かつての山陰本線京都口普通客レが

ボロカスに言われていた件

山陰本線京都口で普通客レが嫌われていた件

(及び山陰線電化が一般の方の悲願であった件)

(私の経験)

【投稿日 令和6年1月24日】

 

※今回は主に私自身の記憶や経験に基づき記載しており、私見・個人的見解を記載している箇所もたくさんあります。

※個人名や勤務していた団体名は記載していないため、守秘義務違反にはならないと考えています。

※〇〇による女性蔑視発言?に関する記載あり?

 

 

 

1 はじめに

(1)参考 かつての山陰本線京都口普通客車列車

※昭和60年(1985年)3月ダイヤ改正前までの山陰本線京都口では、DD51牽引の旧型客車と50系客車が多数運行されていました(つまり普通客車列車王国)。

 

<私のツイートのスクショ1>

※返信等については下記3のツイート参照

※旧型客車については#347等のブログもご参照ください

 

※昭和61年11月から昭和63年9月の山陰本線京都口は、多数のDD51牽引の12系普通客レと多数のDD51牽引ん50系普通客レが運行される普通客車列車王国でした。(詳細は#398、#248、#197等のブログ参照)(昭和63年10月以降は別記参照)

 

(2)今回のブログ

 私が小学生・中学生の時(昭63年度以前)、私自身は普通客レが多く運行される山陰線京都口の方が良いと思っていましたが(普通客レの方が心地よいと思うため)、一般の人は1日も早い山陰線京都口電化を強く願っていて、普通客レを嫌っていました。今回は私自身が小学生・中学生の時等に経験したこれらのことについて記載します(暗い話、マイナス思考の話で、旧型客車ファンや普通客レファンにとっては気分が悪くなる内容かもしれませんが、一度まとめる必要があると思いました。また、私自身も口丹地区出身者であるため、口丹地区出身者としてまとめる必要があると思いました)。

※【個人的事情】私は、昭和60年3月は小5学年末で昭和63年9月は中3。

 

 

 

2 私自身の経験(個人的事情)

 普通客車列車王国時代(昭63.9以前)の山陰本線京都口について、普通客レの方がはるかに心地よいと思っていたため、私は電車よりも普通客レの方が良いと小学生の時から思っていたのですが、一般の人は1日も早く電化して欲しいと思っていました。そのうえ、当時の普通客レ王国時代の山陰本線京都口普通客レは一般の人から何らかの形で嫌われており、私はそのことを小学生・中学生の時に何度も経験し、社会人になってからも何度も経験してきました。「普通客レ王国時代の山陰線京都口の方が良かった」旨言ってボロカスに言われる経験も何度かしています。詳細は次の通りです(この中には、以前のブログで記載済みのものもあります)。

普通客車列車王国時代(昭63.9以前)

の山陰本線京都口に関して

<私自身の経験等>

(令6.1.23まとめ)

 

 私が小学生・中学生だった時及び社会人になってから経験したことを元に、かつての山陰線京都口普通客車列車が一般の人から何らかの形で嫌われていたこと等を記載します。

 

(1)ドアが開いたまま走行する等の理由でかつての山陰線旧型客車を非難したり嫌ったりする人々等

・小2の時(昭56)、私が「(DD51牽引の旧型客車がなくなるのはイヤだったため)山陰線電化反対」と拳をあげて言ったところ、父は爆笑し母と祖母は「山陰線は早く電化してもらわな困る」「茶色いやつ(山陰線旧型客車)はさっさとなくなってほしい」と不快な表情で言った。

・小学校の時、親戚が集まったり地域で集まったりしたとき「山陰線京都口のDD51牽引の旧型客車等罵倒&山陰線電化遅延罵倒&道路整備遅延罵倒&蜷川革新府政罵倒大会」みたいになることが多々あった。特に、ドアが開いたまま走行する手動ドアの旧型客車が激しく非難されることも多々あった。⇒「普通客レの方が良い、電化すると客レがなくなるので電化しない方がよい」と言っても聞いてもらえず、「早く電車に変わってほしい」「ニナガワ(蜷川元京都府知事のこと)のせいで電化がおくれた」等と私以外の人は全員口をそろえて言った。

・タバコを吸わない母親や祖母と旧型客車に乗車した際、男性客はみんな旧型客車車内でタバコを吸うから早く電車に変わってほしいと母親や祖母はほぼ毎回怒っていた。

・上記以外の場でも、山陰本線京都口の普通客レについて、手動ドアが開いたまま走る旧型客車や停車時にホームから外れる車両が生じる客レをボロカスに言ったり、かつての蜷川革新府政への批判とセットで叩きまくる人もいた。また、「とっとと電車に変わらんかい」等と怒り出す人もいたと記憶。

