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本日、『ロゴスドン』Webの特集を更新しましたので、当ブログでも紹介します。

 

『ロゴスドン 第78号』特集・続編その70

 

日立製作所主任研究員として第一線でOS等の研究をされた後、『デジタル・ナルシス』でサントリー学芸賞を受賞された工学博士で東京大学名誉教授の情報学者・西垣通先生にインタビュー!

 

 

 『ロゴスドン 第75号』の発行は、2008年(平成20年)9月1日でした。この号の特集テーマを「情報学」にしたのは、前号の特集インタビューにおける哲学者・田畑稔先生の「~二つの情報系として人間を理解していく~」というお話があったからです。西垣先生は当時、東京大学大学院情報学環の教授をされていましたので、当研究室でインタビューをさせて頂きました。

 

 

 

 まず最初に、「情報とは本来、生命的な存在である」という小見出しを付けたお話を頂きました。その後は、「第一人称的なところから迫ると、フレーム問題は解消する」「生命体は、オートポイエティック・システムである」「動物は経験的に、自分の中に意味構造をつくっていく」「一神教が普遍論理を生み、コンピュータが出来た」という小見出しを付けたお話が続き、その流れで「ネットを通じた身体性と人格の乖離が起きつつある」という小見出しを付けた次のようなインタビューが展開しました。

                                                  

 

(宮本)『ロゴスドン』第七四号の特集で、哲学者の田畑稔先生が、「サイバー機械としての人間を見て、人間と機械が接近し、その点でも人類史は曲り角にくる」とおっしゃいましたが、西垣先生は、どのようにお考えですか。 

 

(西垣)ご指摘の通り、これまでは、近代の人間モデルというものがあった。人間は普遍論理であらわされる理性を分かち持っている存在だというモデル。デカルトのいった理性ベースの近代人モデルですね。それが近代の価値観を作ってきたわけです。もはや王様や貴族が偉いのでなく、普通の人もそれぞれ理性を持っていて、それぞれに尊重されるべきだというのが近代のモデルです。
 それが今や、ITによって、変化しつつある。つまり、理性って何なのか、という話です。例えば、今、ブログなんてものがありますね。あれは単なる日記ではない。一人が複数の人格、多重人格みたいになれる。男が女になり、女が男になって書くことも出来る。僕が書いた『サイバーペット』(千倉書房)という小説はそういう話なんです。
 多重人格によって主人公が迷路に巻き込まれていって、犯罪をおかしてしまう、という話なんです。今までは、人間というのは、自立した身体と一体になっていて、かけがえのないインディビジュアル(個人)であると考えられていた。個人の心に理性が宿るというわけです。言葉というのも、本来は理性的な言葉であるべきだという理念もあった。それが、インターネットの中で、いわば、いろんな人格をつくり出せるようになった。逆に、何人か一緒になって融合人格みたいなものをつくり上げて、共通のブログを書いたっていいわけですよ。だからいわゆる、神聖なインディビジュアルという神話が崩れつつあるんです。端的に言えば、ITあるいはネットを通じた身体性と人格の乖離というものが起きつつある。これが、今までの近代人モデルというものを解体させつつあるということだと思います。

 

(宮本)無料で、簡単に出来るというのもありますが、ブログをやる人が急速に増えつつありますね。 

 

(西垣)実は、日本は世界一のブログ大国なんですよ。総務省の調査によりますと、アメリカも非常に多いんですが、日本はアメリカを抜いて一位ですね。もう、一千万人を軽く超えていますからね。

 

(宮本)日本で、そんなにブログが流行るというのは、どういう背景が考えられますか。 

 

(西垣)日本人は日記が好きなんですよ。ある意味では、ナルシスが多いとも言えますね。日記というのは、本来、自分で書けばいい。自分で書いて、自分で読んでいればいいわけです。しかし実はそういう自分を他人に見て欲しいわけですよ。誰かに、しかも、こっそりとね。ネットのなかのナルシスだから、デジタル・ナルシスなんです。 私が『デジタル・ナルシス』(岩波書店)という本を書いたのは、もう二〇年ちかく前なんです。発行は一九九一年ですが、八〇年代末から書いていた原稿をまとめた本ですからね。私にはその頃から、今のような状態が薄々見えていました。むろん、まだ、ブログは出ていませんでしたけれど。ブログが出てきたのは、九・一一テロ以降ですからね。 

