愛信情報
【象徴的な写真、岸田大臣の想いも】
https://twitter.com/SatoMasahisa/status/719532527476563968
支那朝鮮に支配され反日売国テレビ局・マスコミが隠蔽して来た真相が、今世界の外務大臣の前に明かにされる。
長い間、70年もの間、反日売国勢力が日本国民を洗脳してきた自虐史観の嘘が暴露された。
「二度と過ちを繰り返さない」の主語は連合国・アメリカである事をアメリカ大統領が認めたわけである。
日本は、もういい加減に自虐史観から目覚めてくれと世界の国民が声を揃えて叫んでいるのです。
日本国内に不法滞在する反日売国勢力の支那朝鮮勢力を徹底的に討伐する時を迎えたのです。
詳細は
【マスコミ隠蔽の掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj4.cgi
【マスコミ隠蔽のタイトル一覧】最新版はこちらをクリックして下さい。
https://twitter.com/SatoMasahisa/status/719532527476563968
支那朝鮮に支配され反日売国テレビ局・マスコミが隠蔽して来た真相が、今世界の外務大臣の前に明かにされる。
長い間、70年もの間、反日売国勢力が日本国民を洗脳してきた自虐史観の嘘が暴露された。
「二度と過ちを繰り返さない」の主語は連合国・アメリカである事をアメリカ大統領が認めたわけである。
日本は、もういい加減に自虐史観から目覚めてくれと世界の国民が声を揃えて叫んでいるのです。
日本国内に不法滞在する反日売国勢力の支那朝鮮勢力を徹底的に討伐する時を迎えたのです。
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おもしろすぎる桐谷さん。
「月曜から夜ふかし」株主優待・桐谷さんの部屋で発見した"謎の女性用下着"にTVスタッフ凍りつく
バラエティニュース 2016/4/13 07:00
村上信五(関ジャニ∞)とマツコ・デラックスが様々な話題のVTRを見てトークを繰り広げる日本テレビ系列の「月曜から夜ふかし」。
4月11日の放送では「春爛漫!日本の大大大問題一斉調査スペシャル」と題して、日本全国の様々な話題や問題を面白おかしく紹介した。
中でも話題となったのが「桐谷さん引っ越し問題」。これは桐谷広人さんという人物が新居へと引っ越しをする様子を番組が全力サポートするという内容だった。
そもそもこの桐谷さんは「株主優待だけで生計を立てている人物」「1億6千万円以上の株を保有する投資家」として以前にも同番組で注目を浴びた人物。
その際には荷物で溢れ返った部屋を7時間かけて掃除したり、マツコや村上から「部屋が狭過ぎるんじゃない?」と指摘されて引っ越し先を探す企画まで立ち上がったという「月曜から夜ふかし」視聴者にはお馴染みだ。
今回、1年ぶりの登場という桐谷さん。前回の企画以降も引っ越しを諦めきれず、番組スタッフと共に再び新居探しを決行。
そして、ついに始まった新居への引っ越しの様子を今回の放送で全力サポートする事になったのだ。
桐谷さんが新居に求める条件は「家賃20万円から30万円」「100平米ぐらいの広さ」の2つに加えて、「(午前中は寝ているから)部屋は西向き」「(46年住み続けているから)中央線沿線」「(いざという時に飛び降りられるから)3階くらいまでの低層階」という独特のもの。
物件探しの条件すらも個性的な桐谷さんである。
番組スタッフは不動産屋の店員と共に桐谷さんを連れて様々な物件の内見を行い、2日間で6件の物件を見て回った。
そして3日目、桐谷さんは待ち合わせをしていた番組スタッフに「悩んだ末に決めました」と決断を下し、すぐに契約を結んで引っ越しが決定した。
しかし、新居が決まったものの、問題は現在住んでいる部屋に溢れ返った荷物。
新居の広さは現在の2倍になるものの、桐谷さんは「一度すべて(新居に)持って行ってから捨てる」と荷物を整理する意思を見せず、マツコは「持って行くの!?」と呆れかえり、村上も「捨てて行った方がいいですよ」とVTRの中の桐谷さんに思わず声が出てしまう有様だ。
そこで番組スタッフは桐谷さんの自宅に断舎利のプロやましたひでこ先生を呼び、一大断舎利作戦を決行する事となった。
しかし、そんな断舎利中に事件は起こった!
部屋の不要な物を確認していく桐谷さんとやました先生だが、やました先生がビニール袋に入った何かを見つけて番組スタッフに「これ、何だと思う?」と確認を求めた。
番組スタッフがビニール袋から取り出してみた物は、なんと白いレースの女性用下着!
思わぬ展開にその場にいた全員の冷たい視線が桐谷さんに突き刺さり、桐谷さんも動揺を隠せずにしどろもどろで言いつくろう事になった。
必死に弁明する桐谷さんの様子に、またもVTRを見ながらマツコと村上は笑いをこらえきれない。
その後も梱包のプロ2人が助っ人に入り、ダンボール150箱以上を梱包してようやく引っ越しの準備が出来たのは断舎利開始から3日後の事だった。
こうして荷造りが終わり、ついに新居へとやってきた桐谷さん。新居は家賃20万4千円の3LDK。
最寄駅から徒歩5分。新居の映像が流れると「うわ!ひろ~い!」とマツコも驚きを隠せない程の良い物件だ。
ちなみに桐谷さんがこの新居を選んだ決め手は「2階だから」「下が土だから飛び降りても大丈夫そう」という点だそうで、これにはスタジオのマツコも「(決めては)そこ?」と大笑い。
村上も「(この人)面白いな~」と桐谷さんの個性的なキャラクターに改めて感心しきりなのだった。
だが、問題はまだまだ終わらなかった。
新居に荷物を運び込んだ桐谷さん。その様子を後日確認しに行った番組スタッフが目にしたのは、3LDKのうち2つの洋室とリビングを埋め尽くすダンボールの山、山、山。
新居の4分の3はダンボールで埋め尽くされ、桐谷さんが「多くのダンボールの大部分を死ぬまで開けないかもしれない」と語ると、マツコからは「どういう引っ越しよこれ」とツッコミが入ってスタジオは大爆笑となった。
マツコや村上からも「(内容が)濃いな!」と驚かれる桐谷さんのキャラクター。
次に桐谷さんが「月曜から夜ふかし」に登場する時はどんな姿を見せてくれるのか?今から楽しみで仕方がない。
(担当・圭之介)
http://news.merumo.ne.jp/article/pickup/4362288
たぶん、優待券でもらえる下着だったのだろう。
もらえるものは、もらっておかなきゃ。って感じで、、、。
それに、白くて美しいレースの下着に女性の象徴としての
「あこがれ」があったのだろうさ。
お人形が欲しい女の子のような単純な所有欲。ただし、一時的なものでした。
たぶん、そこにあることすらも忘れていたんだろうさ。でなきゃ、TVの撮影が入るのにそのままにしておくはずがないだろう。
桐谷さんは、フーテンの寅さん並みにおもしろい人。こまねずみのように、日々、かけずりまわっていて、株の優待券だけで生きているような人。かけずりまわっているので、それがいい運動になっていて、筋肉がほどよくついて健康そう。
自分の身うちならうっとおしいが、他人だからおもしろがっておれる人。
でも、ちょっとだけ可愛いところもある。
バラエティニュース 2016/4/13 07:00
村上信五(関ジャニ∞)とマツコ・デラックスが様々な話題のVTRを見てトークを繰り広げる日本テレビ系列の「月曜から夜ふかし」。
4月11日の放送では「春爛漫!日本の大大大問題一斉調査スペシャル」と題して、日本全国の様々な話題や問題を面白おかしく紹介した。
中でも話題となったのが「桐谷さん引っ越し問題」。これは桐谷広人さんという人物が新居へと引っ越しをする様子を番組が全力サポートするという内容だった。
そもそもこの桐谷さんは「株主優待だけで生計を立てている人物」「1億6千万円以上の株を保有する投資家」として以前にも同番組で注目を浴びた人物。
その際には荷物で溢れ返った部屋を7時間かけて掃除したり、マツコや村上から「部屋が狭過ぎるんじゃない?」と指摘されて引っ越し先を探す企画まで立ち上がったという「月曜から夜ふかし」視聴者にはお馴染みだ。
今回、1年ぶりの登場という桐谷さん。前回の企画以降も引っ越しを諦めきれず、番組スタッフと共に再び新居探しを決行。
そして、ついに始まった新居への引っ越しの様子を今回の放送で全力サポートする事になったのだ。
桐谷さんが新居に求める条件は「家賃20万円から30万円」「100平米ぐらいの広さ」の2つに加えて、「(午前中は寝ているから)部屋は西向き」「(46年住み続けているから)中央線沿線」「(いざという時に飛び降りられるから)3階くらいまでの低層階」という独特のもの。
物件探しの条件すらも個性的な桐谷さんである。
番組スタッフは不動産屋の店員と共に桐谷さんを連れて様々な物件の内見を行い、2日間で6件の物件を見て回った。
そして3日目、桐谷さんは待ち合わせをしていた番組スタッフに「悩んだ末に決めました」と決断を下し、すぐに契約を結んで引っ越しが決定した。
しかし、新居が決まったものの、問題は現在住んでいる部屋に溢れ返った荷物。
新居の広さは現在の2倍になるものの、桐谷さんは「一度すべて(新居に)持って行ってから捨てる」と荷物を整理する意思を見せず、マツコは「持って行くの!?」と呆れかえり、村上も「捨てて行った方がいいですよ」とVTRの中の桐谷さんに思わず声が出てしまう有様だ。
そこで番組スタッフは桐谷さんの自宅に断舎利のプロやましたひでこ先生を呼び、一大断舎利作戦を決行する事となった。
しかし、そんな断舎利中に事件は起こった!
部屋の不要な物を確認していく桐谷さんとやました先生だが、やました先生がビニール袋に入った何かを見つけて番組スタッフに「これ、何だと思う?」と確認を求めた。
番組スタッフがビニール袋から取り出してみた物は、なんと白いレースの女性用下着!
思わぬ展開にその場にいた全員の冷たい視線が桐谷さんに突き刺さり、桐谷さんも動揺を隠せずにしどろもどろで言いつくろう事になった。
必死に弁明する桐谷さんの様子に、またもVTRを見ながらマツコと村上は笑いをこらえきれない。
その後も梱包のプロ2人が助っ人に入り、ダンボール150箱以上を梱包してようやく引っ越しの準備が出来たのは断舎利開始から3日後の事だった。
こうして荷造りが終わり、ついに新居へとやってきた桐谷さん。新居は家賃20万4千円の3LDK。
最寄駅から徒歩5分。新居の映像が流れると「うわ!ひろ~い!」とマツコも驚きを隠せない程の良い物件だ。
ちなみに桐谷さんがこの新居を選んだ決め手は「2階だから」「下が土だから飛び降りても大丈夫そう」という点だそうで、これにはスタジオのマツコも「(決めては)そこ?」と大笑い。
村上も「(この人)面白いな~」と桐谷さんの個性的なキャラクターに改めて感心しきりなのだった。
だが、問題はまだまだ終わらなかった。
新居に荷物を運び込んだ桐谷さん。その様子を後日確認しに行った番組スタッフが目にしたのは、3LDKのうち2つの洋室とリビングを埋め尽くすダンボールの山、山、山。
新居の4分の3はダンボールで埋め尽くされ、桐谷さんが「多くのダンボールの大部分を死ぬまで開けないかもしれない」と語ると、マツコからは「どういう引っ越しよこれ」とツッコミが入ってスタジオは大爆笑となった。
マツコや村上からも「(内容が)濃いな!」と驚かれる桐谷さんのキャラクター。
次に桐谷さんが「月曜から夜ふかし」に登場する時はどんな姿を見せてくれるのか?今から楽しみで仕方がない。
(担当・圭之介)
http://news.merumo.ne.jp/article/pickup/4362288
たぶん、優待券でもらえる下着だったのだろう。
もらえるものは、もらっておかなきゃ。って感じで、、、。
それに、白くて美しいレースの下着に女性の象徴としての
「あこがれ」があったのだろうさ。
お人形が欲しい女の子のような単純な所有欲。ただし、一時的なものでした。
たぶん、そこにあることすらも忘れていたんだろうさ。でなきゃ、TVの撮影が入るのにそのままにしておくはずがないだろう。
桐谷さんは、フーテンの寅さん並みにおもしろい人。こまねずみのように、日々、かけずりまわっていて、株の優待券だけで生きているような人。かけずりまわっているので、それがいい運動になっていて、筋肉がほどよくついて健康そう。
自分の身うちならうっとおしいが、他人だからおもしろがっておれる人。
でも、ちょっとだけ可愛いところもある。
オバマ大統領が日本の広島と長崎の浦賀天守閣に原爆を落としたわけではない
米政府が言及 広島は“核なき世界の象徴”
日本テレビ系(NNN) 4月13日(水)6時45分配信
アメリカのホワイトハウスの報道官は12日、来月の伊勢志摩サミットに合わせオバマ大統領が広島を訪問することを検討していると認め、核兵器のない世界をめざす上で「広島ほど象徴的な場所はない」と述べた。
アーネスト報道官は大統領の広島訪問について「まだ何も決まっていない」と強調した上で、広島は「核なき世界」を目指すオバマ大統領の取り組みを象徴する場所だとの認識を示した。
アーネスト大統領報道官「核兵器の最初の犠牲者が出た広島ほど象徴的で力強い場所はない」
アーネスト報道官はまた、大統領の広島訪問は「謝罪」にはあたらないとの認識を示した。ホワイトハウスはサミットに向けた事前調査を行う先遣隊を広島にも派遣し、具体的な検討を行う方針。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20160413-00000011-nnn-in
日本のみなさん。
オバマ大統領はたぶん、ノーベル平和賞をまたもらうことになるけど、落ち着いて。
オバマ大統領が日本の広島と長崎の浦賀天守閣に原爆を落としたわけではないのだから、
謝れ!なんてことは言わないでね。アメリカとしては謝るわけにはいかないんだから。
それが外国だ。
日本は謝り過ぎなんだよ!!
