【み】源希義(みなもとのまれよし) ;土佐旅行記⑭ | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

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特にテーマもなく、徒然なるままに書き綴ってます。

源希義・・・

?~治承4年(1180年)

父は源義朝、母は熱田大宮司季範の娘、同母兄に頼朝がいる。

平治の乱の戦後処理で土佐国 長岡郡 介良荘へ流される。

治承4年の兄頼朝の挙兵により平家の追討を受け、近隣の夜須氏を頼って逃走しようとしたが、その途中の年越山で討死。

通称、土佐冠者。

 

 

 

 

 

1月下旬の高知の旅・・・

最終日は、土佐国分寺跡→紀貫之邸跡→舟戸(紀貫之の船出の地)と回りまして・・・

舟戸から行けそうな所で、個人的に興味のある所を旅行案内本で探してますと・・・

源希義公墓所希義神社というものがありましたので、行ってみました。

ちなみに、交通の便は良くなく、舟戸から徒歩で2km強でした。

 

 

介良川という川の東岸に、川に沿って集落があるのですが・・・

歩いていますと、いきなり源希義公墓所との案内がありました。

川に沿って小高い山があるのですが、山の方にあるようです。

 

 

民家の間の小道を通り、民家の飼い犬の吠え声を浴びながら、山の方へ・・・

 

 

山に入ると、そこから案内看板のようなものはなく・・・

幾つかに分かれた道の雰囲気と、勘を頼りに墓所に向かうことに・・・。

おそらく、ルート上には足を踏み外さないためのものがあったりするだろうと言うことで・・・

高いところまでは登らず、歩きやすそうな道をチョイスして歩いてみました。

実際には、ちょっとだけ登って、すぐ右に曲がって、平らな道を歩きました。

 

 

そのチョイスが正解でした。

このような場所に着きました。

 

 

こちらが源希義のお墓と言われる無縫塔です。

ちなみに、あとで現地の方と言葉を交わす機会がありましたが、現地の方はここのお墓のことを「希義様」と呼んでいました。

 

 

そして、希義を祀った希義神社です。

 

 

実は、この辺りはもともとはお寺であり、西養寺跡とされています。

介良荘の琳猷上人は、平家の目を恐れて葬儀もされずうち捨てられていた希義の死体を引き取って供養したそうですが、後に鎌倉幕府より寺領を与えられ、西養寺を建立したそうです。

でも、近世に衰え、明治の廃仏毀釈によって廃寺となってしまいました。

石垣がお寺の名残りのようです。

 

 

 

しかし、この日に関東に帰るのに、こんな不便なところまで来てしまって・・・

ということで、今回の高知観光はここまでで終了しました。

ちなみに、ここから1kmくらいのところにバス停があり、高知駅方面に向かうことが判明したので、時間に余裕をもって帰ることができました・・・

(;´・ω・) ふう~・・・。

 

 

 

 

<オマケ>

昨年11月末に、鎌倉の頼朝のお墓に行きました。

 

 

頼朝のお墓の横に、このような看板があり・・・

希義墓の土と石を頼朝墓に持ってきたと書いてありました。

それと反対に、頼朝墓のものも希義墓に置いたそうです。

 

源氏将軍の運命は、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で見た通りですが・・・

同母弟の希義が生きていたら、頼朝のその後も違っていたのでしょうか・・・。