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ヌース出版のブログ

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(2017-12-18  13:04  投稿のブログ参照)

 

第34回

〈養蚕信仰〉         

 

唐澤太輔

 

 考古学的遺物から見るならば、大和地方より、日本海沿岸部すなわち「裏日本」の方が、高度な絹文化は先駆けていたようである。その背景には、日本海側地域が、大陸・半島からの最先端技術が入りやすいという地理的条件もあったであろう。

 『魏志倭人伝』(3世紀末)には、日本において当時蚕から糸を紡ぎ絹織物を作っていたことが記されており、239年には卑弥呼が魏の明帝に国産の絹を献上したことも書かれている。その後、渡来系氏族・秦氏によって養蚕は、非常に重要な産業として発展を遂げていく。そして、連綿とその技術は受け継がれ、改良され、明治時代には、日本を代表する産業の一つにまで成長していくことになる。

 大きな富をもたらす蚕に対して、人々は崇敬の念を抱いていた。それは単なる益虫ではなく「オカイコサマ」として特別に神聖視されていたのである。人々は豊蚕を願って蚕神を祀った。これは特に「オシラサマ」あるいは「オシラ神」などと呼ばれ、日本各地にその信仰は伝播していった。

 豊蚕を願う民間信仰を「養蚕信仰」という。「養蚕信仰」の種類はいくつかあるが、まずここでは、瞽女〔ごぜ〕にまつわるものを紹介したい。

 瞽女とは、目の不自由な女旅芸人のことである。主に三味線と唄を披露し生計を立てていた。その起源はよくわかってはいないが、彼女らの存在は室町時代から知られていた。その名称の由来は「盲御前〔めくらごぜん〕」だとも言われている。「御前」は婦人を敬って使う語であるが、それが「ごぜ」へと変化したというわけである。「瞽」は、目の見えない人を意味する語である。

 上越の高田と中越の長岡には、瞽女組織の一大拠点があった。この場所に拠点があったの理由の一つは「冬の長い期間を大雪に閉ざされ、幼時に麻疹などの病気をこじらせて弱視や失明にいたるケースが多く見られた」(瞽女資料館webサイトhttp://www.geocities.jp/gozearchives/より)ことだとも考えられている。

 瞽女は、全国各地を回ったが、養蚕が盛んな地域では、彼女らの芸が大変重宝された。そして「瞽女の唄を聞くと蚕が良く育つ」と言われ、養蚕を営む家では、蚕に瞽女による三味線伴奏の唄を聞かせるということがしばしば行われていた。

 

  蚕に唄を聞かせるというが、それは歌詞の内容、演目にはさほど関係がない。問題は伴奏楽器としての三味線の旋律にあったらしい。蚕は三味線の音が好きで、その音を聞くと桑の食い方が違うというのである。それで蚕が丈夫に育ち、収穫が上がるとする。(鈴木昭英『瞽女―信仰と芸能―』高志書院1996年p.100)

 

 鈴木によると、蚕にとっては、唄よりも三味線が重要だったようだ。三味線の音を聞いた蚕は、桑の葉を良く食べ元気に育ったという。「その科学的根拠は如何に?」というところではあるが、何よりも、養蚕業を営んでいる人々にとって「そう思えた」ということがもっとも重要であろう。それが根本的な信仰の在り方である。ちなみに「蚕口説〔かいこくどき〕」という三味線の弾き語り演目もあった。これは、実際に蚕の前で唄い、蚕に聞かせるものである。そうすると蚕は、しっかりとした繭を作るようになると言われていた。

 「瞽女の唄を聞くと蚕が良く育つ」ということから派生し、「瞽女の三味線の切れた糸をもらい、蚕棚に結んでおくと繭がよくとれる」とか「瞽女の食べたはしで蚕を拾うとよく育つ」などとも言われるようになった。瞽女、そして彼女らが奏でる三味線の音色と唄声は、神聖なものとされた。人々は、瞽女に不思議な力を感じ取り、彼女らをある種シャーマン(巫女)と見なしていたのである。

 この芸能集団・瞽女仲間は、男子禁制であった。また彼女らは生涯男性と交わらず結婚しないものだったようだ。それは、情欲にほだされず、神が依り付き、神が宿る身体を保っておくことが巫女の大切なつとめであるのと同様であると考えられている。(鈴木昭英「瞽女―信仰と芸能―」、『仏教民俗学体系5』名著出版1993年所収p.32参照)

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(2017-12-18  13:04  投稿のブログ参照)