 

(宮本)ブログによって知らず知らずのうちに身体性と人格の乖離が起きつつあるということを、ブログをやっている本人たちが気づいていないということも恐いですね。

 

(西垣)ブログは必ずしも、いいことばかりではないかもしれない。だけど、単にそれを否定してはいけないと思いますね。 

 

 

 その後は、「生命的な活力を抑圧しないタイプ3コンピュータへ!」という小見出しをつけた非常に興味深いお話が展開していきました。

 

 この特集インタビューの全文は、『学問の英知に学ぶ 第六巻』(ロゴスドン編集部編/ヌース出版発行)の「六十七章 意味作用の情報哲学」に収載してありますので、ぜひ全文を通してお読み頂き、意味作用と人間の為の魅力的な情報社会について考えて頂ければと思います。

 

 

本日、『ロゴスドン』Webの特集を更新しましたので、当ブログでも紹介します。

 

『ロゴスドン 第78号』特集・続編その69

 

哲学の揚棄を思想的立場として世界の三層構造から人間を考察され、季報『唯物論研究』編集長で大阪哲学学校世話人の哲学者・田畑稔先生にインタビュー!

 

 『ロゴスドン 第74号』の発行は、2008年(平成20年)6月1日でした。この号の特集テーマを「現代世界と人間」にしたのは、前号の特集でインタビューをさせて頂いた鷲田小彌太先生から、哲学・人間論を専攻されていた田畑稔先生をご推薦頂いたからです。鷲田先生と田畑先生は大阪大学大学院で共に哲学・哲学史を研究し合った学友だったそうです。田畑先生は当時、大阪経済大学人間科学部の教授をされていましたので、当研究室でインタビューをさせて頂きました。

 

 

 まず最初に、「哲学の現実形態にこだわる」という小見出しを付けたお話を頂きました。その後は、「マルクスは古くなったのか?」「マルクスと哲学」「マルクスの意識論、唯物論、国家論」「アソシエーション革命」という小見出しを付けたお話が続き、その流れで「日常生活世界の哲学」という小見出しを付けた次のようなインタビューが展開しました。

 

 

(宮本)田畑先生は、日常生活世界の哲学を長年研究されておられますが、今までお話しいただいたアソシエーション論とどうつながってくるのでしょうか。 

 

(田畑)日常生活世界の空洞化にどう対応するかということで、アソシエーション論を私の場合は主張しているものですから、日常生活世界論を抜きにアソシエーション論は語れないという面があるんです。日常生活世界の哲学というものに、この十年ほど時間をかけて、短い論文ですけど、すでに十五本ほど発表しているんです。それを一冊にまとめる形で、ちょっと分厚い本なんですが、今、取り組んでいるんです。

 まず、問題意識なんですが、旧来の変革論というのは私らの世代の反省点としてどうしても大きいんです。今は、ライフスタイルの政治というものを抜きにして、昔風のフランス革命やロシア革命のイメージで革命を考えられないと私は思っているんです。従来の変革論をとなえる人たちには、日常生活論がバサッと抜け落ちているわけですね。明治維新の革命とか戦後の民主化とか、国家権力が危機の時代に革命論がパッと出てくるんですが、そのベースにある日常生活世界の危機というのはかなり深刻化しているわけです。そういう部分に逆に目がいかない。政治の危機ばっかりを追っかけて、目がいってないんじゃないかと。むしろ、ライフスタイルの政治というふうに徐々に切り替えていかないと、新しい政治は展望できないというのが一つにあるんです。 

 

(宮本)「ハイデガーは、日常生活世界と日常性を混同している」と、田畑先生はある本に書いておられますが、どう違うのでしょうか。

 

(田畑)ハイデガーの『存在と時間』という本は非常に魅力あるものです。しかしこの本で日常生活世界がどの断面で切り取られているか。これを見ておく必要があります。平たく言えば、人間存在(現存在)の平均的な、日常的な、没人格的な、物象化された、死や決意性を忘却した、ぺちゃくちゃおしゃべりだけの「非本来的」なあり方が一方にあり、死(有限性)を自覚し決意と責任を自覚する「本来的」あり方が他方にあって、両者を対照的に描き出すこと、そして前者から後者への移行を現象学的に追跡すること、これがこの本の実質です。