日本テレビ系(NNN) 4月13日(水)6時45分配信
アメリカのホワイトハウスの報道官は12日、来月の伊勢志摩サミットに合わせオバマ大統領が広島を訪問することを検討していると認め、核兵器のない世界をめざす上で「広島ほど象徴的な場所はない」と述べた。
アーネスト報道官は大統領の広島訪問について「まだ何も決まっていない」と強調した上で、広島は「核なき世界」を目指すオバマ大統領の取り組みを象徴する場所だとの認識を示した。
アーネスト大統領報道官「核兵器の最初の犠牲者が出た広島ほど象徴的で力強い場所はない」
アーネスト報道官はまた、大統領の広島訪問は「謝罪」にはあたらないとの認識を示した。ホワイトハウスはサミットに向けた事前調査を行う先遣隊を広島にも派遣し、具体的な検討を行う方針。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20160413-00000011-nnn-in
日本のみなさん。
オバマ大統領はたぶん、ノーベル平和賞をまたもらうことになるけど、落ち着いて。
オバマ大統領が日本の広島と長崎の浦賀天守閣に原爆を落としたわけではないのだから、
謝れ!なんてことは言わないでね。アメリカとしては謝るわけにはいかないんだから。
それが外国だ。
日本は謝り過ぎなんだよ!!
性病、梅毒。特に若い女性で増えています。今年の患者の数は去年の同じ時期の2倍に!
梅毒患者、都市部を中心に急増
TBS系(JNN) 4月12日(火)12時57分配信
性感染症の「梅毒」の患者が都市部を中心に急増しています。今年の患者の数は去年の同じ時期の2倍にのぼっていることがわかりました。
「梅毒」は、「梅毒トレポネーマ」という細菌が主に性的接触により皮膚などから侵入することで感染し、初期には、しこりなどの症状が出ます。妊婦が感染していると、胎盤を通じて胎児に感染し、死産や重い後遺症を引き起こすおそれがあります。
国立感染症研究所によりますと、今年は今月3日までで患者の数が883人にのぼり、1999年以降で過去最多となった去年の同じ時期で比べ倍増したということです。都道府県別では東京が389人と最も多く、次いで大阪が112人などとなっています。
特に若い女性で増えていて、厚労省は、「症状が出たら早期に治療してほしい」と呼びかけています。(12日10:59)
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20160412-00000023-jnn-soci
TBS系(JNN) 4月12日(火)12時57分配信
性感染症の「梅毒」の患者が都市部を中心に急増しています。今年の患者の数は去年の同じ時期の2倍にのぼっていることがわかりました。
「梅毒」は、「梅毒トレポネーマ」という細菌が主に性的接触により皮膚などから侵入することで感染し、初期には、しこりなどの症状が出ます。妊婦が感染していると、胎盤を通じて胎児に感染し、死産や重い後遺症を引き起こすおそれがあります。
国立感染症研究所によりますと、今年は今月3日までで患者の数が883人にのぼり、1999年以降で過去最多となった去年の同じ時期で比べ倍増したということです。都道府県別では東京が389人と最も多く、次いで大阪が112人などとなっています。
特に若い女性で増えていて、厚労省は、「症状が出たら早期に治療してほしい」と呼びかけています。(12日10:59)
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20160412-00000023-jnn-soci
わりと簡単にうつるもんなんや~。恐い肺結核。
渋谷署員19人が結核陽性=死亡の留置男性から感染か-警視庁
2016年04月12日 07時29分 提供:時事通信
東京都渋谷区の警視庁渋谷署で署員19人が結核に集団感染していたことが12日、同署への取材で分かった。同署では、留置されていた60代の男性が昨年2月に結核で死亡しており、男性から感染した可能性があるという。ほかの留置人や外部への感染は確認されていない。
同署によると、男性は昨年1月22日に詐欺容疑で現行犯逮捕され、主に単独で留置されていた。同2月11日に倒れているのが見つかり、病院へ搬送されたが死亡が確認された。解剖の結果、死因は肺結核だった。 【時事通信社】
http://news.ameba.jp/20160412-150/
2016年04月12日 07時29分 提供:時事通信
東京都渋谷区の警視庁渋谷署で署員19人が結核に集団感染していたことが12日、同署への取材で分かった。同署では、留置されていた60代の男性が昨年2月に結核で死亡しており、男性から感染した可能性があるという。ほかの留置人や外部への感染は確認されていない。
同署によると、男性は昨年1月22日に詐欺容疑で現行犯逮捕され、主に単独で留置されていた。同2月11日に倒れているのが見つかり、病院へ搬送されたが死亡が確認された。解剖の結果、死因は肺結核だった。 【時事通信社】
http://news.ameba.jp/20160412-150/
日本で審理できないのは不合理で公序良俗に反する。そりゃそうだ。なんでネバダ州だけで?
出資金返還訴訟、MRIに全額支払い命じる
読売新聞 4月8日(金)15時2分配信
米国の資産運用会社「MRIインターナショナル」(本社・米ネバダ州)による多額の投資資金消失問題で、日本の投資家9人が同社に計約7200万円の出資金の返還を求めた訴訟の差し戻し審で、東京地裁(谷口園恵裁判長)は8日、全額の支払いを命じる判決を言い渡した。
今回の訴訟では、投資家がMRIと結んだ契約書に、「すべての紛争は米ネバダ州の裁判所で扱う」との合意事項があったため、東京地裁が2014年1月、訴えを却下。しかし、東京高裁は同年11月、「日本で審理できないのは不合理で公序良俗に反する」として、地裁に審理を差し戻していた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160408-00050157-yom-soci
読売新聞 4月8日(金)15時2分配信
米国の資産運用会社「MRIインターナショナル」(本社・米ネバダ州)による多額の投資資金消失問題で、日本の投資家9人が同社に計約7200万円の出資金の返還を求めた訴訟の差し戻し審で、東京地裁(谷口園恵裁判長)は8日、全額の支払いを命じる判決を言い渡した。
今回の訴訟では、投資家がMRIと結んだ契約書に、「すべての紛争は米ネバダ州の裁判所で扱う」との合意事項があったため、東京地裁が2014年1月、訴えを却下。しかし、東京高裁は同年11月、「日本で審理できないのは不合理で公序良俗に反する」として、地裁に審理を差し戻していた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160408-00050157-yom-soci
2回目の掲載になりますが、もう、読んでくれた?
「米軍を東アジア(日本、韓国)から撤退させる。アメリカはカネがないから、もう駐留軍の経費を負担できない」というトランプの発言に対して「韓国政府は、駐留米軍に 毎年、80億ドル(9千億円)払っている」という反論が出ている。
同じく、「日本政府は、(思いやり予算と称して)駐留米軍に、毎年2000億円(ぐらい。20億ドル)払っている」という反論の新聞記事が出ている。だが、トランプも知らないのだ。
日本は、アメリカの米国債を すでに、隠れて買っている分を含めて、これまでに1000兆円ぐらい買っている。
いや、無理やり買わされている。10兆ドルだ。
そして、この10兆ドルの米国債は、「売らせてもらえない(売れない)」のだ。
中国は、今、米国債をどんどん売っている。この違いだ。
日本の”用心棒代”としての米軍駐留費の負担は、毎年たったの2000億円などという端(はした)ガネではないのだ。
毎年毎年買わされている30兆円ぐらいの米国債だ。
これが、たまりに溜(た)まって一千兆円だ。
だから、そっくりそのまま、この金額は、日本政府が発行して、返済できなくなっている、日本国債の残高の 1千兆円と、ピタリと見合っているのだ。
だから、トランプが大統領になったとき、「安保ただ乗り論」で、日本を批判して、アメリカ軍の駐留経費をもっと負担せよ、と言って来たら、そのときは、この「10兆ドル=1000兆円の米国債の保有残高」の問題を、日本側は、公然と持ち出すべきだ。
もう隠している必要はない。
トランプは、目を丸くして、「ひえー。そんなにあるとは。オレは知らなかった。誰も教えてくれなかったぞ 」と 言うだろう。
だが、そのあとは、トランプは、さすがに、迫力のあるアメリカの右翼の大物経営者だから、「そんなものは、踏み倒す(返さなない)」と言うだろう。
これが、世界政治の現実だ。
副島隆彦 記
同じく、「日本政府は、(思いやり予算と称して)駐留米軍に、毎年2000億円(ぐらい。20億ドル)払っている」という反論の新聞記事が出ている。だが、トランプも知らないのだ。
日本は、アメリカの米国債を すでに、隠れて買っている分を含めて、これまでに1000兆円ぐらい買っている。
いや、無理やり買わされている。10兆ドルだ。
そして、この10兆ドルの米国債は、「売らせてもらえない(売れない)」のだ。
中国は、今、米国債をどんどん売っている。この違いだ。
日本の”用心棒代”としての米軍駐留費の負担は、毎年たったの2000億円などという端(はした)ガネではないのだ。
毎年毎年買わされている30兆円ぐらいの米国債だ。
これが、たまりに溜(た)まって一千兆円だ。
だから、そっくりそのまま、この金額は、日本政府が発行して、返済できなくなっている、日本国債の残高の 1千兆円と、ピタリと見合っているのだ。
だから、トランプが大統領になったとき、「安保ただ乗り論」で、日本を批判して、アメリカ軍の駐留経費をもっと負担せよ、と言って来たら、そのときは、この「10兆ドル=1000兆円の米国債の保有残高」の問題を、日本側は、公然と持ち出すべきだ。
もう隠している必要はない。
トランプは、目を丸くして、「ひえー。そんなにあるとは。オレは知らなかった。誰も教えてくれなかったぞ 」と 言うだろう。
だが、そのあとは、トランプは、さすがに、迫力のあるアメリカの右翼の大物経営者だから、「そんなものは、踏み倒す(返さなない)」と言うだろう。
これが、世界政治の現実だ。
副島隆彦 記
人は物を買う時、お金を貯めるために人生を裂いた時間で買っているのですよ。
世界一貧しい大統領「夢を見よう」…ウルグアイ前大統領会見
2016年4月7日6時0分 スポーツ報知
記者会見するウルグアイ前大統領ホセ・ムヒカさん
「世界でいちばん貧しい大統領」の愛称で知られる南米ウルグアイ前大統領のホセ・ムヒカさん(80)が6日、東京都千代田区で記者会見した。「人生よりも価値のあるものはない。日本の人々は人類がどのように進歩できるのか、良い形で示している。どんな世界を夢見たいのかを考えずに、私たちの将来はない」と幸福論を展開した。欧州などで相次ぐテロについて「深刻な現象。政治でもスポーツでも『熱狂』は危険なものだ」と語った。
今回が初来日で、5日から12日までの滞在。東京都内の大学で講演するほか、京都市や広島市を訪問する。広島に行くのは「世界で起こった最も大きな悲劇があるから」だという。
ムヒカさんは、大統領在任中もポリシーとして貫いたノーネクタイ姿。記者会見では、富の不均衡や戦争など世界が多くの矛盾をはらんでいると指摘し「若い人たちにはこうした愚かな間違いを繰り返さないでほしい。どうやって幸せになるのか、ということから考えなくてはならない」と熱く語った。
http://www.hochi.co.jp/topics/20160407-OHT1T50000.html
世界で最も貧しい大統領の生き方・考え方が心に沁みる
郊外の静かな農場で質素に暮らし、個人資産は約18万円相当の車1台のみ…。南米の小国ウルグアイに、世界最貧とも言われる大統領がいます。豊かさとは何か、人生で大切なこととはなにか…ホセ・ムヒカ氏のスピーチに感銘を受ける人が続出しています。
更新日: 2016年04月04日
lessthanpandaさん
最貧の大統領、ムヒカ氏
GettyImagesNEW YORK, NY - SEPTEMBER 24: Uruguayan President Jose Mujica addresses the U.N. General Assembly on September 24, 2013 in New York City. Over 120 prime ministers, presidents and monarchs are gathering this week for the annual meeting at the temporary General Assembly Hall at the U.N. headquarters while the General Assembly Building is closed for renovations. (Photo by Justin Lane-Pool/Getty Images)
ホセ・ムヒカ
1935年5月20日 -
ウルグアイ第40代大統領。
“世界一貧しい大統領” として知られる。
首都モンテビデオの貧困家庭に生まれる
出典ホセ・ムヒカ - Wikipedia
少年の頃から、家畜の世話や花売りなどで家計を助けていました。
元左派ゲリラ活動家で、質素な生活や地に足の着いた態度が国民に支持されている
出典毎日が奇跡。:ムヒカ大統領のスピーチ。
かつてウルグアイを支配していた軍事政権と闘い、数度の逮捕歴があります。
政治家となった現在はマリフアナ合法化や、同性婚合法化など先進的な政策を進めている事でも知られています。
1972年に逮捕された際には、軍事政権が終わるまで13年近く収監されており、軍事政権側の人質として扱われていた
出典ホセ・ムヒカ - Wikipedia
左派ゲリラとしての活動で幾度も逮捕されており、「刑務所の中で人生を学んだ」と振り返っています。
2009年11月ウルグアイ大統領選挙に当選し、2010年3月1日より同国大統領
出典ホセ・ムヒカ - Yahoo!検索(人物)
刑務所出所後に左派政治団体を結成、1995年の下院議員選挙で初当選。2005年に農牧水産相として初入閣し、2009年についに大統領選に当選しました。
出典www.abrasmedia.info
▷ ホセ・ムヒカ大統領と彼の自宅
大統領の報酬月額25万ウルグアイペソ(約115万円)の9割近くを社会福祉基金に寄付する
出典パイプオヤジ:素晴らしい
ムヒカ氏はその資産の80%以上を財団や政府のプログラムなどに寄付し、個人資産は約18万円相当の1987年型フォルクスワーゲン・ビートルのみ。
豪華な大統領公邸には住まず、報酬の大半を寄付し郊外の農場で生活。元ゲリラ闘士の経験を感じさせない好々爺ぶりで国民の人気も高い
