坂戸城 「御館の乱」を歩く⑤ | 落人の夜話

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城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

 
魚野川の対岸から坂戸城を見上げたとき、思わず唾をのみました。

標高634m(!)、比高470m(!!)。
思わず春日山城と比べてみましたが、越後の府城にして「日本五大山城」にも数えられている春日山の標高は189m。坂戸城の高さの前には、思わず「わずか」と前置きしてしまいそうです。

ちなみに大規模な山城として私がまず思い出すのは近江の小谷城ですが、それでも標高495m、比高250mほど。
山塊をまるごと城郭に仕立てた坂戸城は、まさに“上田長尾家の要塞”と呼ぶべき大城郭でした。


 
この日、夜明けとともに起き出した私はまず樺野沢城を踏破してここへ来たんですが、あとの事情もあってここに割ける時間は2時間ほど。
でもここ、そもそも城じゃなくて山だったんですよ。坂戸山。
すれ違う人はみんな山登りスタイルで、ふもとの駐車場もよく見たら「登山者用」。

「登城者用」はどこだね?(-""-;)
などと看板相手に絡みつつ、私は泣く泣く山頂までの登城を断念。
時間の許すかぎり、山麓の遺構を巡ることにしたのでした。

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現在の南魚沼市一帯は古来「上田荘」と呼ばれ、坂戸城はその支配拠点でした。
南北朝期、越後守護代に任じられた長尾家の一族がこの上田荘にも根を張り、坂戸に拠ったのが「上田長尾家」のはじまり。でも、上田長尾家は本家にあたる府中長尾家に従順ではなく、たびたび対立したようです。


  
長尾政景はこの上田長尾家の第7代(もしくは6代)当主。
天文19年(1550)には長尾景虎(のちの上杉謙信)に対し謀反を起こしますが、翌年に鎮圧され降参。その後は景虎(謙信)の姉を娶っていたこともあって重用されたようです。
ただ、死に様には謎が多く、城下の「野尻池」で舟遊びの最中に溺死したそうです。

坂戸城下の銭淵公園には「長尾政景公生涯の地」と記した碑があります。
政景が溺死した「野尻池」の場所については数説ありますが、有力なのはこの銭淵公園内の池とされています。


 
ちなみに当時の琵琶島城主・宇佐美定満を暗殺犯とする説もありますが、出典は軍記物の類なので定かではありません。
城下のはずれに長尾政景公墓所があるので、歴史ファン同志の方々におかれましてはそちらもお見逃しなく。


 
銭淵公園内を歩いていると、最近作られたらしいこんな像もみつけました。
テーマは「喜平次と与六」だそうで、やはりNHK大河「天地人」を機会に作られたようです。
若々しい二人の姿は御館の乱(天正6年:1578)頃の再現でしょうか。
タカラヅカばりのポーズが眩しい与六の指先あたりの尾根筋には、かつて坂戸城の曲輪や城壁が累々と連なっていたと思われます。

長尾喜平次。後の上杉景勝
長尾政景の息子で、上杉謙信の甥。謙信亡き後の御館の乱を制し、分家の上田長尾家出身ながら上杉家の家督を勝ち取りました。
樋口与六。後の直江兼続
景勝の“親衛隊”である上田衆の一員だった彼は、御館の乱の際にはまだ10代の若造でしたが、景勝の側近として引き立てられ、のちに上杉家の執政となります。


 
坂戸城は山麓部にも広い範囲で遺構が残っていて、それらを巡るだけでも1時間はかかります。
こちらは山麓の根小屋エリアを守った内堀跡。今もしっかり水をたたえています。


 
山麓部を奥へ行くとこの石碑があり、背後には居館部の石垣が残っています。
これは慶長3年(1598)に入城した堀直寄の時代のものと言われますが、それ以前からも城主や重臣クラスの居住空間として整備されていたことは間違いなく、長尾政景やその子「喜平次」景勝が一時この辺りで生活していた可能性もありそうです。

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天正6年9月。
上杉家の家督争いとなった御館の乱で、上杉景虎の実家である北条家は救援軍を派遣。軍を率いる北条氏照氏邦は弟を助けるべく三国峠を越え、荒戸城樺野沢城と立て続けに攻略すると、いよいよ坂戸城への攻撃を開始しました。
ここに御館の乱の“天王山”となる、坂戸城攻防戦がはじまります。

坂戸城に籠る上田衆は、城代・深沢利重を筆頭とするガチガチの景勝シンパ。坂戸城が落ちれば景勝は最大与党を失い、乱の大勢は決します。
越後国内の景勝方の中には景虎方に転じようとする者も出始め、春日山を攻めあぐねていた御館の景虎を勇気づけたことでしょう。

一方、このころ春日山の景勝が飛ばしていた指示には、例えばこんな文言がみえます。

―無人衆にて、小要害共相抱え候も如何に候…(『上杉氏文書集』より)

人数が少ないのだから小さな砦は放棄し、拠点に兵を集中して固く守備せよ…
兵力不足の景勝が、坂戸城に兵を集めて守らせることで狙ったのは、冬の到来です。
関東から攻め込んできた北条勢は大軍。しかし冬までここを持ちこたえれば、三国峠が雪に塞がれる前に必ず彼らは撤退するだろう…。

景虎救援軍はこの場合、第二次大戦下の1941年、ソ連赤軍が支配するロシアの大地に攻め込んだドイツ軍に似ています。
景勝はひたすら攻勢に耐えて時間をかせぎ、冬将軍を待つ作戦に出たのです。


 
今回は登れませんでしたが、坂戸城の堅固さはもちろん、高く険しい山頂付近に築かれた山城部分に見ることができるでしょう。が、山麓の根小屋地区を抱きかかえる巨大な天然の防壁、尾根の存在も大きいようにみえます。



こちらはそんな尾根のひとつ、薬師尾根の登り口。尾根上に薬師堂を設けたことからそう呼ばれていました。
尾根上には今も曲輪や食い違い虎口の痕跡が残っています。


 
尾根に登って城外をみると、湯沢から三国峠側に向けての視界が開けました。

写真ではちょうど木の先端あたりで隠れていますが、ここから南へわずか8㎞ほどの所にある樺野沢城が見えます。
尾根の下は水田。おそらく往時からそうだったでしょう。

樺野沢方面から坂戸城下へ寄せてきた北条勢は、数度にわたって総攻撃をかけたそうです。
その時この薬師尾根からは、泥濘に干草や土俵を投げ入れ、盾や竹束を押し並べて距離を詰めてくる北条勢と、城内に籠って忙しく動く上田荘の人々と、どちらも見渡すことができたはずです。

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9月中ごろ。坂戸城からほど近い妻有の地に武田勢が出現し、情勢を観望したそうです。
おそらく勝ち馬を見極めようとしたのでしょうが、当時もこの攻防戦こそ御館の乱のターニングポイントと認識されていたのでしょう。
「ちっ、鵺め…」と、氏照は意図不明の武田勢に吐き捨てたかも知れませんが、当初その鵺を頼ったばかりに、景虎救援軍は“遅すぎた援軍”となりました。

10月。越後に早い雪がちらつきはじめても坂戸城は落ちず、ここに至って氏照は、来春の再来を誓って撤退を決断。
景虎救援軍は樺野沢城に守備隊を残して去り、景虎が求め続けた最大の武器は、無情にも彼の手に届く前に三国峠の向こうへ流されてしまいました。


北条城」へつづく



 訪れたところ
【坂戸城跡】新潟県南魚沼市坂戸字坂戸山
【長尾政景公墓所】新潟県南魚沼市坂戸117