 しかしこの「本来性」という捉え方は非常に臭い。哲学者ハイデガーの主要関心事が生活者の主要関心事でないことは自明です。しかし、なぜ哲学者の関心事が「本来性」なのでしょうか。「本来性」と「非本来性」を逆にとってもよいのではありませんか。哲学者たちは自分のそれ自身疎外されたあり方を疎外された世界の批判尺度としてあてがってしまっているというマルクスの厳しい批判を連想させられるわけです。日常生活世界が単なる存在忘却として、非本来としてしか見えてこないのは、生活世界から疎外された哲学者の視界に制約されているからではな いか、と意地悪く言いたくなります。

 哲学の可能性を「生活の吟味」の線で追求するのか、「知恵の愛求」の線で追求するのかという選択肢がここで絡んでくるのではないでしょうか。事実、ハイデガーは生活諸活動も、生活諸意識も、生活諸空間も、生活諸関係も、生活諸時間も、生活諸価値も、それらからなる総体としての日常生活世界も、日常生活世界の歴史的変容も、分節的に総体把握する必要をまったく感じていないように私には読めます。彼の基本関心がそれを必要としていないからです。

 また現代世界は直接層としての日常生活世界だけからなるのではありませんよね。さらに歴史層としての「近代世界システム」、基底層としての自然世界。これら3つの基本層からなっています。日常生活世界は自律系ではなく歴史世界や自然世界を不断に織り込みながら個性的に織り上げられていくのです。ところが日常性を死の自覚や決意性へと超えることに基本関心があるために、彼の日常世界は歴史世界や自然世界へ展開しない。彼のナチス体験の欠陥は、死の自覚や決意性へと日常性を超えただけで歴史的実践に飛躍した点にあったとも言えます。

 ハイデガーだけではなくて、ブローデル、それから現象学的社会学、日常意識分析で非常に魅力のある分析をやっているエスノメソドロジー。これらもしかし、日常生活世界論としては扱っていない。それから、柳田民俗学ですね。これは日常世界の中の古い層ですね。今も昔のお盆の行事が残っているという古層に着目していく。それで、昔の日常世界をそこから推測していく。これも非常に勉強になるんです。しかし、現に柳田国男自身が入り込んでいる日常生活世界があるはずですから、そういうところは正面から扱っているわけではもちろんない。民俗学ですから、いわば生活世界の中の古層をさぐりながら、過去の日常世界を推測するというのが柳田の方法です。

 現象学的精神医学というのも、日常性を理解する場合に大事なものです。例えば、統合失調症になりますと、日常性そのものが崩れるわけです。逆に日常性の持つ抑圧性も問題となる。そういう点でも非常に大事なんです。だからといって、現在における日常生活世界を批判的に吟味するという課題からすれば一つの重要なポイントではあるにしても、やはり一つのメスに留まる。

 日常生活世界を一番包括的に扱っているのは、私はルフェーブルだと思います。ルフェーブルで特にヒントになったのは、「生活空間論」です。ただ、日常生活世界を世界論として展開するというより、どちらかというと、資本主義が新しくステップアップするに従って、生活世界がどう変容していくかというような、そういう社会学的な分析です。

 そういう自負を持つ以上は、やっぱり、私もしっかりとした全体叙述をしないといけないということで現在執筆中なんですが、序論的にまず三つ書こうと思っています。一つが「哲学論」で、最初に言いましたように、生活の吟味として哲学を再定義する。それによって、日常生活世界を全体として扱うという課題設定がはっきりできるだろうと。社会学とかエスノメソドロジーとか、そういうものとは違って、むしろ哲学的な対象として世界論を持つことができるのではないか、というのが最初の前提です。それに続いて、「世界と自我」も序論に当たるわけですが、世界とは何かということですね。日常生活世界を自立系として見たら日常生活主義になってしまうものですから、私としては三層の世界で我々現代人は生きている。しかし、直接には日常生活世界で生きていて、これが歴史世界と自然世界とを織り込みながら、日常生活世界を織り上げていくと、こういうような世界論です。

