんが営むライブハウス「ウッドコーポレーション(仮名)」です。時々ウッドコーポレーションに行ったり(徒歩15秒)していた。奥さんが入院してから隼人さんの後輩のギタリスト夫婦にカウンターの中を任せていたようです。
最初は隼人さんも作業場に来ていたのが、奥さんの事で双極性障害の症状が悪化して作業場に現れなくなった。ウッドコーポレーションにも隼人さんはあまり顔を出さなかったり、出しても気の入らない演奏になったりしていた。


[34]破滅の始まりだったのかもしれない
上北町から車で15分くらいの青森県十和田市にある「ルーム845(仮名)」というライブハウスに、隼人さんに連れて行ってもらったある日のことです。
十和田市にはとても僕のサックスを理解して下さるギタリストがいて、ドラムは東北町というやはり車で10分くらいの町の「上さん(仮名)」、そしてベースも上さんと同じ東北町の人間、この3人で演奏するのはとても楽しくやりがいがあった。今住んでる静岡にはもっと上手い人はいるのですが、音楽のキャッチボールの気持ち良さは断然この青森のジャズメン達に軍配が上がります。
「ルーム845」は主にロック系のライブハウスなのですが、この日はジャズのセッセョンでした何故かこの日は、今までかつてないくらいサックスが良い音が出なくてステージ上で「癇癪」を起こしかけていた…(実はこの症状は今でも路上で吹いてる時は時々起きます)。「嫌われ剛の生涯」のような【ステージでサックスを破壊】こそはしませんでしたが、自分のアドリブソロの途中で、リード(マウスピースに取り付ける竹べらのような物。竹ではなく「葦」です)をはずしては壊して床に捨ては取り替え、また取り替えてる間に他の奏者がアドリブソロを弾いていても自分のリードがセットされるとまた割って入って行くのを何度も繰り返すという身勝手(今から考えるとメンバーも、こんな自己中な僕をよく相手にしていたと思います)…
床に捨てたリードが5枚程になった時に隼人さんが自分のギターにオーバードライブをかけて「長谷川!もうやめろ!」という風にワンフレーズ弾いた時、癇癪を起こしかけてる僕は一番前の客席にあった【ガラス製の大きな灰皿】を思いっきり隼人さんに向かって投げ飛ばした…
隼人さんはぶつからないようにかわしてから他のメンバーに笑いかけてた…
皮肉な事に普段ロックのライブを主に観てる客たちは「イエーッ」と言って盛り上がっていた…
こっちはパフォーマンスじゃないんだけど… 
ステージ終わった後、マスターが「長谷川君!」と呼ぶので、当然怒られると思ったけど「また、是非演奏してくれ!」と言われた。
みんなおかしいでしょ…
店の大きな灰皿壊してるのに、客に受ければそれで良いのか…
そしてそのあとステージ上ではなんとかセーブできてたのですが、ステージを降りてからサックスを破壊してしまいました…
言い訳になりますが、自覚はなかったものの、僕は精神的にこの頃既に病んでいたのだと思います。


[35]徳を使い切ったか?
サックスを破壊した僕のために隼人さんは知り合いのヤマハの黒いペンキ塗り(ラッカーじゃなくてもろ合成樹脂塗料、笑)というジャンクテナーサックスを
借りて来てくれました。
問題なく吹ける楽器だった。何故ペンキなんか塗ったんだ?黒くてカッコいいからいいんだけど(笑)。
僕が破壊してグニャグニャになったサックスは、隼人さんが奥さんの病室に持って行き「カッコいいオブジェだべ~」と言ったら、奥さんは「彫刻入ってないからいらない」と言ったらしい(笑)。
そう…ヤマハの一番下の機種なので彫刻入ってないんですよ…
奥さんの容態が悪くなるにつれて隼人さんは製材所を休みがちになります。僕もひとり苦手な職人がいて隼人さんがいないときはキツく感じる様になる。僕も休みがちに…
しまいには奥さんの容態が相当悪いのか隼人さんは全く現れなくなりました。隼人さんがいなくなると元々相性の良くなかった職人とさらに合わなくなっていった。
その後隼人さんは僕を気遣って、自分の従兄弟のペンキ屋に僕を紹介した。
親方の名前が(たかし)で、そして働いてる1人がやはりで、僕の名前が孝二だった。
縁があったのかもしれない。


[36]自分勝手、そして結婚
季節は冬になっていた。ペンキ屋に行きだしてからは雪も降って来て、外の塗装の仕事はなく建物の中の塗装ばかりでした。中の塗装のほうが技術がいるけど、外の塗装がない分割と暇でした。オマケに田舎のペンキ屋なのであまり競争とかもないせいか、親方は悠々自適な仕事の仕方だった。例えば、昼ご飯に食堂に入ると「ビール飲むか?」と言って、結局午後は14時くらいから作業を始めて、16時には片付けに入り、16時半には現場を離れて、17時には僕は自分の部屋にいた。僕は相変わらず製材所の2階に住んでいた。
たまに隼人さんに会うと、相当処方薬を強くした様で、ボーッとして挙動不審だった。
クリスマスの日に僕の行ってるペンキ屋は仕事納めだった。15時頃には終わり、そのまま親方の実家に行き料理や酒をご馳走になった。鳥を飼育しているお宅なので、鳥づくしの料理。新鮮な鳥の内蔵とか、見た目はかなりグロテスクだったけど、凄く美味しい。お雑煮もいただいた。お腹もいっぱいになり酔いもかなり回った頃、隼人さんが「おー長谷川、どんだ?」とやって来て、親方は「おープッツンが来たな~」と(笑)。従兄弟同士だからそんな感じなのですね。
「年明けは1月6日から」と親方から言い渡されて、その日は製材所の二階の部屋に帰った。
   僕は27日頃から青森市内に電車で行った。市内でサックスを路上で吹き、夜は駅前サウナに泊まるということを連日していた。或る日路上でサックスを吹いていると、昔市内のジャズ喫茶のスタッフだった女の子が話しかけてきた。ねぶた祭りに毎年のように来てた時期があった僕は、このジャズ喫茶の長く勤めているスタッフとは仲良くなっていた。
まさかこの時この女性と結婚することになるとは想像もしなかった。