・手動ドアが開いたまま走行するかつての山陰線京都口旧型客車に関して、列車の発車直後に手動ドアに飛び乗ったり、到着直前に手動ドアから飛び降りて足をくじいた、等と手動ドアで遊びまくった旨の話を聞いたことがある。手動ドアで遊びまくった人が出たことは、山陰線電化を一般住民が強烈に求める原因のひとつになった、という話も聞いたことがある。

・小5の時(昭和59年)、子供だけで旧型客車に乗って亀岡に行った子供数人が先生に呼び出され、子供だけで旧型客車に乗って亀岡に行ったことについて担任の先生に激しく叱られているのを見たことがある。

・平成13年頃、結婚相談所のスタッフが、かつての旧型客車について、デッキまで満員の状態で、デッキに通勤客がたくさんいるにもかかわらず、保津峡渓谷をドアが開けっぱなしの状態で猛スピードで走り、今にも人がドアから保津川に落ちそうな状態で走っていたと激怒。⇒私が「旧型客車の方が良かった」と言うと、その話は打ち切られた。

・通勤客で非常に込み合っているかつての山陰線京都口旧型客車のボックスシートに強烈な悪臭のする魚?が入った入れ物をどんとおいて、通勤客でごった返しているにもかかわず4人掛けボックスシートを一人で使っている男がいたと、元公務員が怒りながら話していた。

 

(2)旧型客車廃止後も山陰線京都口普通客レを嫌う一般の人

・昭和60年3月ダイヤ改正で山陰本線京都口から旧型客車が消滅した後も早く電化して欲しいという話や普通客レの悪口(喫煙、スピードが遅い等)を何度も聞いたことがある。また、所要時間がかかりすぎていたため、山陰線京都口の普通客レが嫌われた旨の話を聞いたことがある。

・当時、山陰線ではなく車で京都に行く口丹地区一般住民が非常に多かった。また、「山陰線の汽車(特に普通客レ)より車の方が早くて便利だから、車で行く」旨話す人がたくさんいた。

・昭61.11~昭63.9の山陰本線京都口で運行された12系普通客レには冷房が完備されていたにもかかわらず、私の周りの人は誰も評価しなかった。通学等でこれを利用していた、私にとって上級生にあたる人(いとこ含む)等も「どれでも一緒やん」「電化した方がいいんちがう?」と思っていた。

・高校1年の時(平成元年)、私が「乗り心地が良いから、赤い機関車が引っ張る青い客レ(具体的には当時のJR嵯峨野線12系普通客レである322レ。下記参照)で来ている」等とクラスメートに話したら「どれでも一緒やんか」等と言われ、「前は旧型客車が走っていたからもっと良かった」等と私が言うと「もっと昔に生まれたほうが良かったんとちがうか?」等と言われた。

・大学1年の時(平成4年)、手話サークルの先輩が電化後の山陰本線京都口について「ものすごく便利になった」と発言され、私が「普通客レの方が良かったと思う。普通客レが無くなったのはショック」である旨言うと「それは寂しいな」という反応が出たが結局「電化後の方が便利でよい」という結論になった。

 

(3)選挙

 政治家は、選挙のたびに、山陰線電化と京都縦貫自動車道整備を強力に訴えた。どの候補も、必ず「山陰線電化」と「京都縦貫自動車道整備」をセットで何度も選挙カーや選挙演説等にて訴えた(特に自民党内戦後保守)。その時「普通客レの方が良い」と言いそうになったが、怖くて候補者に言うことができなかった。

 

(4)平成元年3月4日のあいさつ

・山陰本線複線電化促進協議会会長(八木町長)は、「山陰線京都口電化が口丹波の本当の夜明け」である旨等のあいさつをされる(平元.3.4)。

 

(5)山陰号を非難する元京都府職員等

・元京都府職員でかなり地位の高い上司(戦後保守)が、「(かつての山陰号に乗って)居眠りをして目を覚ましたら和知まで来ていた」と来客者に激怒していた。

・父から、「山陰号で居眠りをして気づいたら余部鉄橋を渡っていた」と激怒している人がいる旨の話を聞いたことがある。

 

(6)「終電が遅くなる」と出雲号を非難する一般の人

・私の前の職場で、平成9年、飲み会のため夜遅くのJR二条駅で職場の人と電車を待っていた際に寝台特急出雲2号が通過し、「あ、出雲や」とはしゃいで言ってしまったら、年下の女性職員から「これはあかんね」等とボロカス言われた。そして、かつての山陰線普通客レが心地よかった旨話すと火に油を注ぐことになり「こんなん(出雲号のこと)があるから終電が遅くなるんや」等と寝台特急出雲号やかつての普通客レについて私以外の人はボロカスに言って怒った。⇒豊岡以西では、少なくとも出雲については愛されていたようですが、当時、口丹地区では出雲号は一般の人に嫌われていた。

 

(7)〇〇による忘年会での反出雲&女性蔑視発言?