出典ホセ・ムヒカ大統領[清貧]ぶりが国民に大人気!!|ネットビジネスで老後の蓄えをする。
大統領に与えられる豪華な邸宅は拒否し、郊外の妻所有の農場で公務の合間にトラクターに乗って畑仕事と養鶏をして暮らしています。
世界で最も貧しい大統領として知られている
出典世界で最も貧しい大統領の衝撃的なスピーチ | THE NEW CLASSIC
クレジットカードや銀行口座も持たず、世界で最も“清貧”なリーダーとして知られています。
ムヒカ大統領の心に沁みる名言
GettyImagesVATICAN CITY, VATICAN - JUNE 01: Pope Francis receives President of Uruguay Jose Mujica at his private library on June 1, 2013 in Vatican City, Vatican. President Mujica is currently on a two-week international tour taking him to China, Spain and Italy. (Photo by Vatican Pool/Getty Images)
▷ ローマ教皇フランシスコとホセ・ムヒカ大統領
貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ
出典世界で最も貧しい大統領の衝撃的なスピーチ | THE NEW CLASSIC
発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。
出典世界で最も貧しい大統領の衝撃的なスピーチ | THE NEW CLASSIC
私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。
出典リオ会議でもっとも衝撃的なスピーチ:ムヒカ大統領のスピーチ (日本語版) | Hana.bi
人は物を買う時は、お金で買っていないのです。そのお金を貯めるための人生の裂いた時間で買っているのですよ
出典ムヒカ大統領のインタビュー:消費主義社会について | Hana.bi
もっと良い世の中の目指すということは中古車を集め、乗客率を倍にするということではありません
出典ムヒカ大統領のインタビュー:消費主義社会について | Hana.bi
人間はもっと良い暮らしを持つためにものが必要なのですが、それを達成するために消費と仕事をどんどん増やさなければ行けない計画的陳腐化や底を知らない消費主義社会にイエスと言ってはいけない
出典ムヒカ大統領のインタビュー:消費主義社会について | Hana.bi
若い人には恋する時間が必要。子どもが生まれれば、子どもと過ごす時間が必要。働いてできることは、請求書の金額を払うことだけ。職場と家の往復をするだけに時間を使っていると、いつの間にか老人になってしまうよ。
出典【世界一貧しい大統領】ムヒカ前大統領の言霊まとめ。 #Mrサンデー - Togetterまとめ
お金があまりに好きな人たちには、政治の世界から出て行ってもらう必要があるのです。彼らは政治の世界では危険です。お金が大好きな人は、ビジネスや商売のために身を捧げ、富を増やそうとするものです。しかし政治とは、すべての人の幸福を求める闘いなのです
出典"世界一貧しい大統領"は言う「金持ちは政治家になってはいけない」
isii marico@min_underthesun
前ツイートのウルグアイのムヒカ大統領のこと調べてみたら、経歴も実績もすごいがこの人間としての深さ大きさはどないや!アルジャジーラのインタビューでは、答える言葉の一つ一つが深い智慧と慈悲に根差してる。新年に心から尊敬できる人に出会えたよ。j.mp/1l45IeB
じぇいど♪@jade_nanimie
リオ会議でのムヒカ大統領のスピーチcelestie.blog23.fc2.com/blog-entry-143… これはいい演説だ。ほんとにそうだ。演説の主旨と状況から立場上政治の問題であると言うのは仕方ないが政治というより豊かな国に生まれた我々一人一人の心のあり方の問題、だよなやっぱり。
麻生潤(SYNCHRONICITY)@junaso
このスピーチはずっとシェアし続けられるだろう。人類が本当の幸福に気付くまで。【リオ会議でもっとも衝撃的なスピーチ:ムヒカ大統領のスピーチ (日本語版)】hana.bi/2012/07/mujica…
西岡@raitu
核でも何でもそうだけど、チキンレースは止まらんよ。原発が途上国でどんどん出来るのもそういう話 / “リオ会議でもっとも衝撃的なスピーチ:ムヒカ大統領のスピーチ (日本語版)”htn.to/eTEFE
幸野健一(サッカー・コンサルタント)@footy_ken
ウルグアイのムヒカ大統領のリオ会議でのスピーチが素晴らしいな。今は中国とインドの自動車保有台数を足しても日本に追いつかないけど、人口が両方で日本の20倍いる両国がいつか日本と同じように自家用車を持ちたいとなったら、誰が止められるんだろうね。bit.ly/MwCPYu
DEDE☆PONG@dededecreation
ウルグアイのムヒカ元大統領の「貧乏とは無限に欲しがり続けることです」ってのが妙に刺さってる。 それと「君は時間で物を買ってるんだよ?」ってのも。
mari@marie19880420
世界一貧しい大統領 ムヒカ氏の言葉は深い。 simpleだけど核心を突いている。 人は皆保険を掛けたがるけど、 本当に大切で必要な物は少ない。 ただ実際その一握りを除いて 余分な物を全て 切り捨てられるか…?と言えば、 それもまた難しいよね。
サンディ@sandy10408
「ムヒカ元大統領」。彼は懐古主義者ではない。「気づいた人」として同胞への責任を果たそうとしているのだ。バソコンが識字力を奪い。カーナビが方向認識力を奪い。スマートフォンが若者から時間を奪っている。文明が暴走してコントロールを失い「幸せ」のために使う時間をみすみす手放しているのだ…
えみぐれ@NyxSh
フォローする
ムヒカ元大統領みたいな聖人もまだ世界にいるもんなんだな
http://matome.naver.jp/odai/2138861428534675801
2016年4月7日6時0分 スポーツ報知
記者会見するウルグアイ前大統領ホセ・ムヒカさん
「世界でいちばん貧しい大統領」の愛称で知られる南米ウルグアイ前大統領のホセ・ムヒカさん(80)が6日、東京都千代田区で記者会見した。「人生よりも価値のあるものはない。日本の人々は人類がどのように進歩できるのか、良い形で示している。どんな世界を夢見たいのかを考えずに、私たちの将来はない」と幸福論を展開した。欧州などで相次ぐテロについて「深刻な現象。政治でもスポーツでも『熱狂』は危険なものだ」と語った。
今回が初来日で、5日から12日までの滞在。東京都内の大学で講演するほか、京都市や広島市を訪問する。広島に行くのは「世界で起こった最も大きな悲劇があるから」だという。
ムヒカさんは、大統領在任中もポリシーとして貫いたノーネクタイ姿。記者会見では、富の不均衡や戦争など世界が多くの矛盾をはらんでいると指摘し「若い人たちにはこうした愚かな間違いを繰り返さないでほしい。どうやって幸せになるのか、ということから考えなくてはならない」と熱く語った。
http://www.hochi.co.jp/topics/20160407-OHT1T50000.html
世界で最も貧しい大統領の生き方・考え方が心に沁みる
郊外の静かな農場で質素に暮らし、個人資産は約18万円相当の車1台のみ…。南米の小国ウルグアイに、世界最貧とも言われる大統領がいます。豊かさとは何か、人生で大切なこととはなにか…ホセ・ムヒカ氏のスピーチに感銘を受ける人が続出しています。
更新日: 2016年04月04日
lessthanpandaさん
最貧の大統領、ムヒカ氏
GettyImagesNEW YORK, NY - SEPTEMBER 24: Uruguayan President Jose Mujica addresses the U.N. General Assembly on September 24, 2013 in New York City. Over 120 prime ministers, presidents and monarchs are gathering this week for the annual meeting at the temporary General Assembly Hall at the U.N. headquarters while the General Assembly Building is closed for renovations. (Photo by Justin Lane-Pool/Getty Images)
ホセ・ムヒカ
1935年5月20日 -
ウルグアイ第40代大統領。
“世界一貧しい大統領” として知られる。
首都モンテビデオの貧困家庭に生まれる
出典ホセ・ムヒカ - Wikipedia
少年の頃から、家畜の世話や花売りなどで家計を助けていました。
元左派ゲリラ活動家で、質素な生活や地に足の着いた態度が国民に支持されている
出典毎日が奇跡。:ムヒカ大統領のスピーチ。
かつてウルグアイを支配していた軍事政権と闘い、数度の逮捕歴があります。
政治家となった現在はマリフアナ合法化や、同性婚合法化など先進的な政策を進めている事でも知られています。
1972年に逮捕された際には、軍事政権が終わるまで13年近く収監されており、軍事政権側の人質として扱われていた
出典ホセ・ムヒカ - Wikipedia
左派ゲリラとしての活動で幾度も逮捕されており、「刑務所の中で人生を学んだ」と振り返っています。
2009年11月ウルグアイ大統領選挙に当選し、2010年3月1日より同国大統領
出典ホセ・ムヒカ - Yahoo!検索(人物)
刑務所出所後に左派政治団体を結成、1995年の下院議員選挙で初当選。2005年に農牧水産相として初入閣し、2009年についに大統領選に当選しました。
出典www.abrasmedia.info
▷ ホセ・ムヒカ大統領と彼の自宅
大統領の報酬月額25万ウルグアイペソ(約115万円)の9割近くを社会福祉基金に寄付する
出典パイプオヤジ:素晴らしい
ムヒカ氏はその資産の80%以上を財団や政府のプログラムなどに寄付し、個人資産は約18万円相当の1987年型フォルクスワーゲン・ビートルのみ。
豪華な大統領公邸には住まず、報酬の大半を寄付し郊外の農場で生活。元ゲリラ闘士の経験を感じさせない好々爺ぶりで国民の人気も高い
出典ホセ・ムヒカ大統領[清貧]ぶりが国民に大人気!!|ネットビジネスで老後の蓄えをする。
大統領に与えられる豪華な邸宅は拒否し、郊外の妻所有の農場で公務の合間にトラクターに乗って畑仕事と養鶏をして暮らしています。
世界で最も貧しい大統領として知られている
出典世界で最も貧しい大統領の衝撃的なスピーチ | THE NEW CLASSIC
クレジットカードや銀行口座も持たず、世界で最も“清貧”なリーダーとして知られています。
ムヒカ大統領の心に沁みる名言
GettyImagesVATICAN CITY, VATICAN - JUNE 01: Pope Francis receives President of Uruguay Jose Mujica at his private library on June 1, 2013 in Vatican City, Vatican. President Mujica is currently on a two-week international tour taking him to China, Spain and Italy. (Photo by Vatican Pool/Getty Images)
▷ ローマ教皇フランシスコとホセ・ムヒカ大統領
貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ
出典世界で最も貧しい大統領の衝撃的なスピーチ | THE NEW CLASSIC
発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。
出典世界で最も貧しい大統領の衝撃的なスピーチ | THE NEW CLASSIC
私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。
出典リオ会議でもっとも衝撃的なスピーチ:ムヒカ大統領のスピーチ (日本語版) | Hana.bi
人は物を買う時は、お金で買っていないのです。そのお金を貯めるための人生の裂いた時間で買っているのですよ
出典ムヒカ大統領のインタビュー:消費主義社会について | Hana.bi
もっと良い世の中の目指すということは中古車を集め、乗客率を倍にするということではありません
出典ムヒカ大統領のインタビュー:消費主義社会について | Hana.bi
人間はもっと良い暮らしを持つためにものが必要なのですが、それを達成するために消費と仕事をどんどん増やさなければ行けない計画的陳腐化や底を知らない消費主義社会にイエスと言ってはいけない
出典ムヒカ大統領のインタビュー:消費主義社会について | Hana.bi
若い人には恋する時間が必要。子どもが生まれれば、子どもと過ごす時間が必要。働いてできることは、請求書の金額を払うことだけ。職場と家の往復をするだけに時間を使っていると、いつの間にか老人になってしまうよ。
出典【世界一貧しい大統領】ムヒカ前大統領の言霊まとめ。 #Mrサンデー - Togetterまとめ
お金があまりに好きな人たちには、政治の世界から出て行ってもらう必要があるのです。彼らは政治の世界では危険です。お金が大好きな人は、ビジネスや商売のために身を捧げ、富を増やそうとするものです。しかし政治とは、すべての人の幸福を求める闘いなのです
出典"世界一貧しい大統領"は言う「金持ちは政治家になってはいけない」
isii marico@min_underthesun
前ツイートのウルグアイのムヒカ大統領のこと調べてみたら、経歴も実績もすごいがこの人間としての深さ大きさはどないや!アルジャジーラのインタビューでは、答える言葉の一つ一つが深い智慧と慈悲に根差してる。新年に心から尊敬できる人に出会えたよ。j.mp/1l45IeB
じぇいど♪@jade_nanimie
リオ会議でのムヒカ大統領のスピーチcelestie.blog23.fc2.com/blog-entry-143… これはいい演説だ。ほんとにそうだ。演説の主旨と状況から立場上政治の問題であると言うのは仕方ないが政治というより豊かな国に生まれた我々一人一人の心のあり方の問題、だよなやっぱり。
麻生潤(SYNCHRONICITY)@junaso
このスピーチはずっとシェアし続けられるだろう。人類が本当の幸福に気付くまで。【リオ会議でもっとも衝撃的なスピーチ:ムヒカ大統領のスピーチ (日本語版)】hana.bi/2012/07/mujica…
