思ひ出すこと~最終回~
まだ二十歳に満たない3人の男達が、何を話しているのかわからないが、チャーイ屋のすぐ隣にある雑貨屋にいた女性に話掛けていた。気だるさが逆に可愛げに見える、こじんまりとしたネパールの女性である。1人の男がその女性に対し好意を持つのか、話し終えると残りの2人の男から肩を突付かれ、それが照れくさいのだろう、ややオーバーに顔を両手で覆い、飛び跳ねるように体を仰け反らせる。その一団がきゃきゃっと、はしゃぎ、満足気に俺の前を通り過ぎる。2人から小突かれながらも、その男の、威風を失わない後姿があった。
安堵感とも親近感とも似た感情が、スコンと胸に落ち、俺は思い切れるこの予感を逃すまいと横を見た。すると、横には、扁平としたチベット系の懐かしい顔、トピーという民族帽を目深に被ったネパール人が、俺と同じように長椅子に腰掛け、くつろいだ様子でチャ―イとともに煙草を吸っている。俺は思い切った。へろっと、そのネパリに軽~く挨拶し、持っていたマルボロとネパリの吸う煙草を交換するよう、交互に煙草を指差した。俺の意図が通じたらしく、トピーは吸い差しのタバコを差し出してくる。俺は仰け反るようにして、大仰に煙草を吸い込み、ネパリをちらと見遣る。すると、そのネパリは、世慣れていない、ぎこちない暖かい笑みを、俺に向けていた。俺も同じように笑い返す。
ククリという現地の煙草は、甘ったるく、そして、重く苦い、靄がかったぼやけた味であった。が、しかし、俺にとっては、モノクロのネパールの風景を思い出す、生涯忘れることのできない最高の後味となる。俺は、何も動こうとしなかった、殻にひたすら引き篭もった、劣等感に満ちた、冷笑的になることで弱さをひた隠しにした、群れることでしか偉そうになれなかった、異質を嫌悪し恐怖し脅えていた俺自身の、惨めな或る日本人の群像を、一定の距離をもって眺められるようになっていた。2月の、異質を呑み干したひどく寒い夕暮れ。それは俺の、正しい未知の道で――であった。
ウズベキスタン大統領・イスラム=カリモフとは??
中央アジア・ウズベキスタン東部で大規模な反政府運動が13日未明より発生し、混乱が続くなか、ウズベク政府による厳しいメディア統制で事件の詳細な情報が日本までは伝わってこない。政府当局によると武力鎮圧による死者の数は169人と発表(市民の死者はゼロと主張している)される一方で、露誌イズベスチヤによると、ウズベク野党「自由農民」による独自個別調査でアンディジャ=542人、パフタアバド=203人、計745人にも上る、とも報じられている。
強権政治をしくと言われるカリモフ大統領の人物像を追った。
~以下、BBC5/17を引用~
ウズベキスタン大統領・イスラム=カリモフは中央アジアにおいて、最も独裁的なリーダーのうちの1人で、旧ソ連時代の遺物を多く引き継ぐ、抑圧的な政権運営を行う、とされる。
ウズベキスタン・サマルカンド(チムール帝国の首都であった)で1938年に生まれ、大学でエンジニアリングと経済学を学ぶ以前は、ソビエトの孤児院で育った。彼は当初、航空エンジニアとして勤務し、その後、エコノミックプランナーに転身した。
1989年、ウズベキスタンで共産党第一秘書官に。1991年12月ウズベクの独立とともに大統領に選出される。だが、Human Rights Watchによると、この選挙自体がいわくつきの選挙だったようだ。
1995年の議会で任期をさらに延長し、2000年1月再選されたが、国際社会は再度、この選挙の公平性に懸念の声をあげた。
状況は2004年12月の議会選挙でも改善されず、その選挙で、カリモフは野党の参政を禁じる措置をとっている。カリモフ政権は現在、2007年まで任期が延長されている。

・1938年生まれ
・妻・Tatianaと結婚し、現在2人の娘をもつ。
