レニの光芒 ⑩
瀬川深
涼しい風が吹くようになっていた夕暮れだった。少々早めに着いたのに、会場はすでに人の熱で温まっている。こぢんまりとした店の入口で会費を払い、お祝いの花束を託し、あたりを見回しておれは感嘆した。目を細めて眺めていると、不意に声をかけられた。
――ひさしぶり! 来てくれてどうもありがとう!
レニだった。言うまでもない、なにも変わってはいない。おたがい、経た時のぶんだけのさまざまを身に刻みつけていただけのことだ。
――続けてたんだ。
――お遊びよ、お遊び。まあ、ちょっとはね……。
そう言いながら、レニはあたりを見まわす。ベルリンの街角なのだろうか。たたずむ老人。大きく引き延ばされた若い娘の目元とスカーフ。これは日本らしい、時代離れした服に身を包み、アスファルトの上に寝そべる幼児。荒涼とした郊外の風景に、遠景のように映り込むカップル。沈黙するような街角の光り、歌うような荒野の光り。どの写真も、世界に向けるレニのまなざしがそのまま感光したかのような鋭さに満ちていた。見ていると、息をするのを忘れそうになるほどだった。
――すごい。すごいな。
そう言うのが精一杯だった。ありがとう、そう言ってレニは微笑んだ。
――あ、日高さん! わざわざありがとうございます。紹介しますね、こちら、わたしの高校のときのクラスメートで……。
ほかの来客に紹介され、挨拶を交わしながら、おれは幸福な気分に浸る。レニは、レニだ。どんなふうに歩いていても、おれとは歩く道がわかれても。レニのことだ、この写真でも、いつか世間を驚かせるにちがいない。
さて、そうとなると。家を出る直前まで迷ってはいたが、持ってきて正解だと思ったな。レニが離れていったすきに、壁の一隅を選んでテープで留めた。どれもこれもひどいできばえだったなかで、ほんのちょっとだけマシだったやつだ。ワインを飲みながら、この場で知り合った同業者と話が盛り上がっていると、戻ってきたレニはすぐに気付いた。おれのへたくそな写真を見て笑い出したのだ。
――あらら、こりゃ大変だ。ひょっとすると、わたし? よく取っておいてたわねえ、こんなの……。
おもしろがるようにあきれたように、レニはつぶやく。一度だってまともに写真を撮らせてくれなかった、あのころのレニだ。ぶれた輪郭、長い髪、露光している最中にぼやけてしまったまなざし。ねえ、見てよみんな! わたしたち、高校のころにこんなことやってたのよ、ピンホールカメラって言ってねえ……。飛び去ってしまった時代の光りが焼き付けられた印画紙を覗き込みながら、酔客たちは笑ったり感心したりする。懐かしいわねえ、わたしもなんか持ってくりゃよかった。レニはそんなことを言った。
――あるよ。
おれは言う。レニは怪訝な顔をする。かばんから取り出した紙製のピンホールカメラ。片すみにLeni.のサイン。
そのときのことだ。気がついたのはおれだけだっただろう。あの、いつだって悠揚迫らざる態度だったレニの、長い髪から覗いたかたちのよい耳介がさっと朱に染まったのだ。ほんの一瞬のことだった。笑みのなかにかすかな怒りと含羞とが複雑に入り交じった表情で、レニはおれのほうに向き直る。
――ちょっと。現像したんでしょ。出しなさいよ。
隠し立てなんかできるはずもなかった。鋭いくちばしを持った猛禽と相対したときの生物の気持ち……、そんなふうに言ったことがあったっけか? おれは叱られた子供みたいにはにかみながら、箱の蓋を開ける。ほんの数日前に現像したばかりだ。印画紙の上に奇跡的に息づいていた、遠いむかしの光り。
レニの写真に並べてテープで留める。眺めていた一同はざわつき、笑い、口笛を吹く。高校時代のおれだ。授業中にちがいない、前を見つめてノートを取っている横顔である。いつのまに撮ったものやら。半袖を着ているところからすると、夏の始まるころだろう。
レニと出会って、間もないころの写真にちがいない。
(了)
作者紹介
瀬川深(せがわ しん)
1974年生まれ。岩手県生まれ。東京医科歯科大学卒業。同大学院博士課程修了。医学博士。
2007年『mit Tuba』(『チューバはうたう』に改題)で第23回太宰治賞を受賞。
作品に、『ゲノムの国の恋人』、『ミサキラジオ』などがある。
イェール大学で遺伝学・神経生物学研究にたずさわりながら、執筆活動を続けている。
『レニの光芒』①
『レニの光芒』②
『レニの光芒』③
『レニの光芒 ④』
『レニの光芒 ⑤』
『レニの光芒 ⑥』
『レニの光芒 ⑦』
『レニの光芒 ⑧』
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