 

『ロゴスドン』Web

哲学カフェ

第51回

因縁とは何か

(五十音順に配列させて頂きました/編集部)

 

縁の発現と展開

  鈴木康央(奈良県奈良市)

 

 まず「縁」について。ここに少し離れて二つの円がある。互いに接触点はないように思われる。しかしもしこの二つの円が、ドーナツを一つの平面で切った切り口の二円であるとすれば、これらは同一のものということになる。つまり、二次元的には異なるものも、三次元的観点に立てば同一物となるということである。

 話が抽象的すぎたかもしれない。要は、我々の住むこの世界では認知されないけれども、実は互いを関係づける大いなるものが存在していて、それを「縁」と呼んで理解しようというわけである。そもそもどうしてこの時代に、この日本に、この両親のもとに生まれてきたかという問いに対しては、DNAなどを用いて今後より科学的な説明がなされるかもしれないが、「それは『縁』だ」とから竹割りにされた方が納得がいく。この個を超えて何か偉大なものと繋がっているという感覚は、安心して死んでいけるという心の拠り所という点も含めて、究極の幸福感に通ずるとも思うのだが、どうだろう。

 次に「因」についてだが、これは端的に言ってしまえば「原因」「起因」の「因」であり、それをきっかけに「縁」が認知される、つまり「縁が発現する」ということである。例えば、学校や職場での同級生、同僚というのは縁あって(みんな偶然としか思えないだろうが)一緒になったのだが、その中で何かをきっかけに莫逆の友を得たり、時には生涯の伴侶を見つけることもあろう。またその逆も然り、宿命の敵との出会いともなりうる。そのきっかけは意識的、自発的なことが多い。

 さて、この「因」プラス「縁」の「因縁」により物事が生じる。これが「因縁生起」というものであるが、あらゆる人間がこれによって他の人間、あるいは事物と接触することで事件が生じ、事が展開していく。ビリヤードのように。

 実はただ展開していくだけなのだけれども、人によってそれぞれ発展、進歩と見なしたり、逆に悪循環と考えたりして、一喜一憂して生きる。そう考えれば何事も良い方へ捉えた方が健康にいいはずなのだが、なかなかそう思い込めないのが人間の性というものか。

 それでは「縁」は仕方ないとしても、「因」の方は少なくとも意図的に働きかけず、つまり縁を起こさずに一人静かに引きこもる方が無難なのだろうか? そう、確かに無難かもしれないが、それが即ち幸福な人生とは言えないだろう。特に若いうちは、年とってからでは下手したら致命傷を負いかねないことでも、その若さゆえの粗放な体力と活力と回復力を生かして積極的に縁を発現させるべきだ、と私は思う。その結果に対してどういう感情を持つかは個人の感性と価値観の問題であって、さして重要なことではない。大事なのは一つ一つの「因縁」の意味を考えてみることである。

 よく「縁がなかった」というようなことを言われるが、それは期待が高すぎただけのことで、実際はそういう結果となる縁があったということであり、その意味をよく反省してみなさいというメッセージだと考えればよかろう。

 というわけで、若い人たちは特に、縁を発現させるべく恐れずにともかくチャレンジして、自らの縁を感得してもらいたいものだ。

 

 

因縁とは幻である

  浜田節子(神奈川県横須賀市)

 

 前世から定まっていて自分の力では変えることの出来ない現象を因縁という。物理的な根拠のない出来事に、何かを感じるという、いわば思い込みを疑う現象でもある。

 ある出来事に対し、不可思議な思惑が働くことがあり、説明のしようがない混濁の気持ちに襲われることがある。すべて目に見えず聞こえず文書に記される事項でもない感覚的な作用に他ならない。

 DNAという遺伝子情報の伝達が発見され、あたかもすべてが論破できそうな生理学界であるが、精神の領域までは届いていないし、先祖代々過去のデータを照らし合わせようとしても、遡れるのは数代に過ぎない。もちろん未来の時空に関係を及ぼすことのない未知であるが、延々、縷々連鎖していくと考えられる陰(闇)の因果がどこかに潜んでいるのかと考えるのは、単に妄想に過ぎないかもしれない。

 《因縁めく》という風にその現象を曖昧な感想で括ることが一般的であるが、因縁そのものを強固に結びつけ怖れたりするのは幸福なことだとは言い難い。因縁という言葉に幸福の光は射さず、どこか暗いイメージであり、不吉・不穏の空気感が漂うような気がする。