[37]青森市と上北町を往き来
結局正月明けの出勤日には上北には戻らずにそのまま青森市内に潜伏していた。すっかり自由な旅人間に戻っていた。それが、別に大したことじゃないと思っていた僕は相当痛い。後で知ったことだが、隼人さんは怒っていた。精神的に疲れてる僕を受け入れて、仕事の世話までしたのにいきなりバックレたのだから…
自分ではバックレたという意識がないところが痛い部分だ。

青森でサックスを路上で吹いていた時に再開したその子と意気投合して、ある日呑みに連れて行って貰った。そこでいろんな話をした。
二人とも相当酔ってきた時僕は上北の話をした。
「上北に隼人さんという凄いロックギタリストがいるんだ。その奥さんはガンで入院しているんだ。一度は良くなって退院したけど、すぐにガンが転移して何回か入院したけど、今回は長いんだ…」
僕がそう言うと、彼女は投げ捨てる様な言い方でこう言った。
「ああ、それはもう助からないよ」と…
僕は少し頭にきて「なんでそんな酷いことを言うの!」と言った。
「だって、そこで抗癌剤治療しても苦しくて、挙句にはモルヒネで意識が朦朧として死ぬのを待つだけなのよ!」と涙声で言った。
どうやら彼女のお父さんが癌で最後はそういう流れだったということがわかった。
1月の中頃に一度上北に帰ってウッドコーポレーションに顔を出すと隼人さんがいた。
半分怒りながら「お前!なんの連絡もなくバッれて何してたんだ!」と言われた。
話をしているうちに僕には悪気がないことがわかると「まあいかべ…」と言った。
懐の広い人なのだ…
そして青森と上北を行ったり来たりしていた。
一度青森の彼女を上北に連れてきた。すぐに隼人さんのギターの虜になった。
そして雪が溶けるか溶けないかの時期のある日、青森市内のマクドナルドだったかロッテリアだったかで彼女とデートしてた時に僕がしきりにお腹に手を当てるので、「どうしたのか?」と訊かれ「どうも最近、旅の疲れが溜まったのか体調が悪いんだ」と言うと「うちに来る?」と…
そのあと僕には自覚がなかったのだが彼女が「孝ちゃん、日に日に顔が穏やかになってるよ」と言われた。
自分ではわからないが野宿やサウナ泊まりが精神的にハードだったのだろうと思う。
そうして7月11日の僕の誕生日の日に彼女と籍を入れた。


[38]マスオさん的生活
嫁さんは実の母と実の娘(つまり彼女はバツイチ)と3人暮らしだった。そこに僕がマスオさん状態(彼女は僕の籍に入っているので僕は婿ではないけど、僕は彼女の身内と一緒に住んでるという意味)で加わり4人暮らしになる。里奈(仮名。娘の名)はこの頃小学2年生だったと思います。あまり人見知りはしない子だったのと、嫁さんの母もサバけた感じの人だったので、共同生活のスタートは良かったほうだと思います。ただ半年経った頃には、僕自身がやはり仕事をしても長続きがしなくてしかもしょっちゅう嫁さんとつまらない事でぶつかるため、里奈は少しずつ僕に対してよそよそしくなってしまっていました。それと同じ時期に里奈は同級生の男の子に爪を立てて軽く傷を負わせたということがあった。その理由を嫁さんが聞きだしても里奈は何も言わない。これは態度が明らかにこの子らしくないから僕との関わりと何か関係があるのかもしれないと思った。僕は嫁さんに「俺がこんなだから里奈はなんだかよそよそしい。それに男の子に爪を立てたのも無関係ではないのかもしれない。だから頼みがある」と言った。上北には時々嫁さんと二人で隼人(仮名)さんのギターを聴きに行っていたのですが、そこに里奈も連れて行き隼人さんのギターや僕のサックスの演奏現場を里奈にもみせるように嫁さんに頼んだ。それでもよそよそしければ、自業自得だから覚悟するつもりでいた。
この頃里奈はまだ小学3年生くらいだったと思う。だからまだライブハウスに連れて行くには少し早いけど、嫁さんもそれで里奈が僕に懐いてくれたほうが良いと判断してOKしてくれた。子供向けのクイズ本などを持って行き退屈しない様に、尚且つ基本的に里奈と嫁さんは常に一緒にいるという風に嫁さんは知恵を絞った。嫁さんは楽器を演奏しない人なので常に里奈とは一緒にいられる。その工夫のせいもあって里奈は楽しそうだった。
上北から帰ってくると明らかに里奈の態度が好意的になったような気がしたけど、まだ少し不安だったので嫁さんに「里奈はどんな感じなんだろう」と訊くと「連れて行ってから里奈は明らかに孝ちゃんに対して少し尊敬してる感じに見えるよ」と言った。
それから暫くすると里奈は家で僕がTVをみている時とかも、ベタベタとくっ付いて来るようになっていた。もともと実の父親と離ればなれになっていた里奈は強く父親を求めている感じがした。多分学校でも里奈は明るくなっているようだった。



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