北条城 「御館の乱」を歩く⑥ | 落人の夜話

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北条城跡に登って案内板をみると、やはり御館の乱(天正6年:1578)とのかかわりが説明されていました。
御館の乱にまつわる歴史や伝承は新潟県内に残る多くの城跡でみられ、越後の郷土史に大きな影響を与えています。

当時、この城の主は北条景広。戦国武将としての知名度としてはあまり高くないかも知れませんが、北条高広の嫡男、といえば了解される方も多いでしょうか。
父の高広は某“野望系”ゲームの影響でか、向背定まらぬ面従腹背の将と思われがちですが、文武の手腕が上杉謙信に信頼され、関東方面の統括役として厩橋城(群馬県)を任されていました。
天正2年(1574)に家督を譲られた景広も父の職を継ぎ、謙信が急死したときは父子そろって厩橋城にあったため、北条城は家臣たちが留守を守っていたようです。

ちなみに北条の読みは「ほうじょう」じゃなくて「きたじょう」で、まぎらわしいですが小田原の北条氏とはまったくの別系統。
でも、御館の乱では父子そろって上杉景虎方に付き、景虎の実家である小田原北条家が派遣した救援軍に合流しています。

「鬼弥五郎」と恐れられた北条景広は父にまさる将器を謳われ、神余親綱本庄秀綱上杉景信らと並んで景虎方の主要メンバーでした。
御館の乱にまつわるストーリーには実に多彩なキャラクターたちが登場しますが、彼がこの乱の終盤で見せたはたらきは、彼の男気あふれる個性を伝えるものと思えます。


天正6年(1578)10月。
小田原からやってきた景虎の兄・北条氏照率いる救援軍は、この乱の“天王山”ともいえる坂戸城攻防戦で遂にこれを落とせず、越後の雪を避けて関東に撤退。
この時、坂戸城攻めに加わっていた北条景広は、救援軍の関東撤退が決まると父と別れ、わずかな郎党たちと間道を伝って御館に向かいました。

乱が勃発した5月以降、御館の景虎は、味方の諸城と連携して春日山城上杉景勝と対峙していましたが、個々の戦闘においては初戦で主将格の桃井義孝を失い、続く居多浜の戦い(天正6年6月)で古志長尾家の上杉景信を討たれるという惨敗続き。
さらに頼みとした実家の救援軍が撤退したことで形勢は完全に景勝にかたむき、軍事の采配をとるべき人材も欠乏しているという窮地にありました。

景広は父のいる厩橋城にも一族のいる北条城にも戻らず、軍事経験の浅い景虎の采配を助けるべく、リスクを冒して御館に入ったわけです。

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越後北条氏の本姓は毛利氏。当主が代々その名に用いる「」の字は、家祖である大江広元から継承したもので、安芸の毛利氏とは同族にあたります。
鎌倉時代に大江広元の孫にあたる毛利経光が越後佐橋荘を与えられて移り住み、一族は周辺の「北条」や「南条」「安田」などに分かれて、それぞれの地名を名字としていったようです。
なかでも北条城は比較的大規模な拠点だったようで、城下には「十日町」「七日町」などの地名も今に残っています。


 
こちらは北条氏歴代の菩提寺、専称寺
表門は「豆ノ木御門」とも云われ、北条城の大手門を移築したと伝わります。
この寺の裏から登る道が、かつての大手筋とされています。


 
登城道の途中にみえる毛利時元の墓。
北条城の築城者と伝わり、北条毛利家の初代として扱われています。

大手門からここまで約5分。でも8月だったので藪蚊が多く、蜘蛛の巣にも2度ひっかかってしまいました。
比較的整備されてると思ったんですが…


  
「連珠塞」とはいわゆる「畝状竪堀」のことでしょうね。まあ、藪と藪蚊の襲撃でほとんど確認困難でしたが。。
城の南端を守るこの遺構が見えてくれば、その先には虎口っぽい跡があり、ここからいよいよ城内です。


 
枡形跡です。
ブレブレなのは、藪蚊の襲撃を避けるため走って撮ってるからです。
ハァハァε=((;´Д`)ノ☆ カシャ
け、けっこうしんどい…


 
二ノ丸の先にはかなり大規模な堀切がありました。
この城の縄張りには大規模な箱堀がいくつか見えるんですが、このあたりは鉄砲を意識した遺構かもしれません。
ここを越えれば城の中核にあたる「実城」になります。


 
やっと本丸まで登ってきました(;´Д`)ハァハァ
本丸は長さ160m、幅15m程の細長い曲輪で、眺望は抜群です。

高低差はさほどでもないんですが、思った以上に蚊が多かったのでほぼ走り通しでした。
この時はやや強引に時間を作ったんで、虫対策の手間を惜しんでしまいました。やっぱり夏の登城はちゃんと準備しないと…

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天正6年10月7日。
景広が御館に入ったことを探知した景勝方の武将・山浦国清は、味方諸将に長文の書状を回して警告を発しています。

―北丹(北条丹後守=景広)上府、定様々武略不可有際限候間、少有油断者、不可有曲、萬端気遣用心…(『越佐史料(歴代古案)』より)

北条景広が府中に入ったようで、さまざまな武略があるだろうから油断なく用心しなければならない。しかし「過分之人衆ニも無之候」、つまり引き連れた人数は少ないようだから、こちらは大軍で当たることが大切だ…とアドバイスしています。

景広の御館入城は、例えば真田信繫の大坂入城のように敵方の諸将を戦慄させたようで、景勝は「丹後守さえ討ち取れば景虎は如何にもなるべし」と配下を鼓舞したとも伝わります。
が、この頃にはもはや景広のみでは大勢は動かしがたかったようで、景虎方の諸将は切り崩されて脱落が相次ぎ、御館では兵糧の調達も難しくなっていました。

翌、天正7年2月1日。
景勝の総攻撃を前に景広は手勢のみで府中八幡宮に陣を敷き、激闘の末、景勝配下・荻田孫十郎の鑓を受けて重傷を負いました。
このことを景勝は2月3日付の感状で激賞し、

―殊更北條丹後守鑓付事、無比類候…(『越佐史料(武州文書)』より)

特に北条丹後守(景広)に鑓をつけたことは比類ない手柄である…として、当時16歳の若侍に過ぎなかった荻田孫十郎を侍大将に取り立て、糸魚川に1万石を与えています。
討ち取ったわけではなく、鑓をつけただけでこの褒賞というのはあまり類がないように思いますが、どうでしょうか。

ただ、景広は結局この傷がもとで死去。死の直前、景虎に小田原へ逃れるよう遺言したとも云われます。
ここに至って御館では兵の逃亡が続出し、いよいよ落城間際の様相を呈しました。


2月9日。景広の死を伝えられた北条城は、留守衆の家臣たちが打って出て玉砕。
北条城はのちに景勝の家臣・桐沢具繁に与えられ、慶長3年(1598)、景勝が会津に移封されるとともに廃城となっています。


御館」に続く



 訪れたところ
【北条城跡】新潟県柏崎市大字北条