帯ひろ志の漫画放浪記Powered by Ameba -124ページ目

最近の仕事。

田中 正仁, NHK取材班
その時歴史が動いた 危機突破編 コミック版―NHK

この本に、ボクも描いています。

内容は幕府から莫大な費用の掛かる治水工事を御普請せよと命ぜられた

薩摩義士苦悩のドラマです。


是非お買い求めください。

月刊少年チャンピオンで描いたあの作品2。

知らない方が多いでしょうからちょっと作品に触れます。
持ち込みから行き成り連載になったこの作品「ミラクル・ランジェリー」は、空から降ってきた不思議なパワーを持つ下着を身に着けた女の子が活躍すると言う、まあ、少年誌ではありがちなコメディH漫画でした。

この漫画の連載にあたり、編集者から注意をされたのはこの一点。
作家さんは、作品中にブレーキを踏まないで下さいと言うこと。
どういう事かと言うと、エッチな表現を少年誌でする場合、やはりある程度の節度は大切なのですが、それを出来るだけ外せと言う指示だったのです。

やばい場合には、まったは編集部が掛けると。
とは言え、小学生も読む少年誌ですから、暴走は出来ません。
(今見ると大暴走していますが(^_^;)

自分も探りながら、どの辺までが許される範疇なのだろうかと、執筆を続けました。
しかし、連載修了まで、ただの1回も編集部はブレーキを踏んでくれませんでした。
1990年当時だったから何となく許されたのかも知れませんが、読み返すと顔から火が出るほど恥ずかしい。
しかし、今思い返すと編集部のチェックは本当に無かったなぁ......。
打ち合わせも、こんなこと考えてますと、伝えただけだった様な(苦笑)
まあ、伸び伸びとやらせてもらったのは間違いありませんでした。
連載修了した10年後には、コミックスの台湾版が発売になりましたし、チャンピオン編集部ありがとう。
機会がありましたらまたお仕事宜しくお願いします。

そういえば、チャンピオンで描きはじめて初めてのパーティーで、名前は忘れちゃったけど秋田書店の物凄い偉い人に、「あんたの描く漫画、おもしれぇよ」と、ドスの効いた声で話しかけられたのは凄く感激したっけ。
後で聞いたのだが、その人は故手塚治虫先生に、原稿が遅いと包丁を投げつけたと言う、伝説の編集さんで、当時でも手塚先生を殴った事のある編集者はこの方だけだったとか..............。

そう言えば、一見どこかの大親分って風貌でしたっけ(^_^;
つづく。

月刊少年チャンピオンで描いたあの作品。

月刊少年ジャンプの連載が終わったのは26歳の時。
さて困った。
連載が終われば収入が無くなる。
また1から企画を立ち上げてジャンプでの連載を目指しても良かったのだが、正直またあのネームの直しの日々を送るかと思うと、二の足を踏んでしまったのである。
その間は収入は無くなるし、連載の収入を当て込んでちょつと広い家に越してしまい、高い家賃を払わねばならないと言う事情もあった。

ありがたいと思ったのは、人脈である。
出版社に通っている間に知り合いになった漫画家仲間や、編集さんがこんな仕事をやってみないかと、声を掛けてくれたのである。
プロレス雑誌のカット、4コマ漫画。
ゲームの漫画、成年漫画と色々紹介してもらい、ありがたくも生活出来る程度の収入を頂いた。
そう言えば、徳間書店の青年誌「ヤングキャプテン」なんて3号しか出なかった雑誌にも描いたっけ。
そして2年後、やっと気持ちもまた少年誌で描きたいと言う気持ちが沸き上がり、月刊少年チャンピオンに持ち込みしたのである。
実は、この時も友人の漫画家に編集部を紹介して貰ったのだ。
だから最初からネーム状態での持ち込みが可能で、大変助かった。