 平成12年12月、当時私が勤務していた職場の忘年会で、山陰線京都口の普通客レを求めて寝台特急出雲や寝台特急あかつきに乗りにいっている旨私が話したところ、元京都府職員で地位がかなり高い上司(戦後保守)は「音は(電化後の)山陰線で聞ける。出雲なんかに乗ってる暇があったら風俗に行って男を上げてこい(あくまでこの元京都府職員の忘年会での発言要旨)」等と激怒した。

 

(8)その他1

・私の中学校の卒業アルバム(平成元年3月卒業式)の中の青函トンネル開業関連ニュースの欄に掲載された写真について、485系電車の特急はつかりの写真が掲載された。⇒つまり、当時全国的に注目された快速海峡(かつて山陰本線京都口で使用された50系客車も使用)ではなく485系電車の写真が掲載。

・保津峡新線開業の地元テレビ局のニュース(平成元年3月)で、旧線の美しい景色の話やSLの話は出たが、DD51牽引の客車列車については全く言及されなかった。

・『40年のあゆみー八木町合併40周年記念』(八木町)(八木町役場総務課編、1991年3月発行)の昭和26年のページには、「待望のディーゼルカー」と記載

・昭和42年の八木駅の写真について、当時はSL牽引客車王国であるにもかかわらず、キハ20系気動車の写真が『図説丹波八木の歴史 第4巻 近代・現代編』(平成25年3月31日発行)等に掲載

・当時、「八木町報大堰橋」(昭和54年12月号)に掲載された玉ノ井付近の写真がキハ58系気動車

・あるYouTube動画のコメントの中に、非冷房の50系客車について「赤いのが来たら(冷房がついていないため)腹がたった」というコメントがあった。(詳細について今回は記載省略)

・『図説丹波八木の歴史 第4巻 近代・現代編』(平成25年3月31日発行)には、園部電化の時期について、実際に開業された時期(平成2年3月)ではなく、当初の完成予定時期が記載されている。

 

(9)その他2

・昭和63年10月1日ダイヤ修正による山陰本線京都口普通客車列車大幅削減は突然の出来事

・JR嵯峨野線12系普通客車列車最終日(平成2年3月9日)⇒JR嵯峨野線最後の12系普通客車列車である平成2年3月9日の322レについても通常通り運行され、特別なことは何も実施されなかった。

・園部電化初日(平2.3.10)、園部駅や亀岡駅で大々的に式典が開かれ、花束贈呈等も実施された。翌日(平2.3.11)、八木駅でも式典が大々的に開催。しかし、平成2年3月9日については上記の通り何も行われなかった。

ギザギザ
 
※上記のことについて下記3及び下記4等参照
※上記以外については記載省略

※かつての山陰本線京都口普通客レが嫌われていたことについて、#381や#390等のブログ、#㋐48や#㋐55等のブログでも記載。

※#390等のブログでは、居眠りをして和知まで行ってしまった元京都府職員等の話も記載。

※かつての山陰線普通客レが嫌われた原因のひとつが、旧型客車の手動ドアであったため、#381のブログでは、令和5年の大井川鐵道普通客車列車ではきちんとした安全対策が講じられている旨言及。

※#㋐48では当時の山陰本線京都口の旧型客車に乗ることを事実上禁止する小学校の校則についても言及し、#288等のブログでは山陰本線京都口の普通客レに乗ることを事実上禁止する中学校の校則についても言及。#㋐55のブログでは山陰線京都口電化を強力に推進してきた町長や上司を熊本県水俣市湯の児温泉で私が激怒させ、それがかつての山陰線普通客レに強くこだわる原因のひとつになった旨記載。#233では、保津峡新線開業時の当時の地元テレビ局の放送等について記載。

※平成2年3月の園部電化については、#99のブログで記載(下記4参照)

 

 

 

 

 

 

 

 

