荒戸城 「御館の乱」を歩く④ | 落人の夜話

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城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

天正6年(1578)5月。
越後で御館の乱勃発の第一報が入った時、小田原北条家当主・北条氏政は、常陸小川台で“坂東太郎”こと佐竹義重率いる佐竹・宇都宮連合軍と対陣していました。

急報は彼の末弟・上杉三郎景虎からの救援要請とセットだったに違いありませんが、精強な佐竹勢を眼前にしていた彼にとって、これは舌打ちしたくなるほどのタイミングの悪さだったでしょう。

氏政は自身が動けない間、ともかく同盟国・甲斐の武田勝頼に景虎への援軍派遣を依頼。
ところが勝頼は援軍を出したものの、上杉景勝が提示した「金一万両」と「信州飯山領の割譲」という条件に丸め込まれ、曖昧な態度のまま「和平を仲介した」と称して帰国。
これを知った氏政は唇を噛む思いだったでしょう。佐竹・宇都宮連合軍を常陸まで押し込んだ優勢を捨て、急いで陣をたたむと、すぐさま景虎救援軍の編成に取りかかりました。

大将は氏政の次弟・氏照と、三弟・氏邦
人数はあきらかではありませんが、北関東方面を統括する立場にあった彼ら大将の格からみて、少なくとも万を超える規模だったと考えられます。

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―三国峠をダイナマイトで吹っ飛ばすのであります。そうしますと、日本海の季節風は太平洋側に吹き抜けて越後に雪は降らなくなる…

三国峠に来て思い起こしたのは、新潟が生んだ昭和の“今太閤”田中角栄の演説でした。

三国峠は古来、関東と越後平野をつなぐ三国街道の要所で、峠の標高は1200mを超え、冬季は雪に埋もれる難所としても知られていました。
とはいえ群馬県と新潟県の間を分断する三国山脈は、当然ながらダイナマイトで吹っ飛ばせるような代物ではなく、戦国時代に上杉謙信がたびたび実施した関東遠征を「越山」と称したのは、この峠を越える壮挙をたたえる意味もあったことでしょう。


 
新潟県側から国道17号線(三国街道)を南へ行くと、芝原トンネル手前の脇道を登ったところに、荒戸城跡はあります。

この城は築城の時期と意図がはっきりしています。
時期は天正6年6月、上杉景勝が坂戸城の上田長尾家中(上田衆)に命じて築かせました。
意図するところは、北条氏照率いる景虎救援軍の三国峠越えを阻止すること。

純軍事的な需要によって築かれた荒戸城は、コンパクトながら実に戦闘的な縄張り。
土累、堀切、角馬出、虎口、竪堀、外桝形…とまあ、戦国期の山城にみられる仕掛けをほとんど網羅しているのです。


 
入口の案内板からしばらく緩やかな坂を登ると、累々と連なる土累が見えてきます。

手前は山中城など北条系城郭に多用される角馬出と土橋。非常に完成度の高い遺構です。
歴史的経緯からすると、北条勢が攻め落としたあと改修を加えた名残でしょうか。
山城ファンであればもうこの時点で、テンションが上がること間違いありません。


  
左はその角馬出下の横堀。今でも現役で通用しそうな切岸の角度です。
右は竪堀となって斜面を落ちる堀切。


  
左は北側の二ノ丸から本丸に至る城道。
右は本丸にて。本丸の周囲は高さ約2mの土累が半周し、櫓台跡もみえます。

いやしかし、何て素晴らしい保存状態なんでしょう。
うっとりし過ぎて、でっかいアブに体当たりされましたよ。


 
中でも私のイチオシな見所はこちら。
旧三国街道に面した西側の出入口には外桝形が設けられているんですが、そこから城内に入ったところ。

城道は掘り込まれ、門を破った寄手は両側から城兵の繰り出す槍を受けるでしょう。さらに正面には本丸の高台があり、鉄砲の狙撃にも晒されることになります。
恐ろしくも芸術的な“殺し間”です。


 
本丸の東虎口から見下ろす越後方面。
眼下には湯沢の町が広がります。


8月、北条の援軍を率いる北条氏照は、上野国の厩橋城城主で景虎方の北条(きたじょう)高広景広父子と合流。
弟を救援すべく三国峠を越え、最初の関門である荒戸城に攻めかかりました。
守るのは坂戸城から派遣された上田衆でしたが、大軍の猛攻を前にたちまち陥落。
ここを突破された景勝方は、史上初めて、北条勢に越後平野への乱入を許しました。

御館の乱の終結後は、この城には上杉景勝配下の栗林政頼が在城。
慶長3年(1598)に景勝が会津へ国替となった際に廃されたようです。

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天正6年5月にはじまった御館の乱で、上杉景勝の強みは何といっても越後の府城たる春日山城を押さえていること。
加えて出身母体である上田長尾家が統治する魚沼地方や、与党の多い揚北(下越地方)にも強力な勢力がありました。が、御館をはじめ不動山城鮫ヶ尾城など、春日山のまわりを景虎方の城に囲まれて身動きできない状況にありました。

一方、三郎景虎の強みは関東の覇者・北条家が実家ということにあり、甲斐の武田家はその同盟国、会津の蘆名家も景虎の支援にまわるなど、越後の隣国は当初すべて景虎方。が、越後国内の景虎方は統一性に乏しく、個々の戦闘では指揮系統のしっかりした景勝方に敗れることしばしばでした。

ともかく武田や北条の援軍が到着するまで、我慢して春日山を拘束していれば…
この状況で景虎は、例えば暴れるサメに網をかけ、疲れさせて銛を打つ漁師のごとき作戦を展開した訳で、ただの貴公子ではなかった彼の面影を見る思いです。

ただ、彼らが囲むのは故・謙信が丹精込めた堅城・春日山で、そこに拠るのは数々の戦場で武名を響かせた景勝。
景虎のネックは、彼の与党たちだけでは景勝という屈強なサメに止めを刺す銛にはなり得ず、その銛をはやく他所から借りてこなければ、漁師である彼ら自身が海に引きずり込まれてしまいそうな点にありました。

1本目の“銛”は武田勝頼でしたが、これは頼りなくも景勝に丸め込まれてしまいました。
しかし景虎は、もっと信頼できる2本目の“銛”を待っていました。

9月。
北条氏照率いる景虎救援軍は、荒戸城に続いて樺野沢城をも攻略し、いよいよ上田長尾家の本山・坂戸城を視界にとらえます。

北条勢が坂戸城を落とすことの意義は、単に御館までの通路をひらくのみに留まりません。
景勝の出身母体で、その戦闘力を支える“親衛隊”でもある上田衆が壊滅すれば、もはや乱の大勢を決する事態となり得る訳ですが、そのあたりは次回「坂戸城」にて。



クローバー訪れたところ
【荒戸城跡】新潟県湯沢町神立字袖山