月刊少年ジャンプでは、何度も何度もネームの直しを繰り返していたので、また今度もネームの直しはある程度覚悟はしていたのだが、物凄く驚く結果が待っていた。

初めての打ち合わせ、急遽描き上げたネームを持ち、秋田書店へ。
紹介された編集さんに会い、ネームを渡した。
うろ覚えだが、ネームのチェックも程々に、世間話でその場は終わってしまいました。
結果は後日連絡しますと言う内容だったので、これから担当になるかどうかの判断をすると言う話だと思い、家路についたのである。

そして数日後、チャンピオン編集部から電話が.....................。
編「もしもし、秋田書店の月刊少年チャンピオンの樋口ですが」

帯「あっ、お世話になります」

編「この間のネームですが.............」

帯「は、はい...........ゴクッ」

編「タイトルはなんと言うんでしょうか?」

帯「はい、えーと、ミラクル・ランジェリーです」

編「ミラクル・ランジェリーですね」

編「それで〆切りなんですが、15日までにいただけますか?」

帯「へっ  〆切り?  どういう事でしょうか............読み切り載せて頂けるんでしょうか」恐々
突然の話に、少々パニック気味の僕。

編「いえ、連載をお願いします」

帯「えっ、え----------------------------っ!!」
ボルテージは最高潮。もう、鼻血がでそう。

編「すみません、急遽決まったもので予告カットも載せられないで}

帯「れ、連載なんですか.......?」
落ち着け、落ち着くんだオレ!

編「ダメですか?」

帯「いえ、ありがとう御座います、〆切り、大丈夫です、頑張ります!」
ダメなわけ無いじゃないですかぁ-------っ、もう、知ってるくせに!

編「それじゃ、宜しくお願いします」ガチャ    ツーツーツー

まるでキツネに摘まれているような1分にも満たない短い電話でした。

ネーム持ち込みから1回の直しも無く、いきなり連載スタート。
こうして「ミラクル・ランジェリー」は始まりました。

あとから聞いた話ですが、丁度その頃新規連載を起こそうと何本か候補を立てていたそうなんです。
そこに、僕のネームが持ち込まれ、最後の枠を取っちゃったとか。
僕が現れなければ連載を勝ち取っていた作家さん、ご免なさい。
しかし、僕にとってはまさに絶妙なタイミングで物凄くラッキーでした。

あと、一発連載が貰えたのも、月刊とは言えジャンプで連載したことがあると言うネームバリューをとても感じました。
辛いネームの山を築いて来ていると、他の出版社も知っているからでしょう。

こうして低空飛行ながら漫画家の道を飛び続ける事になりました。
つづく。

さらば、徳田ザウルス先生。

3月23日、「ダッシュ!四駆郎」などの作品で知られる徳田ザウルス先生が亡くなった。

初めて彼を見かけたのは、新東京サーキットで行われた「かっとび漫画家グランプリ88`」と記憶している。
コロコロコミックのハッピを着て、小さいバイクに大きな身体を乗せていたのでとても目立って、直ぐ分った。
その時にはまだ僕は児童誌に描いてなかったので挨拶する事も無く、
遠巻きに観ているだけだったけど。

それから数年してMacを購入。
ニフティサーブに入会した。
そこには漫画フォーラムがあり、楽しく参加させて頂いた。
そしてそこには徳田先生が「黒ザウ」のハンドル名で参加されていて、
初めて交流を持った最初の場所になりました。
意見交換なんかして、楽しかったなぁ。
パソコン通信で知らない人間と仲よくなると言うのを初めて体験した貴重な経験でした。

そしてまた数年してJ-Mac会に参加、やっとリアル徳田先生に合う事が出来ました。
勉強熱心で、J-Mac会の理事としても大活躍されていました。
その、独特の語り口は豪胆でユーモラス。皆を湧かせていました。

