御鐘ノ台の「からたちの花の小径」を歩く | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

旧小田原城の「御鐘ノ台大堀切 西堀」を見た後は 御鐘ノ台 を歩いてみました。

西堀の土塁を 南へ下ります。

ここも遺構の一部、かな?


で、この土塁に囲まれた曲輪・・・っぽい所の南へ(杭の間を通って・・・)車道へ抜けると_

説明板がありました。

(↑「小峯 御鐘ノ台大堀切西堀」/ この場所には、箱根外輪山から続く尾根を断ち切るように築かれた三本の堀切(小峯御鐘ノ台堀切)のうち、一番西の堀がありました。現在はその大半が埋め立てられていますが、北側には空堀と土塁が良好に残っています。」)

道脇に「御鐘ノ台(オカネノダイ)」の町名標。



御鐘ノ台、は (私達が今立つ)大堀切の西に張り出した 横にひょろ長い高台の事。名称については 「小田原攻めの時、この地に陣鐘が置かれていたためといわれている」そうな。

地名標の横には「からたちの花の小径」と刻まれた石板が。

(↑小田原に住んだ著名人の一人 北原白秋の「からたちの花」は この小径から誕生したと言われています。石の右肩に載るミミズクは 白秋を示すアイコンの一つ。(貧しかった時代の北原夫妻が暮らした家「木菟(ミミズク)の家」に因んでいます))

では からたちの花の小径を歩いて 御鐘ノ台を横断しましょう。
(↓振り返ったところ。)

(↑この先で 小径は旧中堀に合流しています)
(↓西へ向いて、 改めて れっつごー です。)


少し行くと 右手に荻窪へ下りる道がー。


(↑この先も 先日歩いております。 そのうちその折の写真も貼りましょう。)
↓今回は 直進します。

緩やかだけど 上り坂、です。

左手に土塁。


土塁の高さまで上がるとー


「不法投棄は犯罪です」という立札が ばばん と打ち込まれていました・・・

反対側のフェンスには_
↓「ハンターのみなさん!」という注意喚起のプレート。

↓しかし カトリック墓地の塀には、

↑「←10m 総構(ソウガマエ) 香林寺山(コウリンジヤマ)西(ニシ)」の文字。
行ってみようか・・・と思いましたが_

がくん、と落ちる地形_。

一応道はついてましたが・・・
くじけて辞めました^^;)

↑でも 高低差 は大きそう、だとわかりましたよ。
↓改めて見る 土塁_。


墓地の前を通って 引き続き西へ。




両脇の木々が迫って トンネルになってる場所があります。


こここそ 「からたちの花の小径」のハイライト。


トンネルの西の出口にー

からたちの木が・・・

ええええ”ーっ

そ・・・ そんなー

_と思ったのだけど、

ああ、よかった 枯れた木もあるけど 命を繋いでくれている木もあった^^)

♪からたちの花が~  咲く頃 又見にきたいなー。


からたちの木、 を過ぎるとー

白秋が愛した景色「野外劇場の観客席」が見えてきます。
(↓市街地の向こうには曽我丘陵 その奥には丹沢の峰々。)

(楕円の未来的な建造物は「佐伯眼科」。その右のビルは関東学院大学の一号館です。)

(↓右に目をやれば相模の海。)

(↓左の斜面地はまるで「ホビット庄」)

(↓そのバックは箱根の外輪山。)


_と そこに 説明板。

左の物は 白秋の愛した景色について_。


右の物は「水之尾口(ミズノオグチ)櫓台(ヤグラダイ)」について。

↑右上の図には 天正18年(1590)の小田原攻めの時の 豊臣方の陣営も書き込まれています。 / 御鐘ノ台は 元々は外郭に含まれていませんでしたが 豊臣側に渡せない場所として 包囲戦前に急遽 総構の内にとり込んだ場所。 現在地 御鐘ノ台の西の端 には 敵陣の動きを知るための櫓が建てられていたようです。
↓パネル右下の写真は 関東学園大学の構内(2号館あたり)から出土した遺構「荻窪(オギクボ)仕寄(シヨセ)陣場」。北条方の出城、だそうです。 場所は上の写真でいうと関東学院大学の一号館横、になります。

(↑尚、この遺構は 今は埋め戻し をされているそうなー)

さて、この説明板の向かいはー
現在は茶畑です。

お茶の木には 黒い覆いがかけられています。

↓「農林水産大臣賞受賞」の「被覆茶栽培モデル園」だそうよ? (よ よくはわからないのだけど すごいみたいですね?)

さて、道からの写真では茶畑の広さ お伝えしにくいのだけど、

↓グーグルマップで見ると こんな感じ。

↑左下の 鳥の目のように見える場所ー
↓ココ です。

(城山の競技場のトラックの中のグリーンの半分 位、でしょうか?)

で、ココが御鐘ノ台の「水之尾口櫓台」があった場所 と推定されている、そうですよ。

説明文_「天正15年(1587)、小田原北条氏は豊臣秀吉の来襲に備えて、小田原城と城下を周囲9kmにわたって 堀と土塁で囲んだ、 総構(ソウガマエ)を築きました。
 この場所は総構の最西端に位置し、標高120mの最高地点であり、箱根山からの尾根伝いの攻撃を防衛する位置にあたります。
 豊臣方の毛利家に伝来した「小田原陣仕寄陣取図」などには、海・陸から小田原城を取り囲む豊臣郡の布陣や 北条方の守備の様子が描かれています。
 また、この図からは、総構に沿って矢来(ヤライ / 竹や木を組んで作った粗い囲い)が巡り、矢倉(櫓)が至るところに建ち並んでいたことがわかります。
 一方、豊臣秀吉は、ここからおよそ2km先の笠懸山(カサカケヤマ)に関東で最初の総石垣の 石垣山一夜城 を築きました。石垣山城は、標高260mの山上に位置し、眼下に小田原城の守りを見下ろせたことから、石垣山の築城が小田原合戦終結の決め手となりました。」 だそうです。


↓総構における位置。

↓残されている絵図。

しかし あれれ? てっきり櫓の絵が描かれているのかと・・・

↑これは 包囲網、ですね。 / でも興味深い。今まで総構の西の御鐘ノ台 が最も警戒したのは 板橋の小山の上に築かれた富士山砦(=早川口松山。元は北条の出城だったが細川忠興(=長岡越中)らに奪われた、そうな。)だと思っていたのですが、 左の城のアイコンに書かれている「備前宰相殿」は宇喜多秀家の事なんですって。(他の布陣図を見ると宇喜多秀家の陣は富士山砦を尾根伝いに下ったあたりに描かれています。)/ 富士山砦は高い位置にあった というだけで 陣としては宇喜多氏のものの方が大きく重要だった、のかな? ちゃんと本とか 読まなくちゃ^^;)))/ にしても すごい包囲網。籠城組の方も大変だったでしょうが 包囲してる側の兵站、衛生施設・・・ 考えるのよしましょう・・・


下ります。




見慣れた場所に出ました。

(↑おだあつ に乗る時通る道です^^)
この車道を東へ歩くと 「三の丸外郭 新堀土塁」のある十字路に着く~ んですねー。


今回の散策は ここまで。