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第34回
〈養蚕信仰〉
唐澤太輔
考古学的遺物から見るならば、大和地方より、日本海沿岸部すなわち「裏日本」の方が、高度な絹文化は先駆けていたようである。その背景には、日本海側地域が、大陸・半島からの最先端技術が入りやすいという地理的条件もあったであろう。
『魏志倭人伝』(3世紀末)には、日本において当時蚕から糸を紡ぎ絹織物を作っていたことが記されており、239年には卑弥呼が魏の明帝に国産の絹を献上したことも書かれている。その後、渡来系氏族・秦氏によって養蚕は、非常に重要な産業として発展を遂げていく。そして、連綿とその技術は受け継がれ、改良され、明治時代には、日本を代表する産業の一つにまで成長していくことになる。
大きな富をもたらす蚕に対して、人々は崇敬の念を抱いていた。それは単なる益虫ではなく「オカイコサマ」として特別に神聖視されていたのである。人々は豊蚕を願って蚕神を祀った。これは特に「オシラサマ」あるいは「オシラ神」などと呼ばれ、日本各地にその信仰は伝播していった。
豊蚕を願う民間信仰を「養蚕信仰」という。「養蚕信仰」の種類はいくつかあるが、まずここでは、瞽女〔ごぜ〕にまつわるものを紹介したい。
瞽女とは、目の不自由な女旅芸人のことである。主に三味線と唄を披露し生計を立てていた。その起源はよくわかってはいないが、彼女らの存在は室町時代から知られていた。その名称の由来は「盲御前〔めくらごぜん〕」だとも言われている。「御前」は婦人を敬って使う語であるが、それが「ごぜ」へと変化したというわけである。「瞽」は、目の見えない人を意味する語である。
上越の高田と中越の長岡には、瞽女組織の一大拠点があった。この場所に拠点があったの理由の一つは「冬の長い期間を大雪に閉ざされ、幼時に麻疹などの病気をこじらせて弱視や失明にいたるケースが多く見られた」(瞽女資料館webサイトhttp://www.geocities.jp/gozearchives/より)ことだとも考えられている。
瞽女は、全国各地を回ったが、養蚕が盛んな地域では、彼女らの芸が大変重宝された。そして「瞽女の唄を聞くと蚕が良く育つ」と言われ、養蚕を営む家では、蚕に瞽女による三味線伴奏の唄を聞かせるということがしばしば行われていた。
蚕に唄を聞かせるというが、それは歌詞の内容、演目にはさほど関係がない。問題は伴奏楽器としての三味線の旋律にあったらしい。蚕は三味線の音が好きで、その音を聞くと桑の食い方が違うというのである。それで蚕が丈夫に育ち、収穫が上がるとする。(鈴木昭英『瞽女―信仰と芸能―』高志書院1996年p.100)
鈴木によると、蚕にとっては、唄よりも三味線が重要だったようだ。三味線の音を聞いた蚕は、桑の葉を良く食べ元気に育ったという。「その科学的根拠は如何に?」というところではあるが、何よりも、養蚕業を営んでいる人々にとって「そう思えた」ということがもっとも重要であろう。それが根本的な信仰の在り方である。ちなみに「蚕口説〔かいこくどき〕」という三味線の弾き語り演目もあった。これは、実際に蚕の前で唄い、蚕に聞かせるものである。そうすると蚕は、しっかりとした繭を作るようになると言われていた。
「瞽女の唄を聞くと蚕が良く育つ」ということから派生し、「瞽女の三味線の切れた糸をもらい、蚕棚に結んでおくと繭がよくとれる」とか「瞽女の食べたはしで蚕を拾うとよく育つ」などとも言われるようになった。瞽女、そして彼女らが奏でる三味線の音色と唄声は、神聖なものとされた。人々は、瞽女に不思議な力を感じ取り、彼女らをある種シャーマン(巫女)と見なしていたのである。
この芸能集団・瞽女仲間は、男子禁制であった。また彼女らは生涯男性と交わらず結婚しないものだったようだ。それは、情欲にほだされず、神が依り付き、神が宿る身体を保っておくことが巫女の大切なつとめであるのと同様であると考えられている。(鈴木昭英「瞽女―信仰と芸能―」、『仏教民俗学体系5』名著出版1993年所収p.32参照)