西岡@raitu
核でも何でもそうだけど、チキンレースは止まらんよ。原発が途上国でどんどん出来るのもそういう話 / “リオ会議でもっとも衝撃的なスピーチ:ムヒカ大統領のスピーチ (日本語版)”htn.to/eTEFE
幸野健一(サッカー・コンサルタント)@footy_ken
ウルグアイのムヒカ大統領のリオ会議でのスピーチが素晴らしいな。今は中国とインドの自動車保有台数を足しても日本に追いつかないけど、人口が両方で日本の20倍いる両国がいつか日本と同じように自家用車を持ちたいとなったら、誰が止められるんだろうね。bit.ly/MwCPYu
DEDE☆PONG@dededecreation
ウルグアイのムヒカ元大統領の「貧乏とは無限に欲しがり続けることです」ってのが妙に刺さってる。 それと「君は時間で物を買ってるんだよ?」ってのも。
mari@marie19880420
世界一貧しい大統領 ムヒカ氏の言葉は深い。 simpleだけど核心を突いている。 人は皆保険を掛けたがるけど、 本当に大切で必要な物は少ない。 ただ実際その一握りを除いて 余分な物を全て 切り捨てられるか…?と言えば、 それもまた難しいよね。
サンディ@sandy10408
「ムヒカ元大統領」。彼は懐古主義者ではない。「気づいた人」として同胞への責任を果たそうとしているのだ。バソコンが識字力を奪い。カーナビが方向認識力を奪い。スマートフォンが若者から時間を奪っている。文明が暴走してコントロールを失い「幸せ」のために使う時間をみすみす手放しているのだ…
えみぐれ@NyxSh
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ムヒカ元大統領みたいな聖人もまだ世界にいるもんなんだな
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日露戦争中、戦死した人より脚気で死んだ人の方が多かったそう
『日露戦争の脚気惨害(最終稿)』
日本陸軍の兵站戦(19)
荒木 肇
□ご挨拶
戦場とは平時の環境とは想像を絶する恐ろしい場所です。
目に見えない細菌は繁殖し、慣れない環境に送られた人間はふつうではすぐに疾病に倒れてしまう。もちろん、負傷することが当然という戦場。
そうした中で衛生部員は与えられた物で最大の努力をしていました。
いまも陸上自衛官の中では衛生科隊員は大柄で、体力的にも秀でた人が多いようです。「重い衛生資材を運び、時には装具を付けた負傷者を引っ担ぎますから(笑)」という解説を聞きました。
▼一汁一菜の贅沢
『軍隊はいい所(どこ)でがんした』。これは戦後すぐに、古着の行商をしながら東北地方の農山村を歩いた大牟羅良(おおむら・りょう)氏の聞き書きにある話である。
『軍隊ず(という)所(どこ)ァいいもんでがんした。明るくなるまで寝せておいてくれで、暗ぐなれば、寝ろって寝せでくれだ』『洋服着せで革の靴はがせて呉れだった』『おらハァ、軍隊のおかげで字っコを覚え、手紙っコも書げるようになりあんした』『あそこのオンジ(次三男)は、軍隊で伍長になって来てス、それがら青年訓練所の指導員かなんかやって、今では村会議員でがんす』『大学出もおらも、同じに撲(なぐ)ってくれるっけス』と続き、『米のメシを食(か)せでけるっけァ、いい所(どこ)だった』と兵隊から復員してきた人たちの軍隊話は続く(『軍隊は官費の人生道場?!』)。
米の飯を食べることは私たちの祖父母たちにとって、どれほどの喜びだったのか。それを理解することは、私たちが小説や映画で作ってきた近代史の中の民衆の姿を見直す一つのきっかけになるだろう。百年少し前の陸軍兵の多くが脚気に倒れた。
米飯をやめて麦を混ぜて食べれば、確実に罹患者は減らせることができた。それなのに、陸軍軍医界の上層部の都合で麦の支給は見送られた。だから、前線に立つ兵士の多くは脚気に苦しんでいたのだ。
私たちが過去の時代相(ある時代のイメージ)を作るときの手がかりは小説や劇映画であることが多い。ところが、その中で脚気に苦しむ人の姿を見たことはない。江戸時代、都市、地方を問わず、登場人物たちのほとんどは居酒屋や飯屋で今と変わらない食生活を送っていたように描かれている。
時代劇の中の侍や、岡っ引きや、商店主たちは刺身を食べている。
江戸や大坂では、鶏やイノシシ肉の鍋を囲み、野菜の煮付けや漬物をおかずにして酒を飲んでいるようだ。庶民はアサリや納豆、豆腐を買い、朝食のおかずにし味噌汁を飲んでいる。
先ごろ亡くなった時代小説作家たちがいる。藤沢周平はグルメだった池波正太郎と比べると、さらりと食事風景を描く人だった。具体的な献立より米の量に関わる話が多い。用心棒を稼業とする侍は『ざっと二食、しかも粥にして二食』と米櫃(こめびつ)の中の残った米を見て考えている。稼ぎに行かなくてはと侍は決意する。そんな文章を見ると、江戸時代の人はどれほどの米を食べていたのだろうかと考えてしまう。
江戸時代でも19世紀になると菜種油が町には出回るようになった。
おかげで暗くなったら寝ていた時代に比べると活動時間が長くなった。一日三食の習慣が定着してくる。木炭を手軽に使えるようになった七輪(しちりん)の普及もこれを助けた。幕末の資料だが、ある大坂の商家では1人当たり年に一石六斗(240キロ)を食べていた。1日に直すと約670グラム、四合五勺弱である。大ぶりの茶碗でいえば10杯というところになる。
明治時代でも初めのころは老若男女すべての平均で米は300グラム以上、これに100グラムの麦が消費されていた。米の消費は増え続け、大正時代(1912~1926)の中ごろには年間226キログラム、1日当たり620グラム にもなった。やはり四合を超している。
大正時代、シベリア出兵による米の投機で米価は上がった。軍の兵站が兵食として買い上げるだろうという予想がでたからである。教科書にも載る米騒動(1918年)は富山県魚津で漁師のおかみさんたちの暴動から始まった。
漁師は1日に1升2合(1.8キロ)の飯を食っていた。同17年から米価はじりじり 上昇し、事件の6月には1升34銭、7月には45銭にもなった。同16年と比べると
3倍の値段になる。親子で出漁したら2升4合、それに家族が3人で1升として1日に3升4合、ざっと1円50銭。月収はせいぜい30円、コメだけで45円もかかったのでは家計を預かる女房たちの怒りが爆発するわけである。
食物史の研究者は米食の普及は大正時代だったという。また、全国津々浦々まで米食が広まったのは1939(昭和14)年の米穀配給統制令による米の配給制度のおかげだったらしい。それではおかずはどうだったのか。
実は「米、味噌汁、漬物、茶」という一汁一菜の食事は大正時代に「小家族」が生まれたからだと民俗学者の柳田國男はいう。資本主義の発達のおかげで、農村の次三男は都会に出た。それが小家族、つまり核家族のことだ。夫婦と子供だけの食事が豊かさをもたらしたという。
それがいま、私たちは一菜というと、魚や肉や、あるいは炒め物などのおかずを考える。しかし、研究史上ではこの一菜は漬物のことをいうのが常識であるらしい。
明治時代の職工や女工の実態を調べる当時のドキュメンタリーを見てみよう。
紡績工場の朝食である。「たくあん・らっきょう・菜・梅干」という漬物と「小松菜・切干大根・豆腐・大根・ワカメ」の味噌汁だけだった。主食は何かといえば、「南京米(なんきんまい)」という中国産の粘りも甘みも少ない「外国産米」と麦である。
脚気の予防ではない。外米は安く、麦も廉価だった。給食のコストを下げ、米を減らし、かさましを狙った米麦混合である。
「挽き割り麦1升に米2合」「南京米に同量の挽き割り」「南京米2升5合、挽き割り麦5合、国産米2升5合」という配分で、「蒸したるもの・・・美味なく」と いう表現がされている。栃木県桐生といえば絹の名産地である。そこでの織物女工の食事の様子も描かれている。
『飯は米と麦を等分にしたワリ飯。朝と晩には汁はつくが昼には汁なし、おかずなし。しかも汁は特に塩辛くした味噌汁で、ふつう汁の具は菜っ葉で、大根などは秋に入れば刻んで入れるが、それは珍膳佳?(ちんぜん・かこう:めったに見られない素晴らしいおかず)だった』
大正末期(1920頃から)になっても『鮮魚の刺身は一度もなく、牛肉は月に1、2回食べさせたが、皮のむいていない馬鈴薯(ジャガイモ)と共に煮つけたものが一人前5匁(約20グラム)くらいが関の山だった』とある。では、これが特に悲惨だったか というと、日本中どこであれ庶民の食生活はこのようなものだったらしい。
だから、多くの貧しい青年が多かったからこそ、肉や魚、野菜をバランスよく配合し、 白米を食べさせた軍隊は「いい所」だったのだ。
▼日露戦争の給食の実態
陸軍は副食の価値をほとんど理解していなかった。それは国民国家の軍隊は、その国の民度と文化の実態の反映でもあるからだ。麦は下級の食物であり、白米を食べることは幸せである。
先に女工や職工の給食にふれたが、野戦病院の献立を見てみよう。
1904(明治37)年8月の第1師団第2野戦病院の1週間の記録がある。
朝食はワカメのみそ汁、梅干1個、味噌漬大根、福神漬け、ネギのみそ汁、大根漬け、かんぴょうのみそ汁である。ただし、汁のあるときには漬物は付かない。
昼はかんぴょう、干鱈(鱈を乾燥させた塩味)、切り昆布の煮付け、麩、ネギの煮付け、 芋、缶詰の鮭、切干大根と牛肉の煮付け。夜は麩の煮付け、かんぴょうの煮付け、牛肉とネギの煮付け、卵、煮干し(雑魚とある)というのが1週間のメニューのすべてだった。他に鰹節がある。これが滋養を旨とした患者の入院食である。
野戦の兵士の給食も記録があった。
『五分(1.5センチ)ばかりの奈良漬が朝食のおかず。昼は干したエビが少々、夜は千切り大根と牛肉缶詰を煮たもの少し、肉には出会えない。
翌日は梅干2個が朝食、昼は千切り大根に牛肉8匁(30グラム)、夜も昼と同じ。
3日目はたくあん 漬けの大根1切れで朝食、昼は卵1個と千切り大根、夜は馬鈴薯に千切り大根』という、これまた貧しい内容が日記に書かれている。
白米と貧しい副食、メニューを見ただけでビタミン欠乏食であることが分かる。
また戦争も2年目となると、内地の補充隊でも食事は貧しくなっていった。
作家長谷川伸(1884~1963)が補充兵として入隊(明治37年11月1日)したのは千葉県国府台にあった野戦砲兵第一聯隊の補充隊だった。中隊長はのちの元帥陸軍大将畑俊六(はた・しゅんろく)である。畑は東京府立1中から中央幼年学校へ進み、1900(明治33)年に陸士卒業、野戦砲兵第一聯隊付きの砲兵中尉として出征した。旅順要塞西方高地を攻撃中に敵弾を胸に受け、野戦病院から内地に還送され、翌年3月原隊に復帰、補充大隊中隊長になった。
そこでのちの大作家と出会うことになる。
この長谷川伸の弟子が高名な兵隊作家棟田博である。棟田は師匠の思い出話として、支給されたシャツとズボン下がボロだったこと、銃剣も当初、支給されなかった
ことを書いた。だいぶ後になって、戦場で鹵獲したロシア製の銃剣を帯びたともいう。
班内にはベッドもなく、藁を床に敷いて1枚の毛布を2人でかぶったという話もあった。
食事は麦7、白米3で、規定では1日6合6勺(990グラム)だったが、5合くらい しかなかったという。さらに副食である。水曜日と土曜日の昼飯だけはご馳走が出た。コノシロという魚の煮つけとカマボコが一切れ、イモの葉っぱか何かを煮たものが少し。あとは毎日、ネワラとあだ名した切り干し大根にワカメを少し混ぜて、酢醤油に通したものだった。その形と色が、馬の寝る厩舎にあった寝藁(ねわら)にそっくりだったからという。戦場に送られてゆくべき補充兵への給養の低下、まさに国力の限界を示すエピソードである。
▼行われた麦飯給与
日露戦前、国内ではすでに行なわれていた麦飯給与は、戦地ではなかなか実行されなかった。第1軍軍医部長は開戦の月には「米麦混食」を上申した。
ときの野戦衛生長官は陸軍省医務局長の小池正直である。小池は1854(安政元)年、 山形県鶴岡藩の医官の家に生まれた。1873(明治6)年に上京、ドイツ語を学び、 11月に第1大学区医学校予科に入学する。同77年に在学中に陸軍軍医生徒に応募、採用された。
同81年に東京大学医学部卒業、鴎外森林太郎とは同窓で同期生になる。
6月陸軍軍医副(少尉相当)、朝鮮釜山領事館附属病院の院長などを歴任。中央勤務が多かった森とは対照的に地方回りが多かった。
1888年にドイツ留学、ミュンヘン大学で衛生学の研究法を学ぶ。同94年、日清戦争で第5師団軍医部長、第1軍兵站軍医部長、占領地総督部軍医部長を務める。
同98年、陸軍軍医監、陸軍省医務局長となる。日清戦争では終始戦場にあって戦功を大きく評価された。それだけに、日清戦時中の脚気惨害にも直面した。
ところが、彼もまた東大卒であり、ドイツ留学組でもあった。麦食という脚気対策には必ずしも熱心ではなかった。
その小池が医務局長となり、戦時体制になると野戦衛生長官を務めることとなった。
第1軍軍医部長の上申は一応受け入れられた。大本営会議で協議はされた。
しかし、戦地で主食を複雑にするのは実施上の困難が多いという理由で米麦混食は認められなかった。第5師団でも出征前の会議では軍医部長が麦を混ぜることを提案したが、麦は虫がつきやすい、変敗しやすい、輸送が困難になる、味が悪いなどの反対が多く否決されてしまった。代わりに実行されたのは重焼?麭といわれる堅いビスケットの支給だった。挽割麦の発送は5月まで行なわれなかった。
その結果は、脚気患者が増えて兵站病院も収容しきれないという有様になる。
世間にも知られるようになって陸軍への非難は激しさを増してきた。11月には寺内陸軍大臣が新聞記者を集めて弁明までさせられる始末である。
1905(明治38)年3月、陸相訓令が出された。
「脚気予防のため、麦飯を喫食させる必要がある。主食日量精米4合、挽割麦2合を給与することに努力せよ」というのがその主旨だった。
この効果は確かにあった。開戦の年8月に1万6000名を数えた患者は一部に麦飯が支給されたことによって、年末には約7000名となった。そして、訓令の結果、 翌6月には3000名余りと激減したのである。しかし、減りながらもなお患者の発生 は止んでいない。
夏の最盛期には再び6000名が脚気患者として後送されていた。
全体の3割程度の麦飯では脚気を完全に封じることはできなかったのである。
現在の栄養学から見ても、米4合・麦2合のビタミンB1の量は0.9グラムほどにしかならず、兵隊には不足しているという。
▼戦後の大紛争
1907(明治40)年1月、紛争の口火を切ったのは海軍軍医だった。脚気は食糧によって予防できる、陸軍は海軍の脚気予防の実績を見習うべきだというのだ。
続いて帝国大学医科大学(東京帝国大学医学部の前身)卒業の内科医師の発表があった。広島陸軍予備病院に勤務したときの経験から、脚気の病因は運搬中や貯蔵中に変質したコメの中毒によるという説である。米麦混食は脚気を減少させるだけだから、米食を全廃せよとも提言した。