 ヤスパースをはじめ多くの哲学者は世界論を書いているんですが、重層の世界という形では伝統的な世界論は扱っていないんです。私としては、一重の世界論ではダメだと思います。直接生きていくために構築する世界を織り上げようと思うと、当然歴史世界を織り込まないといけない。例えば、私の親とかお祖父ちゃんの代であれば、 家業で日常生活世界を織り上げることが出来ました。ところが今は労働市場で織り上げないとダメですから、歴史世界からまったく自由ではあり得ない。むしろ、歴史世界を織り込むことなしには、日常生活世界は成立しない。 その三つの世界を相互織り込みの関係として描いていく。日常生活世界を論じるのは、けっして日常生活世界だけを見ておればいいという意味ではないんです。日常生活世界に即して、三つの世界を見るということです。

 次に「自我論」ですが、日常生活世界は自然世界や歴史世界と異なり、人称的に分節化した世界です。その中心に「私」がありますが、この「私」はただちに「君」の「君」、「彼」の「彼」で相対的中心項にすぎません。「私」 は「君たち」とともに親密圏という日常生活世界のコアをつくっています。また「私」は「我々」という共同主観と不可分に生きていますが、この共同主観も情緒的共同主観、常識的共同主観、倫理的共同主観、言語的共同主観、 そして論理的共同主観のように重層をなしております。

 「私の身体」は「今ここ」という世界の中心を成立させています。日常生活世界では生理学的身体でなく「生きられる身体」に注目しなければなりません。顔は相互視の中にあり、私の「顔」を見ることは私自身を見ることです。私の身体は人生を通して構築された身体技法の総体でもあります。「私」の同一性と責任主体の問題もあいかわらず重要ですし、「実存としての私」というテーマも、「私」の危機局面をとらえるものです。

 総じて言えば「自己意識としての自我」はデカルトからカントやフッサールまで確実な知の基礎付けの線でだけ注目されてきました。しかしイェーナ期のヘーゲル以降、自己意識論は相互承認論として再展開され、これがミードの社会的自我やハーバーマスの相互行為論につながっています。この推移を押えることが重要でしょう。

 このように「哲学論」「世界論」「私論」という序論部分を終えた上で、これに続いて、「生活活動論」で生活活 動の全体図を描きつつ我々の時代の生活活動の偏りを論じ、「意識論」で日常知や日常意識や常識の特質を論じ、「生活空間論」で日常生活空間の断片化と変遷を論じ、「生活関係論」で家族をコアにした日常生活諸関係を論じ、「生活時間論」で人生を論じ、「生活価値論」で幸福を論じ、そして「生活世界の変容論」へと展開する予定になっております。

 

(宮本)田畑先生が編集長をされていらっしゃる季報『唯物論研究』の第九十五号で、田畑先生ご自身も論文を書いておられて、「時間から見た日常生活世界」は特に興味深かったんですが、これも日常生活世界の全体叙述の中に入りますよね。

 

(田畑)そうですね。日常的時間は、循環的時間と段階的時間とドラマ的時間があって、これはハイデガーの『存在と時間』を意識した話になるんです。生命や生活は吐く吸う吐く吸うとか、朝起きて学校に行って戻ってきて寝るとか、「循環的時間」がベースです。それと、誕生、成長と老衰といった「階段的時間」も流れますね。日常生活の時間は、主としてこの二つなんです。しかし、この循環的時間でも、一歩間違えばすぐに「ドラマ的時間」に移るわけです。例えば、朝起きて目が覚めたのに欝で会社へ行けない。この時、もう循環的時間は崩れます。会社から「君はもう、このまま会社を辞めて、他の会社を探しなさい」とか言われて弾きとばされる。そのようにドラマ型の時間が突然訪れてくる。それは日常的時間の切断です。

 ドラマというのは、いつも日常的時間から始まるんですが、突然切断されて、そこから劇の展開になっていきますよね。あれは、実生活の中にある時間を捉えていると思うんです。そのドラマ型時間は、日常生活世界にはないということではなくて、むしろ日常生活世界の一番の中心に危機の時間というのがある。ハイデガーの不安の問題とか、死の問題とか、そういうのは日常生活世界論でいえば、非常に重要な要素をなしてくると思います。実存的なものも、ここになろうかと思います。