・1989年に共産党トップとして実権を握る。
・1991年ウズベクの独立とともに大統領に。
・2000年に再選。国際オブザーバーから「選挙は不公平」と断じられる。
・多くの反体勢力を駆逐する独裁政権を組織。
~以上はBBCを引用~
ウズベク国内の反政府組織・IMT(The Islamic Movement of Turkestan)が1999年にタシケントで起こしたとされる爆弾テロについて、国際テロ組織・アルカイダとの関係が取り沙汰されるだけに、カリモフの厳しい弾圧を、テロに対する取締りとも、読み解くことができる一方で、アメリカが進めるテロとの闘いに便乗した強権化ともとれる。だが、現段階では、今回の混乱がカリモフの道程を見ていくほどに、カリモフによる強権化に対する反発の色合いが濃い、との印象を受ける。
宗教のモザイク地域であり、イデオロギー対立(共産対自由)など多くの断層を抱える中央アジア地域が、現代における火薬庫であることに変わりはなさそうだ。
思い出すこと 6
ゲストハウスを出発したが、戻れなくなると困るのでゲストハウスの周囲をぐるぐると周回し、猫のスタイルで徐々に半径を広げていく。通りには、民芸品を売る土産物屋が建ち並び、「リクシャ」という人力車と牛が道幅を占拠する。人々は何をする訳でもなく通りに溢れ、活気があるように思えても良いはずなのに、皆、陰鬱な険しい顔をしているせいか、こちらも気分が晴れない。建物の壁が一様にくすんだレンガ色をしているせいもあるのだろうか。空港でのように、声を掛けてくることやお金を要求してくることもない。ただ、俺を一瞥し、すぐに視線をそらす。
祠のようなものがある三叉路を右折すると、ナーシンゲートストリート沿いに、チャーイという独特のミルクティーを売る一軒があった。重そうな鉄製の鍋を高く持ち上げて、100ccぐらいの陶器の椀にチャーイを器用に入れる主人の姿がある。髭のネパール人が寄り合いみたいに屯している。俺は2ルピーでチャーイを買い、店の前に無造作に置かれた木の長椅子に腰掛けてチャーイをすする。そして、通りを行き交うネパール人をただ眺めることにした。
遠くの方から響いてくる、ビィービィーというクラクションの音が耳障りだ。ここの人達はすぐにクラクションを鳴らすので、四方から間断なく音が聞こえてくる。わざわざ狭い道を通っては、人や牛やリクシャに対しクラクションを鳴らすのだ。歩行者優先なんて概念はないんだろう。気になるのは、男同士の距離が不気味なほど近いことだ。陰鬱な影を帯びながら、並んで手を繋ぎ、歩く。腕を組んで歩く者さえいる。すべてのネパール人が男色家という訳ではないだろうと思うが、しかし、男色の文化がこのヒマラヤの麓で脈々と受け継がれているとも限らない。俺は、恐らくカルチャーショックを受けているのだろう。なにもかもが日本とは違いすぎるのだ。ネパールの風景だけでなく、俺自身の頭もやや霞んでいる。
思ひ出すこと 5
ホテル・タシ・ダルゲイという安宿に着いたのは、既に午後3時前であった。まだモノクロのひどい夢のなかにいるようである。どうしたらいいのだろう。ここからインドへどのように行くのか。ここは結局どこなのだろう。デリーへちゃんと行けるのだろうか・・・・・行けないと日本に帰れないが、なにもわからない。日本人旅行者が手足を切られ、だるまのようになって見世物にされるという悪い噂話を思い出した。不安と焦燥だけが、胸に張り出してくる。ベッド脇のオレンジ色の薄灯り以外は部屋に殆ど光が射し込まない。澱のように赤黒い絨毯の、黴が乾燥したような慣れない臭いが篭っていて胸を悪くさせ、胃が収斂する。寒さが脊骨に響き、風邪の前兆を思わせる悪寒が体を震わせた。だが、部屋には居ても立っても居られない心境だった俺はともかく、気持ちが乗るわけでは決してなかったが宿を出てみることにした。