<参考>山陰本線福知山〜城崎間の方が先に電化⇒山陰本線電化に関しては、いわゆる口丹地区(亀岡市、八木町、園部町)よりも夜久野町や福知山市の方が早かった(城崎電化は昭61.11、園部電化は平2.3)

<参考>平成元年3月~平成2年3月のJR嵯峨野線(山陰本線京都~園部間)には、1日2往復だけ12系普通客レが残っていました。詳細は#190等のブログ参照。

 

 

 

3 X(旧Twitter)情報より

※最近ツイートのリンクをコピーの方法ではうまく写らないことがあります。うまく写らない場合はURLをクリックしてください。一部スクショで対応しています。

(1)かつての旧型客車(及び旧型客車手動ドア)

 

<引用>(昭60.3まで山陰線京都口で旧型客車が残っていた件)

※ツイートのリンクをコピーの方法で引用

 

 

<引用>(旧型客車の手動ドアが開いたまま走行した件等)

※ツイートのリンクをコピーの方法で引用

 

 

<引用>(旧型客車の手動ドアが開いたまま走行した件等)

※引用リツイートのうえ、ツイートのリンクをコピーの方法で引用

 

 

<引用>

※ツイートのリンクをコピーの方法で引用

 

 

 

<引用>

※引用リツイート等のうえ、ツイートのリンクをコピーの方法で引用

 

 

 

<引用>

※引用リツイートをスクショで引用。(スクショでないとうまく表示されない場合があるため)

※これについては、下記4もご参照ください。

 

 

<引用>

※引用リツイートのうえ、ツイートのリンクをコピーの方法で引用

 

 

<引用>

※引用リツイートのうえ、ツイートのリンクをコピーの方法で引用

 

 

<引用>

※引用リツイートのうえ、ツイートのリンクをコピーの方法で引用

 

 

 

(2)旧型客車廃止後

 昭和60年3月ダイヤ改正で山陰本線京都口の旧型客車が廃止された後も、一般の沿線住民(特に口丹地区)が普通客レを嫌っていることを私は経験してきました。

<参考>

<引用>(山陰線京都口普通客レが嫌われた件等)

 

 

 

<引用>

※ツイートのスクショを引用

※引用理由:引用元のアカウントが今(R6.1現在)は存在しない為、また当時山陰本線京都口普通客レが嫌われていたことを説明するのに必要なため

 

(6.1UP)

 

<引用>

※ツイートのスクショを引用

※スクショでないとうまく表示されないためスクショで引用

 

 

(3)昭和63年10月ダイヤ修正 突然の大幅削減

 山陰本線京都口普通客レは昭和63年(1988年)10月ダイヤ修正で大幅に削減されましたが、これは突然の出来事でした。

<引用>(昭63.10.1普通客レ大幅削減)

※ツイートのリンクをコピーの方法で引用

 

 

<引用>(昭63.10.1普通客レ大幅削減)

※ツイートのリンクをコピーの方法で引用

 

(私見)上記の通り、昭和63年10月ダイヤ修正で山陰本線京都口普通客レが突然大幅に削減されたのは、山陰本線京都口普通客レが非常に嫌われていたことと関係があるとともに、国鉄分割民営化により発足したJR西日本が普通客レを早急に廃止したいと考えていたためだと思われます?(もし違っていたら連絡をお願いします)⇒後日改めてブログを作成予定

 

 

 

4 その他

(1)改めて山陰線電化が口丹地区の悲願であった件

<引用>

※京都伊勢丹鉄道フェスティバル(R4.9開催)にて購入した写真のため撮影者不明

※場所は、写真の内容から国鉄山陰本線並河駅。

※時期は昭和62年以前?(昭和55年~62年頃?)

 

<引用理由>

普通客車列車王国時代の山陰本線京都口、特に京都府口丹地区においては、圧倒的多数が山陰線電化を強く願っていたことをお伝えするため。(下記の#99及び#306、#342、#357等のブログでも引用)

 

<参考>山陰本線京都〜園部間の電化は平成2年3月です。

 

(4.10、5.2等UP)

 

 

(2)その他

(私見)山陰本線京都口が普通客レ王国だった時代の行政が発行した資料の中にも、山陰線電化が悲願であり、電化が完成するまでは客レを早急に廃止し全て気動車化することを強く願ったことを示す資料があります。(下記①〜⑤の資料がそれに該当

①『図説丹波八木の歴史 第4巻 近代・現代編』

に掲載されている昭和42年の八木駅の写真には気動車が写っています。

<引用>

※引用元:『図説丹波八木の歴史 第4巻 近代・現代編』(平成25年3月31日発行)