 幸福論について言えば、いくつかの幸福類型を出して、その幸福類型の意味の変容を追跡する。若者たちは楽しい人生を求め、徳ある人生のような清貧の思想はあまり好まない。それから伝統社会としては、ラッキーとしてのハッピーで、たまたま幸せを恵んでもらえたという感謝の人生観ですね。そのような格好で、いくつか幸福論を類型化して、それで幸福の場合には価値判断ですから、尺度依存性があるということで、価値尺度をめぐる議論になっ ていくのではないかと考えています。

 最後が日常生活世界の歴史的変容ということで、その基軸は生活基盤が家業から労働市場に移ったことが一番大きいと思います。それと情報革命ですね。この情報革命もまだ最終的には何を意味するのか、我々は読み取れてないわけですけど、まだ五十年くらいしか経っていないわけですからね。産業革命は三百年、農業革命は一万年くらいですから、その意味はそれぞれなりにこなれてきてますけど、情報革命についてはまだ分かりません。これをどう捉えるかというのがポイントになろうかと思います。

 

 

 その後は、「人間科学の新展開」「人類史再考」という小見出しをつけた非常に興味深いお話が展開していきました。

 

 この特集インタビューの全文は、『学問の英知に学ぶ 第六巻』(ロゴスドン編集部編/ヌース出版発行)の「六十六章 現代世界の人間哲学」に収載してありますので、ぜひ全文を通してお読み頂き、世界の三層構造から人間について考えて頂ければと思います。

 

本日、『ロゴスドン』Webの特集を更新しましたので、当ブログでも紹介します。

 

『ロゴスドン 第78号』特集・続編その68

 

『大学教授になる方法』がベストセラーとなり、人生論を哲学の正道に戻すことを提唱される札幌大学名誉教授の哲学者・鷲田小彌太先生にインタビュー!

 

 

 『ロゴスドン 第73号』の発行は、2008年(平成20年)3月1日でした。この号の特集テーマを「哲学と人生論」にしたのは、前々号の特集インタビューにおける生命科学者・石浦章一先生の「哲学は大学でも一番役に立たないと思われている」というお話があったからです。それで、「わかって楽しい哲学講座」を連載して頂いていた哲学者の鷲田小彌太先生にご登場を願いました。鷲田先生は当時、札幌大学の教授をされていましたが冬休み期間中でしたので、札幌市内のホテルでインタビューをさせて頂きました。


 まず最初に、「哲学は、人生知と学問の根本に関わる」という小見出しを付けたお話を頂きました。その後は、「言葉で表現された欲望を人間は実現してしまう」という小見出しを付けたお話が続き、その流れで「我々が生きている場面で使える思考法」という小見出しを付けた次のようなインタビューが展開しました。

 

(宮本)本当の哲学というのは、本来、非常に人間の役に立つものだと思うのですが、一般の人々からは、あまりそうは思われていないようです。『ロゴスドン』第七十一号の特集でも、生命科学者の石浦章一先生が、「哲学は大学でも一番役に立たないと思われている」とおっしゃいましたが、なぜ、そんなことになってしまったのか、実際の学問としての哲学の現状を含めて、その真相を明らかにしていただけますか。 

 

(鷲田)そういう議論は昔からあって、武谷光夫さんが、「哲学は役に立たない」「科学にとっては何の役にも立たない」っていいましたが、だけど、役に立つとか役に立たないというのは、どういうレべルでいうのか、ということですよね。だって、ニュートリノだって、結局は、小柴先生がニュートリノが必ずあるのだといって実験した。それは、エネルギー保存の法則に反するから、そう確信したわけでしょう。法則に例外をつくってはいけないという、一つの哲学ですよね。
 科学っていうのは、例外が現われたら、その例外っていったい何なのかを科学的に究明しなければならない。だから、あれは仮説に基づいてやったんだけれど、絶対的に正しいかどうかは分からないけれど、その仮説は正しかった。したがって、エネルギー保存の法則っていうのは、哲学であると同時に科学でもあると思うんです。そういう意味でいうと、別に、哲学が、科学が、役に立たないというわけではない。けれども、大学で教えられている哲学っていうのは、専門外の人には理解できないんですよ。 