これに対して、余計なお世話だとばかりに陸軍軍医が反論した。
陸軍だって脚気の原因究明には努力している。
伝染病か、中毒か、それ以外が原因か、医学的な検討は十分している。それに加えて、返す刀で海軍だって実は脚気患者がいるのに病名を変えて統計をごまかしているのだと発言してしまった。
これには海軍軍医も黙っていなかった。
陸軍が言う、環境に陸海では差があるという主張はばかばかしい。反論としては旅順要塞戦での海軍陸戦重砲隊での事実を示した。陸軍の糧食があまりに粗末だったので、陸戦隊軍医長は
聯合艦隊軍医長や司令長官に具申した。
結果、陸戦隊員には艦上と同じ食事を運ぶことになった。すると、海軍兵には一人も脚気などにかかる者はいなかった。
これから見れば、主食は麦を混ぜ、副食を豊かにすることがとにかく重要な対策なのだと主張した。
そして、いつか批判の的は小池軍医総監に向けられるようになってきた。
しかし、これは個人攻撃にする方が無体(むたい)だと思える。小池は野戦衛生長官として、たしかに仕事に励んだ。膨大な死傷者、環境の劣悪さの中で陸軍衛生部は小池以下、みな奮闘をした。物資の不足、補給兵站の貧しさ、国力のないなかで、みなが勇戦敢闘をしたと言っていい。
陸軍が当初に麦を送らなかったのは送れなかったからである。弾薬、兵器、馬、兵員を戦場に送るだけで手一杯だったのだ。『輸送が困難だったから麦が送れなかった』
というのは嘘ではなかった。しかし、そうした実態を知らせては国内に厭戦気分が生まれてしまう。ただでさえ、世界最大の陸軍国であるロシアと開戦することに不安をもつ人は多かった。しかし、戦争は綱渡りの連続でなんとか勝ち抜いていた。
そうした実態を知らせなかったから、国内ではすべて陸軍衛生部の責任にするのは当たり前だった。
山下博士はさらに一人の補助輸卒隊にいた輜重輸卒の手記を紹介している。
手記には第1軍で大量の麦の輸送を行なっていたことが書かれている。開戦直後の3月のある日、精米2斗(30キログラム)入りの叺(カマス)359、麦504叺 を港から内陸へ、別の日には韓国米5斗入りの米俵を24、同じく2斗入りの叺23、 大麦626叺を運ぶ。また、ある日には麦1斗入り叺250、精米2斗入り叺200、 大麦同200を運んでいる。
そして、4月には精米180叺、大麦400叺、塩鮭400俵(重量は不明)、醤油エキス(乾燥粉末醤油)12箱、福神漬17箱を送っている。
手記はまた、過酷な労働を行なう輸卒の姿が赤裸々に描かれている。
脚気はこの輜重輸卒隊にもっとも多く発生した。
歩兵ほか戦闘兵科の兵士の脚気罹患率はほぼ2%である。
これに比べて補助輸卒隊では5%強とたいへん多い。
山下博士も指摘するが、およそ3倍近くも輸卒は脚気にかかっている。
▼大団円
1908(明治41)年5月末、臨時脚気病調査会の官制が公布された。
当時の医学界の総力をあげたメンバーである。この発会の席で陸軍大臣寺内正毅は爆弾発言をする。それは日清戦争当時、脚気対策に麦を送れという大方の声を、当時の石黒医務局長と森林太郎が妨害したというのだ。
そのことを現医務局長鴎外を前にして公言したのである。実は鴎外は石黒とともにコメの優秀性を主張し、麦食に理解がなかった。
おかげで序列も下げられ、人事上では恵まれてこなかったのである。
そのことを明らかにされた鴎外の胸中はどんなものだったか。
脚気の原因は意外なところから解明された。
インドネシアのジャカルタ付近では、鶏に白米ばかりを食べさせると脚気に似た症状を起こす病気が有名だった。
ベリベリという。
それをオランダ人医師エイクマン(明治初期のお雇い医師の実弟)が 研究し、人のベリベリと鶏の脚気は同じだと発表していた(1889年)。
そして明治30年代の終わりころには、ベリベリの原因が白米食にあることが知られ、
予防には豆や玄米が使われるようになっていた。
それが少しもわが国の関心をひかずに、だれも気がついていなかったのだ。
学界の目も陸海軍軍医たちもヨーロッパ には関心をもったが、列強の植民地のアジアについての話題など知らなくても済んでいたことがわかる。
都築2等軍医正(中佐相当)は直ちにインドネシアに出張した。
そこでのエイクマンらの業績を追試した結果、白米主食の問題点と「未知なる不可欠栄養素」の存在を報告した。
伝統的な「一汁一菜」では確実に、ある栄養素が不足することが確認された。
1910(明治43)年には東京帝国大学農科大学教授の鈴木梅太郎が『白米の食品的価値並びに動物の脚気様疾病について』を発表し、注目を集めた。
それは精米過程で出るコメの表皮や胚芽に含まれる糠(ぬか)を分析した結果である。
この糠に含まれる不可欠栄養素はコメの学名「オリザ・サティバ」にちなんで「オリザニン」と命名された。
発見は世界的にも評価を受けた。
なお、この後も鈴木の苦労は続くが、世界大戦の影響などで研究は中断し、純粋なオリザニンの
開発は1931(昭和6)年にずれこんだ。
この脚気病調査会の設立、継続には鴎外森林太郎は大きな功績をあげたと山下博士は指摘する。陸軍は兵食を改善し、少しでも豊かな副食を支給しようと努力するようになる。
それには森の貢献も大きいものだったという。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
↓
http://okigunnji.com/1tan/lc/toiawase.html
著者の最新刊
「あなたの習った歴史はもう古い」
http://okigunnji.com/url/zu33cgsm/
●著者略歴
荒木肇(あらき・はじめ)
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜市立学校
教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員等を歴任。
退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師、
現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に関する研究を続ける。
2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、陸自部隊・司令部・
学校などで講話をしている。
◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」「自衛隊
就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日本陸軍と自衛隊」
「子供にも嫌われる先生」「東日本大震災と自衛隊」「あなたの習った歴史は
もう古い」(いずれも並木書房 http://www.namiki-shobo.co.jp/ )
「日本人はどのようにして軍隊をつくったのか」
(出窓社 http://www.demadosha.co.jp/ )
~~~~~~
森鷗外は、脚気の原因究明に興味が無くて、日本兵に麦飯を与えることを拒否して大勢死なせたとどこかの本で読んだ。
「この脚気病調査会の設立、継続には鴎外森林太郎は大きな功績をあげたと山下博士は指摘する。陸軍は兵食を改善し、少しでも豊かな副食を支給しようと努力するようになる。
それには森の貢献も大きいものだったという。」
と、書いてあるのを読んで、少し嬉しくなった。
森鷗外の本は好きだからね。
それに、日露戦争では麦を運びたくても実は、なかなか運べなかったのだと書いてあった。
輸送兵らが大勢死んだとあるが、ロクな飯を食わせてもらってなかったのだろう。かわいそうに。日本人は粗食でも生きていける民族だと聞いたが、さすがにビタミンB1不足では脚気になるよね。脚気で死んでいったなんて、本当に無駄死にではないか。
無知とは恐ろしいものだ。無知は人を死に至らしめる。無知は怠慢の罪だ。
日本陸軍の兵站戦(19)
荒木 肇
□ご挨拶
戦場とは平時の環境とは想像を絶する恐ろしい場所です。
目に見えない細菌は繁殖し、慣れない環境に送られた人間はふつうではすぐに疾病に倒れてしまう。もちろん、負傷することが当然という戦場。
そうした中で衛生部員は与えられた物で最大の努力をしていました。
いまも陸上自衛官の中では衛生科隊員は大柄で、体力的にも秀でた人が多いようです。「重い衛生資材を運び、時には装具を付けた負傷者を引っ担ぎますから(笑)」という解説を聞きました。
▼一汁一菜の贅沢
『軍隊はいい所(どこ)でがんした』。これは戦後すぐに、古着の行商をしながら東北地方の農山村を歩いた大牟羅良(おおむら・りょう)氏の聞き書きにある話である。
『軍隊ず(という)所(どこ)ァいいもんでがんした。明るくなるまで寝せておいてくれで、暗ぐなれば、寝ろって寝せでくれだ』『洋服着せで革の靴はがせて呉れだった』『おらハァ、軍隊のおかげで字っコを覚え、手紙っコも書げるようになりあんした』『あそこのオンジ(次三男)は、軍隊で伍長になって来てス、それがら青年訓練所の指導員かなんかやって、今では村会議員でがんす』『大学出もおらも、同じに撲(なぐ)ってくれるっけス』と続き、『米のメシを食(か)せでけるっけァ、いい所(どこ)だった』と兵隊から復員してきた人たちの軍隊話は続く(『軍隊は官費の人生道場?!』)。
米の飯を食べることは私たちの祖父母たちにとって、どれほどの喜びだったのか。それを理解することは、私たちが小説や映画で作ってきた近代史の中の民衆の姿を見直す一つのきっかけになるだろう。百年少し前の陸軍兵の多くが脚気に倒れた。
米飯をやめて麦を混ぜて食べれば、確実に罹患者は減らせることができた。それなのに、陸軍軍医界の上層部の都合で麦の支給は見送られた。だから、前線に立つ兵士の多くは脚気に苦しんでいたのだ。
私たちが過去の時代相(ある時代のイメージ)を作るときの手がかりは小説や劇映画であることが多い。ところが、その中で脚気に苦しむ人の姿を見たことはない。江戸時代、都市、地方を問わず、登場人物たちのほとんどは居酒屋や飯屋で今と変わらない食生活を送っていたように描かれている。
時代劇の中の侍や、岡っ引きや、商店主たちは刺身を食べている。
江戸や大坂では、鶏やイノシシ肉の鍋を囲み、野菜の煮付けや漬物をおかずにして酒を飲んでいるようだ。庶民はアサリや納豆、豆腐を買い、朝食のおかずにし味噌汁を飲んでいる。
先ごろ亡くなった時代小説作家たちがいる。藤沢周平はグルメだった池波正太郎と比べると、さらりと食事風景を描く人だった。具体的な献立より米の量に関わる話が多い。用心棒を稼業とする侍は『ざっと二食、しかも粥にして二食』と米櫃(こめびつ)の中の残った米を見て考えている。稼ぎに行かなくてはと侍は決意する。そんな文章を見ると、江戸時代の人はどれほどの米を食べていたのだろうかと考えてしまう。
江戸時代でも19世紀になると菜種油が町には出回るようになった。
おかげで暗くなったら寝ていた時代に比べると活動時間が長くなった。一日三食の習慣が定着してくる。木炭を手軽に使えるようになった七輪(しちりん)の普及もこれを助けた。幕末の資料だが、ある大坂の商家では1人当たり年に一石六斗(240キロ)を食べていた。1日に直すと約670グラム、四合五勺弱である。大ぶりの茶碗でいえば10杯というところになる。
明治時代でも初めのころは老若男女すべての平均で米は300グラム以上、これに100グラムの麦が消費されていた。米の消費は増え続け、大正時代(1912~1926)の中ごろには年間226キログラム、1日当たり620グラム にもなった。やはり四合を超している。
大正時代、シベリア出兵による米の投機で米価は上がった。軍の兵站が兵食として買い上げるだろうという予想がでたからである。教科書にも載る米騒動(1918年)は富山県魚津で漁師のおかみさんたちの暴動から始まった。
漁師は1日に1升2合(1.8キロ)の飯を食っていた。同17年から米価はじりじり 上昇し、事件の6月には1升34銭、7月には45銭にもなった。同16年と比べると
3倍の値段になる。親子で出漁したら2升4合、それに家族が3人で1升として1日に3升4合、ざっと1円50銭。月収はせいぜい30円、コメだけで45円もかかったのでは家計を預かる女房たちの怒りが爆発するわけである。
食物史の研究者は米食の普及は大正時代だったという。また、全国津々浦々まで米食が広まったのは1939(昭和14)年の米穀配給統制令による米の配給制度のおかげだったらしい。それではおかずはどうだったのか。
実は「米、味噌汁、漬物、茶」という一汁一菜の食事は大正時代に「小家族」が生まれたからだと民俗学者の柳田國男はいう。資本主義の発達のおかげで、農村の次三男は都会に出た。それが小家族、つまり核家族のことだ。夫婦と子供だけの食事が豊かさをもたらしたという。
それがいま、私たちは一菜というと、魚や肉や、あるいは炒め物などのおかずを考える。しかし、研究史上ではこの一菜は漬物のことをいうのが常識であるらしい。
明治時代の職工や女工の実態を調べる当時のドキュメンタリーを見てみよう。
紡績工場の朝食である。「たくあん・らっきょう・菜・梅干」という漬物と「小松菜・切干大根・豆腐・大根・ワカメ」の味噌汁だけだった。主食は何かといえば、「南京米(なんきんまい)」という中国産の粘りも甘みも少ない「外国産米」と麦である。
脚気の予防ではない。外米は安く、麦も廉価だった。給食のコストを下げ、米を減らし、かさましを狙った米麦混合である。
「挽き割り麦1升に米2合」「南京米に同量の挽き割り」「南京米2升5合、挽き割り麦5合、国産米2升5合」という配分で、「蒸したるもの・・・美味なく」と いう表現がされている。栃木県桐生といえば絹の名産地である。そこでの織物女工の食事の様子も描かれている。
『飯は米と麦を等分にしたワリ飯。朝と晩には汁はつくが昼には汁なし、おかずなし。しかも汁は特に塩辛くした味噌汁で、ふつう汁の具は菜っ葉で、大根などは秋に入れば刻んで入れるが、それは珍膳佳?(ちんぜん・かこう:めったに見られない素晴らしいおかず)だった』
大正末期(1920頃から)になっても『鮮魚の刺身は一度もなく、牛肉は月に1、2回食べさせたが、皮のむいていない馬鈴薯(ジャガイモ)と共に煮つけたものが一人前5匁(約20グラム)くらいが関の山だった』とある。では、これが特に悲惨だったか というと、日本中どこであれ庶民の食生活はこのようなものだったらしい。
だから、多くの貧しい青年が多かったからこそ、肉や魚、野菜をバランスよく配合し、 白米を食べさせた軍隊は「いい所」だったのだ。
▼日露戦争の給食の実態
陸軍は副食の価値をほとんど理解していなかった。それは国民国家の軍隊は、その国の民度と文化の実態の反映でもあるからだ。麦は下級の食物であり、白米を食べることは幸せである。
先に女工や職工の給食にふれたが、野戦病院の献立を見てみよう。
1904(明治37)年8月の第1師団第2野戦病院の1週間の記録がある。
朝食はワカメのみそ汁、梅干1個、味噌漬大根、福神漬け、ネギのみそ汁、大根漬け、かんぴょうのみそ汁である。ただし、汁のあるときには漬物は付かない。
