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『ロゴスドン』Webの連載「「裏日本」文化論」を更新しました。

 

第38回

〈菊理媛神〉


 民俗学者の宮本常一は、謎の神オシラサマと白山姫命〔しらやまひめのみこと〕とを同義とした(第36回〈オシラサマと白山姫命〉参照)。その証拠として、宮本は、オシラサマと密接な関係のある「馬娘婚姻譚」は、イタコの歌謡「オシラ祭文」において唱えられて全国に広まったが、そのイタコが肌身離さず持っている「お大事」という筒の中に「白山姫命」と書かれた紙が入っていたことを挙げている。
 この白山姫命の別名を菊理媛神〔ククリヒメノカミ〕という。この神は、『日本書紀』の一書(第十)に一度だけ登場する。日本神話におけるグレート・マザーであるイザナミは、多くの神々を生み出し、最後に火の神である迦具土神〔カグヅチノカミ〕を生み、それによって陰部を焼かれ亡くなった。イザナミを追って黄泉の国へ行った夫のイザナギは、変わり果てた姿となったイザナミを見て逃げ出した。イザナミはイザナギを追いかけ、二柱の神は、黄泉比良坂で対峙した。そこに現れたのが、菊理媛神であった。菊理媛神の登場シーンは、以下のように記されている。

 

  是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾尊聞而善之。乃散去矣。(『日本書紀』一書〔第十〕)

 

 つまり、「この時、菊理媛神は(イザナギとイザナミに)申し上げることがあった。イザナギはこれをお聞きになり、誉められた。そしてその場を去られた」ということである。菊理媛神が登場するのは、後にも先にもこの時一度きりである。
 菊理媛神は、何を申し上げたのか――。『日本書紀』の記述だけでは、その詳細を知ることはできない。しかし、この神の言葉によって、イザナギとイザナミの間に、ある種の和解が成立したことは確かだ。このようなことから、菊理姫神は、しばしば「仲裁の神」「縁結びの神」とされている。
 イザナギ(この世の者)とイザナミ(あの世の者)を仲裁できる力をもった菊理姫神とは一体何者なのか。これに関する議論はいまだに尽きないが、その答えを知るヒントは、この神の御名にありそうだ。

 

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『ロゴスドン』Webの連載「哲学カフェ」を更新しました。

 

「パラレルワールド」とは、見えぬけれどもあるもの

 前川幸士(京都府京都市)


 パラレルワールドは、通常は目にすることはできないが、実在するものである。SFやファンタジー、オカルトの話ではない。数学には、虚数(imaginary number)という2乗するとマイナスになる数があるが、これは実数の世界とは、対称のように存在するものであり、実数に(i)のついた形で表されるパラレルワールドであると考えられる。しかも、実数と虚数は対立するような形で別々に存在するのではなく、両者は互いに交流し、その和は複素数(complex number)という新しい概念の数として考えることができる。
 実数であっても、数という概念は、通常では実際に目にすることはできない。しかし、実数は、数直線上に点として表現することができ、それによって、その概念がビジュアルに示され、その性質をより深く考察することもできるようになる。複素数もまたガウス平面(複素数平面)によってビジュアルに表現することができる。これは、横軸に実数の軸(実軸)をとり、縦軸に虚数の軸(虚軸)をとる平面であるが、すなわちこれは原点Oを通る横軸の上に広がる世界と平行に無数の世界が存在することを表している。実軸を実数の世界と考えれば、この平面上には実数の世界と平行な世界が無数に表現されていることになる。通常は目にすることができない並行宇宙、パラレルワールドも、ガウス平面によって具体的に実体化させることができるのである。
 そして、これらのパラレルワールドは、それぞれが独立して存在しているものの、複素数によって、それぞれを関連させることも可能である。ガウス平面上には、複素数の数値をプロットすることが可能である。また、複素数の加減法の計算は、このガウス平面を用いることでベクトルのように表現・計算することができる。さらに、乗法の計算も実軸との間の角度の和として表現・計算することができる。このガウス平面を用いることによって、複素数の計算という概念も目に見える具体的なものとして考察、分析することができるのである。
 観念論的なもの、あるいは形而上のものを、実在しないからという理由によって一概に排除してしまうわけにはいかないことが、虚数、複素数の考察からも実感できる。また、虚数の概念を持ち出すまでもなく、負の数(negative number)もまた0を挟んで正の数と対称なパラレルワールドであると考えることもできる。人類は長い間、負の数の存在に気付いてはいたが、その実態を把握することはできなかった。一般的には、13世紀初頭の数学者であるフィボナッチが『算盤の書』(1202年)において負の数を負債と解釈し、貨幣経済に負の解を認めたのが、西欧社会における嚆矢とされている。負の数は、金融、経済の問題として実在が確認され、金銭、貨幣によって具体化されビジュアル化されたのである。

 

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『ロゴスドン』Webの連載小説「甦った三島由紀夫」を更新しました。

 

第53回

中国人留学生C (その三)


 
C 今日は三島さんに、日本の美についてお聞きしたいと思います。私、来日した年に京都の竜安寺の石庭を見たんですが・・・まず感じたのが、月並みですけど静寂です。そして非常に精神的な深みが無生物の庭という風景に潜んでいる・・・というより何て言うんでしょう?
M 息づいている。
C ああ、そうですね。ともかく凄くスピリチュアルなものが辺りに漂っていて、私に語りかけてくるような気がしました。庭の「こころ」ですかね。とても緊張しました。でも「美」という点では、どう考えてもよくわかりませんでした。それで先生にお聞きしようと。
M 石庭の美を「美」と呼ぶなら、それは日本人の美意識の根本が「死」にあるのであって、石庭は死そのものの不死を形象化したものだと私は思っています。
C すみません、よく分かりません。具体的に言うと・・・?
M 例えば、そして最も完璧な実例として、ギリシア人は美の不死を信じていた。人体を不死の美として石に刻み込んだわけです。それがギリシア彫刻です。しかし日本人は不死の人体美などは信じていない。けれども人間の不死は、魂の拠り所として精神の基盤となるものである。だからそれを表現するには死の空寂を何かに譬えて、例えば石に込めて形象化するしかなかった。それは極めて具体的な或るもの、とも言えましょう。
C ということは、日本人の求める美とは普遍的なものではなくて、一回的なものと考えていいでしょうか。

 

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