 

(宮本)確かに、難しいですよね。 

 

(鷲田)教えている本人たちにも分かっていないことをいっているんじゃないかと思うんです。自分では分かっているつもりでも、呪文みたいなものです。「南無阿弥陀仏」とは何かといったら分かりますよ。だけど、「南無阿弥陀仏」を「ありがとう」といってしまったら、有難味はないでしょう。南無は何なのかとか、南無の南は何なのかと展開するのが学問です。それから、哲学を専門にやっている人というのは、八割くらいは現実には役に立たないと思っています。 
 そう思わざるを得ないというのは、現実と哲学との連関を結べないですから。「カントの哲学というのは、実は大衆的な倫理学なんですよ」というと怒りますからね。ところが、「良心の痛みというのはモラルの根幹である。良心の痛みを感じないような人は、もう人間の尊厳を失っているから、人間ではない」というのがカントの意見です。こんなことは誰にでもわかることでしょう。でもそういったらカント学者は怒るんです。 

 

(宮本)それは、誰にでも分かるように簡単にいってしまうと、有難味がなくなるからでしょうか。 

 

(鷲田)ただし哲学者は難しくてもよかったのです。というのも、せいぜい五十人くらいの仲間で話した言葉ですからね。そのサークルというのは、十人から百人くらいです。その程度の数の人たちが議論しているわけです。難しくてもよくって当然じゃないでしょうか。しかし、今の大学というのは、もうそういう時代を完全に終えたと思います。普通の人、五十%以上の人を対象にして哲学の内容を述べるとしたら、かつてのような仲間内の言葉では述べない。お寺では、「何も分からなくていい。とにかくお経だけを唱えなさい。そのうちに分かりますよ」というでしょう。そんなやり方はしたくない。まあ、そんなことをいったら多くの哲学者に怒られますけどね。
 有効な哲学というのは、やはり革命的なんです。社会を思いっきり変えてやろうという意志があるんです。マルクス主義なんて、哲学かどうか分かりません。実存主義が哲「学」かどうか問題じゃないでしょう。マルクス主義から生きる原理、社会を理解する原理を取り出す。それから実存主義から生きる原理、社会を理解する原理を探し出す、というのが哲学者ですよ。構造主義が哲学なのかどうかは分かりませんが、構造主義を哲学原理として立てようとするのが、哲学の営みなわけです。構造主義というのは、実証主義、それからマルクス主義、さらには実存主義という、既存の思想を全部否定しようとするわけです。それらは原理的にいってしまえば、「呪文」である。人間の本質や社会の本質を理解しようとする場合、「原理」によることはできない。構造主義者たちが実際そういったかどうかは別として、構造主義哲学者は、世界をパラダイム・チェンジする、つまり、世界をこれまでとはまったく違うように観ることができる原理を提供しようとするわけです。
 構造主義がでて三~四十年くらいたちました。いまではその主張は社会の常識になっている。「関係性」で社会や人間をとらえている。昔とは違うネット社会に生きていることもあります。「多重人格」などと心理学者はいうけれど、人間は多重存在にすぎないとみんなが感じているでしょう。多重人格なんてのは、一昔前までは異常者とみなされていたんですよ。でも、今は違うでしょう。一つの人格しかないというのは、逆におかしいですよね。社会もそうです。社会は様々な階層を成しているだけでなく、ネット状になっていて、一つのつながりによって、一 つのものを理解できるようにはなっていないわけです。
 そうすると、全体と部分、個人と社会とが、どんなに分断されていようが、否応なしに私たちは社会につれ出されるんです。今の子供たちは非社会的だっていうけれど、私たちの時代の社会なんて、歩いて一日にせいぜい十里くらいしか歩けなかったのです。十里四方の世界の外に、自分の村から歩いて出ることはできなかった。私の実家は札幌から十キロくらいの所ですが、汽車やバスに乗らないといけません。子供には遠い世界です。だから、自分の村の世界しか知らない。また、泥棒が私たちの村に入って見つかり、逃げて、必ず捕まるんです。外には逃げられないんです。うろついて、捕まるんです。汽車に乗ろうとしたら駅が関所です。つまり、少し前まで「社会」というのは、このくらい狭かったんです。
 ところが、今、私たちは世界中と結びついている。実際に行くかどうかは別にしてです。社会の考え方、とらえ方が非常に違ってきて当然でしょう。そういう意味でいうと、哲学はなかなかうまい具合につかまえているなと思います。プラトンの時代から現代まで、哲学は人間の関係というものを、その一つ一つの関係性というものをトータルにつかまえようとするでしょう。まあ、学校哲学の人たちは無理かもしれませんが。それでも、加藤尚武さんとか、廣松渉先生とかは、単独という形ではないけれど、科学の最先端でも通用するようなことをやっています。 現実知と格闘するようなことをです。
 たしかに最先端でやるのは大事でしょう。でも私にとっては、現に私たちが生きている場面で使える思考法とは何なのか、が一番大切なんです。そういうことを考えようとしているから、お前のやっているのは哲学じゃないっていう人もいます。でも、どうでしょうか。「実用」というと変ですけれど、私は自分を修正主義者っていってきたんです。マルクス主義者の時代からです。なぜ「修正」でしょう。現実が変われば、自分の考え方も即応して変わる。考えを変えていくということは、考える原理も変えなければならない。その時は、しんどいですよ。なぜ変えたのかってことを、自分で説明しなければならない。なぜマルクス主義は間違っているのか、ということを自分で解明しなければならない。マルクス主義は間違っているかもしれない。だが、自分の抱いたものは大事だから、間違いをあまり強調せず、社会や人の考えが変わっていくのにまかせよう。でも俺はマルクス主義を守ってきたのだ。これじゃダメではないでしょうか 。 

