海津大崎(カイヅオオサキ)緑の頃^^;) | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

話は更に遡って_
滋賀の海津大崎の絵を貼ります。(余呉湖で鰻食べた後 寄ったんですねー)

海津大崎ったら 桜の名所、だそうなのだけど、
行ったのGWなのでー

こんな感じでしたよー。


青葉の頃も素敵ですけどね。

少し町も歩いてみました。


あ、湖(琵琶湖)へ下りる道がある。



左は旅館+カフェ「四季亭」。


正面。

右はショップ。「古道具 海津」。



石垣に守られた町なんだー。

引き返します。


山側はこんな感じ。


湖の縁を走る道を マキノ駅の方へ歩きます。

ここからも湖に出られそうー。

行ってみると ワンコがいた。

「あっしも混ぜて下さいよう」と 寂しそうに きゅーきゅー 鳴くワンコの目線の先には ご主人様達?



通へ戻ります。

酒屋さん。(吉田酒造)

竹生嶋(チクブジマ)ですって。


その先には鮒ずしの「魚治(ウオジ)」。


更に行くと_

福善寺、という大谷派のお寺がありました。


その向かい、湖側には金色のお寺の様な建物。

海津迎賓館 と書かれた札が門の柱に。

旧・井花邸、だそう。

迎賓館の脇からも湖へ下りられました。

西に海津大崎の港が見えました。

東を向くとー


↑水の中に杭が並んでいるのが見えました。船着場跡のようです。

行ってみましょう。

少し引き返すと、(来しなには見落としていた)説明板がありました。

↑「旧海津港跡 / 海津港の開港は明瞭ではないが、平安末期の『源平盛衰記』鳥羽天皇御代 に藤原仲実が越前守に任ぜられ 海津に立ち寄った時「かいつの里」という言葉のついた歌を詠んでいる。
この頃より海津港が発展し始め、 特に豊臣秀吉の頃大谷吉隆によって中村と中小路との間に船の出入りをする川を掘って以来、大津に次いだ大きな港として発展した。
海津東浜は江戸時代には北陸と大津を結ぶ重要な港場であり宿場町として大いに栄えた。
明治3年(1867)郡山藩 (←マキノは大和郡山藩の所領だったんですね) の許可を受けた磯野源兵衛と井花伊兵衛らが共同して蒸気船を購入し、大津~海津間の航路を開いた。
これが太湖汽船 琵琶湖汽船の母体となった。その桟橋は杭のみを今に残している。」
へ~~~っ!
(文中にある井花さんは さっき見た迎賓館の元の所有者、かしらー?)

水辺へ向かいます。


おおー これがー 旧海津港桟橋跡・・・


勢いで、江戸時代に掘られたという川へも行ってみました。

(↑少し東の 湖に向かって石が並んでいる所が川口です)

ここから船を入れたんですね?

近くに説明板がありました。


(↑さっき読んだ説明板の「中村と中小路との間に船の出入りをする川を掘って~」という川が「中ノ川」って事かな?)
↓橋の奥に船溜まりがありました。

↑荷の積み下ろしが行われたであろう雁木も残っています。

車で通っただけでは気づけなかった 滋賀の歴史に触れられて よかった~。 と思った事でした。

この後は、
マキノ高原のメタセコイヤの並木を見、


今津のヴォーリズ史料館(旧・百三十三銀行今津支店)を見学しました。








テンコモリ、の旅でした。/ おしまい。