「これも何かの因縁か」という言葉は、勝利や成功など華々しい状況には使われず、どこか諦念の思いが過るマイナーな言葉である。

 しかし確実に、わたしたちはどこかで《因縁》という言葉に縛られている。因縁によって逆らえない現在の状況があるのであって、自らの落ち度や怠慢によって不運を招いているのではないと。

《因縁=どうしようもない》という他者(宿命)の力によって状況を納得しようとする傾向がある。

 為るべくして為ったのだ、こういう運命にあるのも(わたくし)のせいではなく(見えない他者=因縁)のせいであると思えば総てに得心がいく。ある意味それは《救い》ともなりうる言葉=感情である。

 全ては因縁が支配しているのだという根拠のない楽観は、苦境を乗り越えるための囁きにも聞こえる。

 因縁という言葉はネガティブにもポジティブにも使用できる極めて融通の利く言葉である。わたしたちは《因縁》という不可思議な言葉に脅かされも助けられてもいるのかもしれない。

 脈々とつながる因縁という陰の支配に、わたしは怖れることなく肯定的に生きていきたい。(なるようになる)という因縁を嫌悪することこそストレスの元凶になるのではないか。自然体に生きる上で因縁という見えない連鎖がわたしを左右したとしてもわたしは断つために拳をあげたりはしない。

 因縁とは、無いが、有るかもしれない掴みどころのない幻である。

 

 

因縁とは存在の時空への繋がりを担う神の主宰と摂理である

  山下公生(東京都目黒区)

 

 因縁とは仏教用語である。因とは因果のことであり、物事には原因がありそれにより結果が生じる。因果応報とは、一切が自らの原因によって生じた結果がその報いであるとする考えで、個人の行いに応じてその報いをうけ、悪を為せば罰せられ、功徳を積めば幸福になるとの教えである。縁とは縁起のことであり、原因が生ずるための条件を意味する。また因縁とは「因縁生起」の略で、因縁によって事が生まれ起こることを縁起という。つまり、因とは結果を生起させる直接の原因、縁とは外的・間接的な原因である条件を示しており、因と縁とが関係しあって、あらゆる現象が生起しているという意味を示している。

 その因縁の内容は、十二因縁により、① 無明 愚痴② 行 三業③ 識 六識④ 名色 六境⑤ 六処 六根⑥ 触 接触⑦ 受 感受作用⑧ 愛 煩悩⑨ 取 執着⑩ 有 生存⑪ 生 輪廻⑫ 老死 苦 とされている。「無明」即ち、迷いの心から生み出されるものは、間違った行ないで「行」につながる 。間違った行ないは、認識力を狂わせ「六識」の眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の「識」につながる。 「六識」の対象物である、1.眼境(色)2.耳境(声)3.鼻境(香)4.舌境(味)5.身境の物質界の五境の(色界)と 6.意境の精神界(名界)を合わせた「六境」は 「名色」へつながる。「名色」を認識するための感覚器官「六処」の眼,耳,鼻,舌,身,意は、外界と心の内側を橋渡しする接点「六根」の「触」につながる。「触」によって、「六根(※感覚器官)」を通して、「名色(※六境)」を感受して、「六識」によって認識・判断して行き、この感受作用である心の作用が「受」につながる。「受」によって、快楽や不快といった感覚を知り、人間は、不快を退け快楽ばかりを求めるようになる。こうした自己中心・自我我欲の心が「愛」へつながる。「愛」とは、この場合、仏教用語なので、キリスト教の「愛」とは別物で、唯我的な欲求で煩悩のことである。煩悩は果てしなき欲望や執着心を生み出し、実際に奪い取るという「行ない」に発展し、こうした執着心や奪い取る行為が、「取」へつながる。 「取」(※執着心)は、「心の傾向性(※カルマ)」を生み出していく。「無明」に端を発する「心の傾向性」のことを「悪しきカルマ」といい、「取」によって「悪しきカルマ」が生み出され、そうした心の状態で生きている限り、絶対に苦しみから逃れることは出来ず、この迷える魂の生存状態にあることを、「有」という。 「有」によって、転生輪廻が生れる。この転生輪廻そのものが苦しみである。迷える魂の状態は、輪廻から抜け出すことができず、やがて、この地上に生まれ変わり、また死ねば、その心の状態に応じた、あの世の世界に生まれ変わっていき、この世に生まれ変わってくることを「生」という。 「生」は、苦しみを生み出し、この世に生れれば、当然、四苦八苦が待っており、この四苦八苦が「老死」である。 以上が、十二因縁の関係である。 

