レニの光芒 ⑨
瀬川深
5.
自分の手で気まずくしてしまった思い出など、忘れてしまうに限る。そう考えていた。二度とレニに連絡を取ることもないだろう、そんなことが許されるはずもない。そう思いこんでいたんだ。それは少々突っ張りすぎた、かたくなな態度だったかもしれないけれどね。
またも何年かが過ぎた。五年、六年、もうちょっとだったか。三十路の坂を越えるころ、おれはアウトドアスポーツ誌の編集部に潜り込んでいた。ウェブ担当者の求人が出ていたところに名乗りを上げたのだ。ちょっぴり給料は下がるけれど、いずれそんな仕事をしてみたいと思っていたんだ。相も変わらず自転車は好きだったしね。なにより、自分の仕事に誇りが持てるってのはすばらしいことじゃないか。最初は前任者の作ったサイトを手直しするていどの仕事だったけれど、しだいに記事の作成をまかされるようになってきた。自転車のパーツをレビューする。国内ツアーに参加し、有名どころの選手にインタビューする。はじめて自分の署名記事が誌面に載ったときには感激したねえ……。
そんな折のことだった。おれは、意外なところでレニの名前に出くわす。自分が編集している雑誌の広告記事でだ。Morphixっておぼえてるか? スマートフォンのシリーズだよ。数名の若手デザイナーにコンセプトデザインを任せたってのが売りで、ちょっと話題になっただろ。そのなかの一人が、レニだったんだ。あのシリーズのなかでもいちばん奇抜なやつだ、左右対称を拒むような、不思議な曲線に彩られたフォルム。ためらったが、メールを出してみた。祝福すべき偉業だと思われたからだ。
意外にも、すぐに返信がきた。中身もかなり意外なことを告げていた。なんと、レニはいまドイツで働いているのだという。たしかに件のスマートフォンのメーカーは外資系だ。開発拠点がベルリンにあるとまでは想像していなかったけれど。来月に一時帰国するのよ、ちょっとした飲み会をやるからさ、おいでよ。ビュッフェスタイルだから、気兼ねなく……。おれは苦笑した。おれの屈託を笑い飛ばすような、さっぱりとした態度だった。メールにはチラシが一枚添付されていた。時は十月の半ば、ところは隅田川沿いのビストロ。
レニの光芒 ⑩につづく
作者紹介
瀬川深(せがわ しん)
1974年生まれ。岩手県生まれ。東京医科歯科大学卒業。同大学院博士課程修了。医学博士。
2007年『mit Tuba』(『チューバはうたう』に改題)で第23回太宰治賞を受賞。
作品に、『ゲノムの国の恋人』、『ミサキラジオ』などがある。
イェール大学で遺伝学・神経生物学研究にたずさわりながら、執筆活動を続けている。
(瀬川深様のイラストは、hiroendaughnut様に描いていただきました。)
『レニの光芒』①
『レニの光芒』②
『レニの光芒』③
『レニの光芒 ④』
『レニの光芒 ⑤』
『レニの光芒 ⑥』
『レニの光芒 ⑦』
『レニの光芒 ⑧』
*『レニの光芒』の無断転載を禁じます。作品の著作権は、瀬川深さんに属しています。ネットでの公開権は、『にゃんころがり新聞』のみが有しています。
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