源頼朝(1147~1199)・・・
鎌倉幕府初代将軍。
源義朝の三男、母は熱田大宮司季範の娘、妻は北条政子。
平治の乱後の処分で、伊豆蛭ケ小島に配流。
治承4年(1180年)平氏打倒の兵を挙げ、石橋山で大敗するが、安房に逃れて勢力を拡大、鎌倉を本拠として東国を支配する。
源義仲、平氏、奥州藤原氏を滅亡させて、建久3年に征夷大将軍となり、我が国初の武家政権を樹立した。
11月末の平日鎌倉日帰り旅の続きです。
源頼朝の邸宅であり、鎌倉幕府初期の政治の中心であった大倉幕府旧蹟(大倉御所跡)の碑を見た後・・・
その北方に歩いていきますと、法華堂跡との碑が見えます。
この碑の後ろには、白旗神社という神社があります。
御祭神は源頼朝。
この辺りは、もともと頼朝邸(大倉御所)の北隅にあたり、持仏堂があったようです。
死後、頼朝はその持仏堂に葬られ、持仏堂は法華堂と呼ばれるようになったそうです。
江戸時代には鶴岡八幡宮の供僧・相承院によって祭祀が行われていたそうですが、明治の神仏分離令で法華堂は撤去され、代わりに白旗神社が建立されたそうです。
白旗神社の前に階段があります。
階段を登ると、平場になっており、源頼朝墓と言われる層塔が建っています。
安永年間(1772~1781)の薩摩藩主・島津重豪が整備したものらしいです。
従来建っていた小さな五輪の塔に代えて、勝長寿院(頼朝が父・義朝を弔うため建てた寺)にあった層塔を移したといわれているそうです。
平成元年に一部破損されたため、現在のものは修復されたものになります。
ちなみに、島津氏では、その祖・忠久が頼朝の落胤であると称しており、そんなこともあって整備したようです。
その塔のある平場が法華堂があったところと推定されているようです。
そうそう、頼朝墓の囲いの外に玉石がありますが・・・
頼朝の同母弟の源希義の墓所の土と石を持ってきたものらしいです。
希義は、頼朝の挙兵直後に平家方によって殺されてしまったようです。
生きていれば、同母弟なので、義経・範頼のような目にはあわなかったかもしれませんね。