昼はかんぴょう、干鱈(鱈を乾燥させた塩味)、切り昆布の煮付け、麩、ネギの煮付け、 芋、缶詰の鮭、切干大根と牛肉の煮付け。夜は麩の煮付け、かんぴょうの煮付け、牛肉とネギの煮付け、卵、煮干し(雑魚とある)というのが1週間のメニューのすべてだった。他に鰹節がある。これが滋養を旨とした患者の入院食である。
野戦の兵士の給食も記録があった。
『五分(1.5センチ)ばかりの奈良漬が朝食のおかず。昼は干したエビが少々、夜は千切り大根と牛肉缶詰を煮たもの少し、肉には出会えない。
翌日は梅干2個が朝食、昼は千切り大根に牛肉8匁(30グラム)、夜も昼と同じ。
3日目はたくあん 漬けの大根1切れで朝食、昼は卵1個と千切り大根、夜は馬鈴薯に千切り大根』という、これまた貧しい内容が日記に書かれている。
白米と貧しい副食、メニューを見ただけでビタミン欠乏食であることが分かる。
また戦争も2年目となると、内地の補充隊でも食事は貧しくなっていった。
作家長谷川伸(1884~1963)が補充兵として入隊(明治37年11月1日)したのは千葉県国府台にあった野戦砲兵第一聯隊の補充隊だった。中隊長はのちの元帥陸軍大将畑俊六(はた・しゅんろく)である。畑は東京府立1中から中央幼年学校へ進み、1900(明治33)年に陸士卒業、野戦砲兵第一聯隊付きの砲兵中尉として出征した。旅順要塞西方高地を攻撃中に敵弾を胸に受け、野戦病院から内地に還送され、翌年3月原隊に復帰、補充大隊中隊長になった。
そこでのちの大作家と出会うことになる。
この長谷川伸の弟子が高名な兵隊作家棟田博である。棟田は師匠の思い出話として、支給されたシャツとズボン下がボロだったこと、銃剣も当初、支給されなかった
ことを書いた。だいぶ後になって、戦場で鹵獲したロシア製の銃剣を帯びたともいう。
班内にはベッドもなく、藁を床に敷いて1枚の毛布を2人でかぶったという話もあった。
食事は麦7、白米3で、規定では1日6合6勺(990グラム)だったが、5合くらい しかなかったという。さらに副食である。水曜日と土曜日の昼飯だけはご馳走が出た。コノシロという魚の煮つけとカマボコが一切れ、イモの葉っぱか何かを煮たものが少し。あとは毎日、ネワラとあだ名した切り干し大根にワカメを少し混ぜて、酢醤油に通したものだった。その形と色が、馬の寝る厩舎にあった寝藁(ねわら)にそっくりだったからという。戦場に送られてゆくべき補充兵への給養の低下、まさに国力の限界を示すエピソードである。
▼行われた麦飯給与
日露戦前、国内ではすでに行なわれていた麦飯給与は、戦地ではなかなか実行されなかった。第1軍軍医部長は開戦の月には「米麦混食」を上申した。
ときの野戦衛生長官は陸軍省医務局長の小池正直である。小池は1854(安政元)年、 山形県鶴岡藩の医官の家に生まれた。1873(明治6)年に上京、ドイツ語を学び、 11月に第1大学区医学校予科に入学する。同77年に在学中に陸軍軍医生徒に応募、採用された。
同81年に東京大学医学部卒業、鴎外森林太郎とは同窓で同期生になる。
6月陸軍軍医副(少尉相当)、朝鮮釜山領事館附属病院の院長などを歴任。中央勤務が多かった森とは対照的に地方回りが多かった。
1888年にドイツ留学、ミュンヘン大学で衛生学の研究法を学ぶ。同94年、日清戦争で第5師団軍医部長、第1軍兵站軍医部長、占領地総督部軍医部長を務める。
同98年、陸軍軍医監、陸軍省医務局長となる。日清戦争では終始戦場にあって戦功を大きく評価された。それだけに、日清戦時中の脚気惨害にも直面した。
ところが、彼もまた東大卒であり、ドイツ留学組でもあった。麦食という脚気対策には必ずしも熱心ではなかった。
その小池が医務局長となり、戦時体制になると野戦衛生長官を務めることとなった。
第1軍軍医部長の上申は一応受け入れられた。大本営会議で協議はされた。
しかし、戦地で主食を複雑にするのは実施上の困難が多いという理由で米麦混食は認められなかった。第5師団でも出征前の会議では軍医部長が麦を混ぜることを提案したが、麦は虫がつきやすい、変敗しやすい、輸送が困難になる、味が悪いなどの反対が多く否決されてしまった。代わりに実行されたのは重焼?麭といわれる堅いビスケットの支給だった。挽割麦の発送は5月まで行なわれなかった。
その結果は、脚気患者が増えて兵站病院も収容しきれないという有様になる。
世間にも知られるようになって陸軍への非難は激しさを増してきた。11月には寺内陸軍大臣が新聞記者を集めて弁明までさせられる始末である。
1905(明治38)年3月、陸相訓令が出された。
「脚気予防のため、麦飯を喫食させる必要がある。主食日量精米4合、挽割麦2合を給与することに努力せよ」というのがその主旨だった。
この効果は確かにあった。開戦の年8月に1万6000名を数えた患者は一部に麦飯が支給されたことによって、年末には約7000名となった。そして、訓令の結果、 翌6月には3000名余りと激減したのである。しかし、減りながらもなお患者の発生 は止んでいない。
夏の最盛期には再び6000名が脚気患者として後送されていた。
全体の3割程度の麦飯では脚気を完全に封じることはできなかったのである。
現在の栄養学から見ても、米4合・麦2合のビタミンB1の量は0.9グラムほどにしかならず、兵隊には不足しているという。
▼戦後の大紛争
1907(明治40)年1月、紛争の口火を切ったのは海軍軍医だった。脚気は食糧によって予防できる、陸軍は海軍の脚気予防の実績を見習うべきだというのだ。
続いて帝国大学医科大学(東京帝国大学医学部の前身)卒業の内科医師の発表があった。広島陸軍予備病院に勤務したときの経験から、脚気の病因は運搬中や貯蔵中に変質したコメの中毒によるという説である。米麦混食は脚気を減少させるだけだから、米食を全廃せよとも提言した。
これに対して、余計なお世話だとばかりに陸軍軍医が反論した。
陸軍だって脚気の原因究明には努力している。
伝染病か、中毒か、それ以外が原因か、医学的な検討は十分している。それに加えて、返す刀で海軍だって実は脚気患者がいるのに病名を変えて統計をごまかしているのだと発言してしまった。
これには海軍軍医も黙っていなかった。
陸軍が言う、環境に陸海では差があるという主張はばかばかしい。反論としては旅順要塞戦での海軍陸戦重砲隊での事実を示した。陸軍の糧食があまりに粗末だったので、陸戦隊軍医長は
聯合艦隊軍医長や司令長官に具申した。
結果、陸戦隊員には艦上と同じ食事を運ぶことになった。すると、海軍兵には一人も脚気などにかかる者はいなかった。
これから見れば、主食は麦を混ぜ、副食を豊かにすることがとにかく重要な対策なのだと主張した。
そして、いつか批判の的は小池軍医総監に向けられるようになってきた。
しかし、これは個人攻撃にする方が無体(むたい)だと思える。小池は野戦衛生長官として、たしかに仕事に励んだ。膨大な死傷者、環境の劣悪さの中で陸軍衛生部は小池以下、みな奮闘をした。物資の不足、補給兵站の貧しさ、国力のないなかで、みなが勇戦敢闘をしたと言っていい。
陸軍が当初に麦を送らなかったのは送れなかったからである。弾薬、兵器、馬、兵員を戦場に送るだけで手一杯だったのだ。『輸送が困難だったから麦が送れなかった』
というのは嘘ではなかった。しかし、そうした実態を知らせては国内に厭戦気分が生まれてしまう。ただでさえ、世界最大の陸軍国であるロシアと開戦することに不安をもつ人は多かった。しかし、戦争は綱渡りの連続でなんとか勝ち抜いていた。
そうした実態を知らせなかったから、国内ではすべて陸軍衛生部の責任にするのは当たり前だった。
山下博士はさらに一人の補助輸卒隊にいた輜重輸卒の手記を紹介している。
手記には第1軍で大量の麦の輸送を行なっていたことが書かれている。開戦直後の3月のある日、精米2斗(30キログラム)入りの叺(カマス)359、麦504叺 を港から内陸へ、別の日には韓国米5斗入りの米俵を24、同じく2斗入りの叺23、 大麦626叺を運ぶ。また、ある日には麦1斗入り叺250、精米2斗入り叺200、 大麦同200を運んでいる。
そして、4月には精米180叺、大麦400叺、塩鮭400俵(重量は不明)、醤油エキス(乾燥粉末醤油)12箱、福神漬17箱を送っている。
手記はまた、過酷な労働を行なう輸卒の姿が赤裸々に描かれている。
脚気はこの輜重輸卒隊にもっとも多く発生した。
歩兵ほか戦闘兵科の兵士の脚気罹患率はほぼ2%である。
これに比べて補助輸卒隊では5%強とたいへん多い。
山下博士も指摘するが、およそ3倍近くも輸卒は脚気にかかっている。
▼大団円
1908(明治41)年5月末、臨時脚気病調査会の官制が公布された。
当時の医学界の総力をあげたメンバーである。この発会の席で陸軍大臣寺内正毅は爆弾発言をする。それは日清戦争当時、脚気対策に麦を送れという大方の声を、当時の石黒医務局長と森林太郎が妨害したというのだ。
そのことを現医務局長鴎外を前にして公言したのである。実は鴎外は石黒とともにコメの優秀性を主張し、麦食に理解がなかった。
おかげで序列も下げられ、人事上では恵まれてこなかったのである。
そのことを明らかにされた鴎外の胸中はどんなものだったか。
脚気の原因は意外なところから解明された。
インドネシアのジャカルタ付近では、鶏に白米ばかりを食べさせると脚気に似た症状を起こす病気が有名だった。
ベリベリという。
それをオランダ人医師エイクマン(明治初期のお雇い医師の実弟)が 研究し、人のベリベリと鶏の脚気は同じだと発表していた(1889年)。
そして明治30年代の終わりころには、ベリベリの原因が白米食にあることが知られ、
予防には豆や玄米が使われるようになっていた。
それが少しもわが国の関心をひかずに、だれも気がついていなかったのだ。
学界の目も陸海軍軍医たちもヨーロッパ には関心をもったが、列強の植民地のアジアについての話題など知らなくても済んでいたことがわかる。
都築2等軍医正(中佐相当)は直ちにインドネシアに出張した。
そこでのエイクマンらの業績を追試した結果、白米主食の問題点と「未知なる不可欠栄養素」の存在を報告した。
伝統的な「一汁一菜」では確実に、ある栄養素が不足することが確認された。
1910(明治43)年には東京帝国大学農科大学教授の鈴木梅太郎が『白米の食品的価値並びに動物の脚気様疾病について』を発表し、注目を集めた。
それは精米過程で出るコメの表皮や胚芽に含まれる糠(ぬか)を分析した結果である。
この糠に含まれる不可欠栄養素はコメの学名「オリザ・サティバ」にちなんで「オリザニン」と命名された。
発見は世界的にも評価を受けた。
なお、この後も鈴木の苦労は続くが、世界大戦の影響などで研究は中断し、純粋なオリザニンの
開発は1931(昭和6)年にずれこんだ。
この脚気病調査会の設立、継続には鴎外森林太郎は大きな功績をあげたと山下博士は指摘する。陸軍は兵食を改善し、少しでも豊かな副食を支給しようと努力するようになる。
それには森の貢献も大きいものだったという。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
↓
http://okigunnji.com/1tan/lc/toiawase.html
著者の最新刊
「あなたの習った歴史はもう古い」
http://okigunnji.com/url/zu33cgsm/
●著者略歴
荒木肇(あらき・はじめ)
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜市立学校
教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員等を歴任。
退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師、
現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に関する研究を続ける。
2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、陸自部隊・司令部・
学校などで講話をしている。
◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」「自衛隊
就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日本陸軍と自衛隊」
「子供にも嫌われる先生」「東日本大震災と自衛隊」「あなたの習った歴史は
もう古い」(いずれも並木書房 http://www.namiki-shobo.co.jp/ )
「日本人はどのようにして軍隊をつくったのか」
(出窓社 http://www.demadosha.co.jp/ )
~~~~~~
森鷗外は、脚気の原因究明に興味が無くて、日本兵に麦飯を与えることを拒否して大勢死なせたとどこかの本で読んだ。
「この脚気病調査会の設立、継続には鴎外森林太郎は大きな功績をあげたと山下博士は指摘する。陸軍は兵食を改善し、少しでも豊かな副食を支給しようと努力するようになる。
それには森の貢献も大きいものだったという。」
と、書いてあるのを読んで、少し嬉しくなった。
森鷗外の本は好きだからね。
それに、日露戦争では麦を運びたくても実は、なかなか運べなかったのだと書いてあった。
輸送兵らが大勢死んだとあるが、ロクな飯を食わせてもらってなかったのだろう。かわいそうに。日本人は粗食でも生きていける民族だと聞いたが、さすがにビタミンB1不足では脚気になるよね。脚気で死んでいったなんて、本当に無駄死にではないか。
無知とは恐ろしいものだ。無知は人を死に至らしめる。無知は怠慢の罪だ。
工藤俊作 ~敵兵422人を救助した武士道
日本の武士道に世界が感動。大戦中、敵兵を命がけで救った日本海軍
2016年4月11日2016年4月11日 249
第2次世界大戦中から現在に至るまで、元英国海軍兵たちから感謝され続けている日本海軍軍人がいます。その人の名は、工藤俊作。沈没した敵艦の兵士たちを、艦長として、そして武士道を重んじる日本人として懸命に救助した感動秘話が、無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』で紹介されています。
人物探訪:工藤俊作 ~敵兵422人を救助した武士道
1998(平成10)年4月、英国では翌月に予定されている天皇の英国訪問への反対運動が起きていた。その中心となっていたのは、かつて日本軍の捕虜となった退役軍人たちで、捕虜として受けた処遇への恨みが原因であった。
その最中、元海軍中尉サムエル・フォール卿がタイムズ紙に一文を投稿した。「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和解することに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前置きして、自身の体験を語った。
