【と】土佐日記(とさにっき) ;土佐旅行記⑬ | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

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特にテーマもなく、徒然なるままに書き綴ってます。

土佐日記・・・

紀貫之が土佐守の任を果して、承平4年 12月 21日任地を出発、翌年2月 16日京都へ帰着するまでの55日間の旅を記した紀行文で・・・

紀貫之が女性に仮託して書いたものとされている。

でも、実際には確証はない。

現在は一般的に『土佐日記』と書かれるが、信頼にある古写本などには『土左日記』とあり、古くは『土左日記』と表記されていた。

『土左日記』は、当時は実際に「とさのにき」もしくは「とさのにんき」と発音されていたと考えられる。

 

 

 

 

 

 

1月下旬の高知の旅・・・

最終日は、JR後免駅からタクシーを使用して土佐国分寺跡を訪れ・・・

遠くないところに紀貫之邸跡があると言うことで、待たせたタクシーを使用して行ってみました。

 

 

行ってみますと・・・

庭園風な公園になっていまして・・・

 

国司館跡とか紀貫之邸跡などと書かれた看板や・・・

 

土佐日記の碑など・・・

 

いくつかの碑が設置されていましたが、遺構らしきものはありませんでした。

実際に紀貫之に関連する遺構は発見されていないようで・・・

この辺付近に「内裏」という小字名が残っていることと、天明5年(1785年)に国学者・尾池春水によって紀氏旧跡との碑が建てられたことで、紀貫之邸跡としているようです。

 

ちなみに、公園の周辺は耕作地となっていますが、この辺り一帯が土佐国衙跡と考えられているそうで・・・

実際に、柱穴や硯などの遺物は見つかったようです。

ただ全体的な配置などを確定できるまでではないようです。

 

 

 

この後、タクシーで路面電車の駅である後免町駅へ向かい、そこから路面電車で舟戸停留所まで移動しました。

その停留所の近くに、ちょっとしたモニュメントがあります。

 

紀貫之と土佐日記の説明をしたモニュメントです。

 

実は、近くに川があり・・・舟出橋と呼ばれる橋もありまして・・・

紀貫之は、京へ戻る時にこの辺りから船出したようです。

 

現在は鴨も泳ぐような川ですが・・・

昔は付近一面に大きく広がった浦戸湾が内海をなしていたようで、土佐国府と都を結ぶ重要な場所だったようです。

 

 

 

紀貫之の土佐日記スポットを2か所回りましたが・・・

まぁ、邸宅と言われているところも・・・

船出の地と言われているところも・・・

当時の雰囲気を伝えるものがないので、何とも言えないですね・・・。

 

せっかく、今回の旅の前に土佐日記を読んだのですが・・・。

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