※引用理由:SL王国であった昭和42年の山陰本線京都口の写真に気動車の写真が使用されたことをお示しする為。

⇒(私見)これは、SL王国時代の山陰本線京都口において、一般の方は、電化が完成するまでは、早急にSLや客レを廃止し全て気動車にしてほしいと思っていたことを示す資料と思われる。

 

※なお、この資料(キハ20系、とのこと)については、次のツイートのスクショもご参照ください。

 

<引用>

 

※私のツイートのスクショを引用(うまく表示されないため)。なお、キハ20系であることについては、フォロワーであるはまかぜ5号氏より教えていただきました。

 

(6.1UP)

②<昭和54年 玉ノ井付近>「八木町報大堰橋」(昭和54年12月号)には、普通客車列車王国時代の山陰本線京都口の写真が掲載されていますが、客レではなく気動車の写真でした。

<引用>

※引用元:「八木町報大堰橋」(昭和54年12月号)(第237号)

※引用理由:山陰本線京都口が普通客レ王国であった時代の行政が発行している広報誌に気動車の写真が掲載されていることをお示しするため

※黒塗りの箇所は、実際に電化が完成した時期と異なった時期(当初の完成予定月)が記載されているため、混乱を避けるため黒塗りをしています。

 

<参考>地蔵山トンネル起工式は昭和55年4月(#357のブログ参照)

 

③<昭和26年>昭和26年の山陰本線京都口はSL王国でしたが、この頃は気動車化が待望されていた、とのこと。

<引用>

※引用元:『40年のあゆみー八木町合併40周年記念』(八木町)(八木町役場総務課編、1991年3月発行)

※引用理由:「待望のディーゼルカー走る」「ディーゼルカー運転を陳情」と記載されており、この頃からSLや客レを全てディーゼルカー(気動車)に変えてほしいと一般の人が強く思っていたことを示す資料と思われるため

 

④山陰本線複線電化促進協議会会長(八木町長)が、山陰線京都口電化が口丹波の本当の夜明けである旨等のあいさつをされました(#344等のブログ参照)

 

※この件は#233、308でも取り上げています。

 

 

<参考 引用>(再掲)

※#344に掲載した引用資料

(5.3UP)

 

 

⑤たくみっく氏のYouTube動画(「【JR嵯峨野線】なぜ長年単線・非電化だった?小学生でもわかるように解説(山陰本線)」では、高度経済成長期に京都市及び亀岡市が、山陰本線京都口について「都会の近くなのになんで田舎のローカル線みたいなんだ」と山陰本線京都口電化を強く求めた旨記載

 

 

 

<参考文献>

・『図説丹波八木の歴史 第4巻 近代・現代編』(平成25年3月31日発行)

 (編集 八木町史編纂委員会)

・『40年のあゆみー八木町合併40周年記念』(八木町)

 (八木町役場総務課編、1991年3月発行)

・『広報大堰橋ーアメニティやぎー縮小版』(八木町 2005年)

 (八木町役場人事秘書課編)

・『広報大堰橋ーアメニティやぎー縮小版』に収録されている「八木町報大堰橋」(昭和54年12月号)(第237号)

・『新修亀岡市史資料編第三巻付録 グラフかめおか20世紀』(亀岡市 2000年)

 (亀岡市発行、平成12年11月発行)

・X(旧Twitter)情報

・たくみっく氏等のYouTube動画

ギザギザギザギザ

 

<参考>

<引用>(投稿後追記)

※引用元:京都ヨドバシ(ヨドバシカメラマルチメディア京都)の写真現像のコーナーの職員さんが撮影された写真。使用については了承を得ています。

 

(ソロ鉄ブログ管理者補足説明)

※場所は、当時の保津峡駅付近で、鵜飼橋(うこうはし)から撮影の写真と思われる。列車は当時の山陰線京都口旧型客車。

※時期は昭和59年春?

※その他詳細は#347のブログ参照

 

 

 

過去ブログ修正

①昭和61年11月~昭和63年9月の833レについて記載した#272のブログに次のツイートを追加記載しました。

<引用>

※引用リツイートのうえ、ツイートのリンクをコピーの方法で引用

 

 

②当ブログの原点について記載した#377のブログについて、#㋐55(当ブログの原点となった場所について)のURL追記や、投稿時間の記述の修正などの修正を行いました。

 

ギザギザ

 

<Pick>

 

 

 

字数制限の関係で大切な宝物等のPickは省略

引用箇所について転載等禁止

誤字脱字等があればその都度訂正します。

本日も最後までご覧いただきありがとうございました。