僕のイメージは、豪快で繊細で正直者。
割り切った様に見える生き方にちょっと不安を持っていましたが、やはりもっと身体を労って欲しかったな。
47歳と言う年齢で逝ってしまうなんて、ちょっと早すぎますよ。

徳田ザウルス先生、安らかにお眠り下さい。
心からご冥福をお祈り申し上げます。

流しのアシスタント

これはまだデビュー前の話。

イラストなどで稼いでいた事は書いたと思うけど、その他に編集部の依頼で不特定の先生の手伝いに良く出かけました。
まあ、流しのアシスタントです。

色々な先生に出会え、また勉強になったり変な癖を見つけて面白かったり、困ったり(笑)

ある時の話です。
あるところでアシスタントを終えた僕は、編集さんの頼みで連続で次のアシスタント先に行く事になった。
場所は名古屋。
すでに夜も遅かったので、翌日の新幹線で行く事に。
いったん家に帰る手もあったが、朝早くに新幹線に乗らなければ成らないので泊まるところは無いかと思っていたら、集英社近くの「ホテルきんゆう館」に行ってくれと編集さんは言う。
この「きんゆう館」(ご免なさい、古い話で漢字を忘れてしまいました。)と言うのは、漫画家が良く缶詰めになるホテルの事である。
今はこのホテル、地域の再開発で無くなってしまいました。

きんゆう館に到着すると、そこには缶詰めになっている漫画家さんが(笑)
アシスタントさんも交えて数人は居ました。
その部屋の隅を借りて、睡眠をとる事になりました。
しかも、布団は先生やそこのアシスタントさんが使うと言うので、余っているマットレスで僕は眠りました。
横で仕事をしているので、気になって眠れないかと思いましたが、僕も今までほぼ徹夜でアシスタントをしてきたので、あっさり熟睡。
しかし、これがまずかった。
後悔は名古屋に着いてから思い知る事に。

初めて伺う名古屋の先生の仕事場は、結構田舎で、周りにお店の気配も無い田んぼが広がる田園地帯。
そこの平屋の1軒家が先生の仕事場でした。
到着すると編集部で知りあった同じ立場のアシスタントさんが居ました。
先生は別の部屋で原稿を執筆。

実はこの先生、仕事中に外部の音が聞こえると全く仕事が出来なくなる、かなり神経質な先生。
アシスタントの一人が、数時間置きに先生の部屋に仕事を受け取りに行き、その指示に従って作業をすると言う、まったく隔離された状態の仕事場でした。
そして、最初の指示をチーフのアシさんに聞いていた時です。
腰に激痛が走り、へなへなと床にへたり込んでしまいました。

そうです。
やわらかいマットレスの上で寝たのが原因でしょうか、生まれて初めてぎっくり腰になったのです。
そこのアシスタントには二泊三日居たのですが、その期間はまさに地獄。
腰の痛みに耐え、脂汗を流しながら仕事に没頭したのです。

そこで、もう一つ辛かったのは食事。
アシスタントに行けば、食事の時間ぐらいしか休憩時間はありません。
が、しかし、この先生見事に食事を取らないのです。

当時、腰の痛みの記憶が強くてハッキリと覚えては居ないのですが、この二泊三日の仕事中まともな食事を取った記憶は2回。
兎に角、うっそーーーーーん! と、思ったのは覚えている。

あまりの腹減りに、帰りの新幹線の中でうな重のお弁当をむさぼり喰ったのを思い出します(苦笑)

翌月もその先生からまた名古屋に呼ばれましたが、腰の状態が思ったより良くなく、お断り申し上げました。
その後、腰の痛みが取れるのに3ヶ月。
兎に角トイレにしゃがむのが辛かった記憶ばかりが残っています。

えっ、僕は食事はちゃんと出すかですって?
もちろん。
貧相でも必ず食わせます(笑)
と、言うか結構食事に気を使っている先生は多いんじゃ無いかな。
中には豪華な食事で釣って、アシスタントを逃がさない様にしている先生もいます。