大東亜戦争が始まってまもなくの1942(昭和17)年2月27日、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合部隊の海戦が始まった。連合部隊の15隻中11隻は撃沈され、4隻は逃走した。3月1日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員4百数十名は漂流を続けていたが、翌2日、生存の限界に達した所を日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に発見された。
「エンカウンター」の砲術士官だったフォール卿は、「日本人は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けて最期を迎えるものと覚悟した。
ところが、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長・工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で健闘を称え、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」とスピーチしたのだった。そして兵員も含め、全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。
このフォール卿の投稿によって、以後の日本批判の投書はことごとく精彩を欠くことになった。
次ページ>>「艦長のためならいつ死んでも悔いはない」と言わしめた工藤俊作とは
「オラが艦長は」
工藤が駆逐艦「雷」の艦長として着任したのは、昭和15(1940)年11月1日だった。身長185センチ、体重95キロと大きな体に、丸眼鏡をかけた柔和で愛嬌のある細い目をしていた。「工藤大仏」というあだ名を持つ温厚な艦長に、乗組員たちはたちまち魅了されていった。
着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。士官たちには「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように命じた。見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。
酒豪で何かにつけて宴会を催し、士官と兵の区別なく酒を酌み交わす。兵員の食事によく出るサンマやイワシが好きで、士官室でのエビや肉の皿を兵員食堂まで持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもした。
2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになった。艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。
海軍兵学校・鈴木貫太郎校長の教育
工藤艦長は、海軍兵学校51期だったが、入学時に校長をしていた鈴木貫太郎中将の影響を強く受けた。鈴木はその後、連合艦隊司令長官を務めた後、昭和4年から8年間も侍従長として昭和天皇にお仕えした。その御親任の厚さから、終戦時の内閣総理大臣に任命されて、我が国を滅亡の淵から救う役割を果たす。
工藤ら51期が入学した時に校長に着任した鈴木は、従来の教育方針を以下のように大転換した。
•鉄拳制裁の禁止
•歴史および哲学教育強化
•試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)
日本古来の武士道には鉄拳制裁はない、というのが、その禁止の理由だった。工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、最上級生になっても、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導していた。
歴史および哲学教育の強化の一貫としては、鈴木自身が明治天皇御製についての訓話を行い、
四方の海皆はらからと思ふよになど波風に立ちさわぐらん
の御製から、明治天皇の「四海同胞」の精神を称えている。工藤の敵兵救助も、この精神の表れであろう。
日本海軍の武士道
大東亜戦争開戦の2日後、昭和16(1941)年12月10日、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の不沈艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈した。
駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めたが、日本の航空隊は一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送った。さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰投するさいにも、日本機は上空から視認していたが、一切、攻撃を差し控えていた。
こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させた。工藤の敵兵救助とは、こうした武士道の表れであり、決して、例外的な行為だったわけではない。
昭和17(1942)年2月15日、シンガポールが陥落すると、英国重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は、ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで、アメリカ、オランダ、オーストラリアの艦船と合同して、巡洋艦5隻、駆逐艦9隻からなる連合部隊を結成した。
この連合部隊に、日本海軍の重巡「那智」「羽黒」以下、軽巡2隻、駆逐艦14隻の東部ジャワ攻略部隊が決戦を挑んだ。日本海海戦以来、37年ぶりの艦隊決戦である。
2月27日午後5時、海戦が始まった。当初、「雷」は開戦以来、敵潜水艦2隻、哨戒艇1隻撃沈という戦闘力の高さを買われて、艦隊後方で指揮をとる主隊の護衛任務についていた。そこに「敵巡洋艦ヨリナル有力部隊発見、我交戦中」との信号を受けて、主力は戦場に向かった。しかし、到着した時には、敵艦隊はスラバヤに逃げ込んで、肩すかしを食らった。
2月28日、「エクゼター」は被弾箇所の応急修理を終え、「エンカウンター」と米駆逐艦「ポープ」を護衛につけて、インド洋のコロンボへと逃亡を図った。しかし、3月1日に「雷」の僚艦「電(いなづま)」を含む日本の駆逐艦隊に取り囲まれ、攻撃を受けた。
次ページ>>沈みゆく敵艦にも最大の「敬意」を表した
「沈みゆく敵艦に敬礼」
午後12時35分、「電」は指揮官旗を翻す「エクゼター」に砲撃を開始した。「エクゼター」はボイラー室に被弾して、航行不能に陥った。午後1時10分、「撃ち方止め!」の号令が下され、敵艦に降伏を勧告する信号が発せられた。
しかし、艦長オリバー・ゴードン大佐は降伏せず、マストに「我艦を放棄す、各艦適宜行動せよ」の旗流信号を掲げた。ここで「エクゼター」の乗組員たちは、次々と海中に飛び込み、日本艦隊に向かって、泳ぎ始めたのである。「エクゼター」では、士官が兵に対し、「万一の時は、日本艦の近くに泳いでいけ、必ず救助してくれる」といつも話していた。「プリンス・オブ・ウェールズ」沈没の際の日本海軍の行動が記憶にあったのだろう。
「電」は、傾いた「エクゼター」に魚雷を発射して、とどめを刺した。「電」艦内に、「沈みゆく敵艦に敬礼」との放送が流れ、甲板上の乗組員達は、一斉に挙手の敬礼をした。その敬礼に見送られて、「エクゼター」は船尾から沈んでいった。
まもなく「海上ニ浮遊スル敵兵ヲ救助スベシ」の命令が出された。救命ボートに乗っている者、救命用具をつけて海面に浮かんでいる者に対して、「電」の乗組員は、縄ばしごやロープ、救命浮標などで、救助にあたった。蒼白な顔に救出された喜びの笑みをたたえ、「サンキュウ」と敬礼して甲板にあがってくる者、激しい戦闘によって大怪我をしている者などが、次々と助け出された。
甲板上に収容された将兵には、乾パンとミルクが支給された。「電」によって救助された「エクゼター」乗組員は376名に上った。
重油の海での漂流
駆逐艦「エンカウンター」は、旗艦「エクゼター」が停止した時、その「各艦適宜行動せよ」という命令に従い、単独での航行を続けた。艦長モーガン少佐は「エクゼター」の乗組員を救助すべきかと、一瞬迷ったが、「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」沈没の際の日本海軍の行動を覚えていたので、こう決断したのである。
しかし、その「エンカウンター」も日本艦隊の追撃を受け、8,000メートル東方の海域で、30分後に撃沈された。この時、20歳の砲術士官だったフォール卿は、こう証言している。
艦長とモーターボートに乗って脱出しました。その直後、小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。…この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。
間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。
この時は、米蘭の潜水艦がジャワ海で行動しており、敵の攻撃をいつ受けるか分からない状況では、国際法上は、海上遭難者を放置しても違法ではない。
「エンカウンター」の乗組員たちは、自艦から流出した重油の海につかり、多くの者が一時的に目が見えなくなった。その状態で、約21時間も漂流した。
次ページ>>英兵が決して忘れられない工藤のスピーチ
「これは夢ではないか」
そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。見張りが「漂流者400以上」と報告した。工藤艦長は敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、「救助!」と命じた。
「雷」の手の空いていた乗組員全員がロープや縄ばしご、竹竿を差し出した。漂流者たちは、われ先にとパニック状態になったが、青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然と順番を守るようになった。
重傷者から救う事になったが、彼らは最期の力を振り絞って、「雷」の舷側に泳ぎ着いて、竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。この光景を見かねて、何人かの乗組員は、自ら海に飛び込み、立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。
こうなると、敵も味方もなかった。まして同じ海軍軍人である。甲板上で「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいた。無事、救出された英兵は、体についた重油を乗組員が布とアルコールで拭き取ってやった。新しいシャツと半ズボン、靴が支給され、熱いミルクやビール、ビスケットが配られた。
フォールズ卿はこう回想している。
私は、まさに「奇跡」が起こったと思い、これは夢ではないかと、自分の手を何度もつねったのです。
「今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである」
間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられた。
すると、キャプテン(艦長)・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。
キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。
「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである」
「雷」はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に1人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助した。水没したり、甲板上で死亡した者を除いて、午前中だけで404人、午後は18人を救助した。乗組員約150名の3倍近い人数である。
翌日、救助された英兵たちは、オランダの病院船に引き渡された。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、またウィングに立つ工藤に敬礼した。工藤艦長は、丁寧に1人1人に答礼をした。兵のほうは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表していた。
「サイレント・ネービー」の伝統
フォール卿は、戦後、外交官として活躍し、定年退職後、1996(平成8)年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。
平成15(2003)年10月、フォール卿は日本の土を踏んだ。84歳を迎える自身の「人生の締めくくり」として、すでに他界していた工藤艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したいと願ったのである。しかし、あいにく墓も遺族も所在が分からず、フォール卿の願いは叶えられなかった。
フォール卿から依頼を受けて、『敵兵を救助せよ!』の著者・恵隆之介氏は3ヶ月後に、遺族を見つけ出した。工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙した。サイレント・ネービーの伝統を忠実に守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである。
文責:伊勢雅臣
『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』
著者/伊勢雅臣
購読者数4万3千人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。
http://www.mag2.com/p/news/169288
2016年4月11日2016年4月11日 249
第2次世界大戦中から現在に至るまで、元英国海軍兵たちから感謝され続けている日本海軍軍人がいます。その人の名は、工藤俊作。沈没した敵艦の兵士たちを、艦長として、そして武士道を重んじる日本人として懸命に救助した感動秘話が、無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』で紹介されています。
人物探訪:工藤俊作 ~敵兵422人を救助した武士道