 因縁を哲学的に考察すれば、全ての存在は自立して存在するものは無く、時空の繋がりの相互依存の中で存在しているということである。実存主義の隔離されたブラックホールの闇に孤立する自己に比較すると大きな相違であるといえる。さらに転生輪廻は、遺伝子による生命の継承と食物連鎖による命の網羅的関係を暗示している。また因縁は、精神と物質の共存である「名色」が一体として循環するが、相対性原理のエネルギーと物質との等価性を示したE=mc²に連なる象徴性がある。仏教の因縁は苦しみの循環を悟りにより自力で断ち切る事を主眼としているが、人間中心の主眼から、神からの視点で因縁を解析すると、すべての存在は、神の主宰と摂理により時空で繋がっており、人間が主体として働きかけるとゆうより、むしろ力まず神に委ねることである。すなわち因縁とは、存在の時空への繋がりを担う神の主宰と摂理である。

現在、ヌース出版のホームページが更新できないため、こちらで新刊の告知をさせていただきます。

(2017-12-18 13:04 投稿のブログ参照)

 

本日、ヌース教養双書の新刊をオンデマンド版で発行いたしました。

 

国際社会との関わり方考える

(渡邉昭夫 著)

 

2017年12月27日発行

定価:1900円+税

ISBN978-4-902462-21-0

 

(内容)外交や国際社会と日本との関わりについて分かり易く解説。日本戦後外交研究の第一人者である著者が、一般の読者を前にして語りかけるような調子で書いた貴重な随筆的作品。

 

(著者紹介)昭和7年8月千葉市生まれ。東京大学名誉教授、青山学院大学名誉教授、平和・安全保障研究所副会長。大平正芳総理大臣の政策研究会にて環太平洋協力のグループに参加。細川、羽田、村山三内閣の防衛問題懇談会に参加。

 

<立読みコーナー>

 グローバリズムの趨勢が語られる一方で、それと一見逆行するかに見える、「地域化」が近年の国際情勢の一つの特徴であり、21世紀に入ってからの20年は特にその傾向が目立つようです。なぜそうなるのかについて、少し詳しく見ておきましょう。前講で地域化についてお話ししたのと同様に、グローバリズムの趨勢を推し進める力は、経済がその主なものです。少し前まで経済的相互依存と呼び慣わしていたものが近年ではグローバリズムと呼ばれるようになりました。経済現象は国境を超えて行われるのが一番効率的なので、ヒト、モノ、カネ、そして情報の流れを国境で妨げられないようにしようと考える人々が多いし、これからもその傾向は変わらないでしょう。このいわゆる「自由化」を推進するためには2国間で、あるいはある地域内の国々の間で協定を結ぶことがいろいろと試みられています。このような自由化推進のための協定に加わる国の数が多い方が良いのか、参加国を限定した方がよいのかは、なかなか決め難い問題ですが、数を限定した方が話がまとまり易いので、ヨーロッパとか、米州とか、東南アジア、また TPP のようなアジア太平洋地域を対象としたものなどがあります。しかも、単に関税を撤廃するだけでなく、商習慣や、競争原理などの差も無くすといった、より質的に深化したものを目指すようなものもあります。TPP(環太平洋パートナーシップ協定)は、そのなかでも、参加国の数から見ても、質の深さから見ても、大変野心的なものです。他方、歴史の長さからいえば、ヨーロッパの EU が最初に念頭に浮かぶでしょう。2017年に起こったいろいろな出来事―――イギリスの EU 離脱の国民投票や、TPP 脱退を公約に掲げたトランプ候補の米国大統領当選など―――は、経済のグローバル化の流れに水を差すように見えるので、今後の見通しは難しいし、中にはアメリカをはじめとする欧米諸国が先頭に立って進めてきた第2次世界大戦後の自由な国際経済秩序は戦後72年にして終りを迎えようとしていると(私は少し早まった考えではないかと思いますが)論じている方も少なくないようです。だが、スイスのダボス会議で、中国の習近平国家主席が、アメリカの反グローバル化や保護主義を批判し、アメリカにとって代わって中国が自由貿易体制の守り手であるかのような姿勢を誇示して見せたのは、奇現象とでもいうしかありません。というわけで、経済的相互依存の今後はどうなるのでしょう。気になるこの問題については、また後の方で考えることにして話を進めましょう。

(本文「重要さを増すアジア太平洋地域」より)

 

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