1998(平成10)年4月、英国では翌月に予定されている天皇の英国訪問への反対運動が起きていた。その中心となっていたのは、かつて日本軍の捕虜となった退役軍人たちで、捕虜として受けた処遇への恨みが原因であった。
その最中、元海軍中尉サムエル・フォール卿がタイムズ紙に一文を投稿した。「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和解することに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前置きして、自身の体験を語った。
大東亜戦争が始まってまもなくの1942(昭和17)年2月27日、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合部隊の海戦が始まった。連合部隊の15隻中11隻は撃沈され、4隻は逃走した。3月1日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員4百数十名は漂流を続けていたが、翌2日、生存の限界に達した所を日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に発見された。
「エンカウンター」の砲術士官だったフォール卿は、「日本人は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けて最期を迎えるものと覚悟した。
ところが、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長・工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で健闘を称え、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」とスピーチしたのだった。そして兵員も含め、全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。
このフォール卿の投稿によって、以後の日本批判の投書はことごとく精彩を欠くことになった。
次ページ>>「艦長のためならいつ死んでも悔いはない」と言わしめた工藤俊作とは
「オラが艦長は」
工藤が駆逐艦「雷」の艦長として着任したのは、昭和15(1940)年11月1日だった。身長185センチ、体重95キロと大きな体に、丸眼鏡をかけた柔和で愛嬌のある細い目をしていた。「工藤大仏」というあだ名を持つ温厚な艦長に、乗組員たちはたちまち魅了されていった。
着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。士官たちには「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように命じた。見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。
酒豪で何かにつけて宴会を催し、士官と兵の区別なく酒を酌み交わす。兵員の食事によく出るサンマやイワシが好きで、士官室でのエビや肉の皿を兵員食堂まで持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもした。
2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになった。艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。
海軍兵学校・鈴木貫太郎校長の教育
工藤艦長は、海軍兵学校51期だったが、入学時に校長をしていた鈴木貫太郎中将の影響を強く受けた。鈴木はその後、連合艦隊司令長官を務めた後、昭和4年から8年間も侍従長として昭和天皇にお仕えした。その御親任の厚さから、終戦時の内閣総理大臣に任命されて、我が国を滅亡の淵から救う役割を果たす。
工藤ら51期が入学した時に校長に着任した鈴木は、従来の教育方針を以下のように大転換した。
•鉄拳制裁の禁止
•歴史および哲学教育強化
•試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)
日本古来の武士道には鉄拳制裁はない、というのが、その禁止の理由だった。工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、最上級生になっても、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導していた。
歴史および哲学教育の強化の一貫としては、鈴木自身が明治天皇御製についての訓話を行い、
四方の海皆はらからと思ふよになど波風に立ちさわぐらん
の御製から、明治天皇の「四海同胞」の精神を称えている。工藤の敵兵救助も、この精神の表れであろう。
日本海軍の武士道
大東亜戦争開戦の2日後、昭和16(1941)年12月10日、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の不沈艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈した。
駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めたが、日本の航空隊は一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送った。さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰投するさいにも、日本機は上空から視認していたが、一切、攻撃を差し控えていた。
こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させた。工藤の敵兵救助とは、こうした武士道の表れであり、決して、例外的な行為だったわけではない。
昭和17(1942)年2月15日、シンガポールが陥落すると、英国重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は、ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで、アメリカ、オランダ、オーストラリアの艦船と合同して、巡洋艦5隻、駆逐艦9隻からなる連合部隊を結成した。
この連合部隊に、日本海軍の重巡「那智」「羽黒」以下、軽巡2隻、駆逐艦14隻の東部ジャワ攻略部隊が決戦を挑んだ。日本海海戦以来、37年ぶりの艦隊決戦である。
2月27日午後5時、海戦が始まった。当初、「雷」は開戦以来、敵潜水艦2隻、哨戒艇1隻撃沈という戦闘力の高さを買われて、艦隊後方で指揮をとる主隊の護衛任務についていた。そこに「敵巡洋艦ヨリナル有力部隊発見、我交戦中」との信号を受けて、主力は戦場に向かった。しかし、到着した時には、敵艦隊はスラバヤに逃げ込んで、肩すかしを食らった。
2月28日、「エクゼター」は被弾箇所の応急修理を終え、「エンカウンター」と米駆逐艦「ポープ」を護衛につけて、インド洋のコロンボへと逃亡を図った。しかし、3月1日に「雷」の僚艦「電(いなづま)」を含む日本の駆逐艦隊に取り囲まれ、攻撃を受けた。
次ページ>>沈みゆく敵艦にも最大の「敬意」を表した
「沈みゆく敵艦に敬礼」
午後12時35分、「電」は指揮官旗を翻す「エクゼター」に砲撃を開始した。「エクゼター」はボイラー室に被弾して、航行不能に陥った。午後1時10分、「撃ち方止め!」の号令が下され、敵艦に降伏を勧告する信号が発せられた。
しかし、艦長オリバー・ゴードン大佐は降伏せず、マストに「我艦を放棄す、各艦適宜行動せよ」の旗流信号を掲げた。ここで「エクゼター」の乗組員たちは、次々と海中に飛び込み、日本艦隊に向かって、泳ぎ始めたのである。「エクゼター」では、士官が兵に対し、「万一の時は、日本艦の近くに泳いでいけ、必ず救助してくれる」といつも話していた。「プリンス・オブ・ウェールズ」沈没の際の日本海軍の行動が記憶にあったのだろう。
「電」は、傾いた「エクゼター」に魚雷を発射して、とどめを刺した。「電」艦内に、「沈みゆく敵艦に敬礼」との放送が流れ、甲板上の乗組員達は、一斉に挙手の敬礼をした。その敬礼に見送られて、「エクゼター」は船尾から沈んでいった。
まもなく「海上ニ浮遊スル敵兵ヲ救助スベシ」の命令が出された。救命ボートに乗っている者、救命用具をつけて海面に浮かんでいる者に対して、「電」の乗組員は、縄ばしごやロープ、救命浮標などで、救助にあたった。蒼白な顔に救出された喜びの笑みをたたえ、「サンキュウ」と敬礼して甲板にあがってくる者、激しい戦闘によって大怪我をしている者などが、次々と助け出された。
甲板上に収容された将兵には、乾パンとミルクが支給された。「電」によって救助された「エクゼター」乗組員は376名に上った。
重油の海での漂流
駆逐艦「エンカウンター」は、旗艦「エクゼター」が停止した時、その「各艦適宜行動せよ」という命令に従い、単独での航行を続けた。艦長モーガン少佐は「エクゼター」の乗組員を救助すべきかと、一瞬迷ったが、「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」沈没の際の日本海軍の行動を覚えていたので、こう決断したのである。
しかし、その「エンカウンター」も日本艦隊の追撃を受け、8,000メートル東方の海域で、30分後に撃沈された。この時、20歳の砲術士官だったフォール卿は、こう証言している。
艦長とモーターボートに乗って脱出しました。その直後、小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。…この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。
間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。
この時は、米蘭の潜水艦がジャワ海で行動しており、敵の攻撃をいつ受けるか分からない状況では、国際法上は、海上遭難者を放置しても違法ではない。
「エンカウンター」の乗組員たちは、自艦から流出した重油の海につかり、多くの者が一時的に目が見えなくなった。その状態で、約21時間も漂流した。
次ページ>>英兵が決して忘れられない工藤のスピーチ
「これは夢ではないか」
そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。見張りが「漂流者400以上」と報告した。工藤艦長は敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、「救助!」と命じた。
「雷」の手の空いていた乗組員全員がロープや縄ばしご、竹竿を差し出した。漂流者たちは、われ先にとパニック状態になったが、青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然と順番を守るようになった。
重傷者から救う事になったが、彼らは最期の力を振り絞って、「雷」の舷側に泳ぎ着いて、竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。この光景を見かねて、何人かの乗組員は、自ら海に飛び込み、立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。
こうなると、敵も味方もなかった。まして同じ海軍軍人である。甲板上で「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいた。無事、救出された英兵は、体についた重油を乗組員が布とアルコールで拭き取ってやった。新しいシャツと半ズボン、靴が支給され、熱いミルクやビール、ビスケットが配られた。
フォールズ卿はこう回想している。
私は、まさに「奇跡」が起こったと思い、これは夢ではないかと、自分の手を何度もつねったのです。
「今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである」
間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられた。
すると、キャプテン(艦長)・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。
キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。
「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである」
「雷」はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に1人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助した。水没したり、甲板上で死亡した者を除いて、午前中だけで404人、午後は18人を救助した。乗組員約150名の3倍近い人数である。
翌日、救助された英兵たちは、オランダの病院船に引き渡された。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、またウィングに立つ工藤に敬礼した。工藤艦長は、丁寧に1人1人に答礼をした。兵のほうは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表していた。
「サイレント・ネービー」の伝統
フォール卿は、戦後、外交官として活躍し、定年退職後、1996(平成8)年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。
平成15(2003)年10月、フォール卿は日本の土を踏んだ。84歳を迎える自身の「人生の締めくくり」として、すでに他界していた工藤艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したいと願ったのである。しかし、あいにく墓も遺族も所在が分からず、フォール卿の願いは叶えられなかった。
フォール卿から依頼を受けて、『敵兵を救助せよ!』の著者・恵隆之介氏は3ヶ月後に、遺族を見つけ出した。工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙した。サイレント・ネービーの伝統を忠実に守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである。
文責:伊勢雅臣
『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』
著者/伊勢雅臣
購読者数4万3千人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。
http://www.mag2.com/p/news/169288