 

(宮本)そのうちに、矛盾が生じたり、無理が出てきますよね。 

 

(鷲田)というよりも、何も発言できなくなると思うんです。考えるとは、問題解決能力を発揮することです。つまり、実用的ということで一番大事なことは、どんな問題でも「解決」できるということです。ただし「全面的な解決」はできません。解決といっても、「盤根錯節」を断つように、スパッと全面的に解決するなんてことは、逆にいうと有り得ない。どこまで解決できるのか、それはいったいどんな解決点になるのか、ということをきちんとわきまえていえるかどうか、が決定的に重要なのです。
 だから、清算主義とか武力主義、根本的な革命主義、こういうのは哲学にとって、ほとんど意味を持たなくなってきたと思います。たとえば、構造主義は、対象を共時態と通時態でつかまえます。共時的な問題が解決しても、通時的な問題は解決できない。通時的な問題は形を変えて、また次に現れてくるわけです。人間とは何か(人間の本質)なんて、変わらないでしょう。だけど、人間はいつまでも同じかというと、絶対にそんなことはない。私自身のことを考えても、小さい時からずーっと変わってきている。もともと変なヤツだとは言われてきたけれど、私自身は常識的な人間だと思っています。これも人間の「本質」に関わっているわけです。
 それと、もう一つは、自分でやっぱり納得しないとダメですね。人間が一番すごい点は、自分を納得させる能力をもつことです。賢い人というのは、自分で納得しないことを人にはいわないでしょう。だけど、学校の教師は自分で納得しないことでも人(生徒)にいわなければならない。会社の上司もそうじゃないでしょうか。だけど、自分で納得したからって、大したことではない、ということも大事ですよね。そういう意味で、私たちは常に、出された問題について、自分はこう答える、それから社会とか組織とかが変わらないのなら、自分はここまで変わることができる。こういわないと、「誠実」ではないということですよね。誠実というのもやっかいですね。ドイツ語 で Ehrlichkeit で、「正直」のことです。「一所懸命」やるってことですよ。まずは自分に正直になって、できる限りのことをやるということです。 

 

(宮本)特に、哲学にとっては、それが大事ですよね。 

 

(鷲田)それが基本です。やっぱり歴史に残っている哲学者というのはほとんどが誠実です。ただ、ライプニッツのような人もいるから、簡単じゃないのですが。でも結局、ライプニッツも、いろんな社会の中で泥にまみれてみて、自分の考えを放棄したり、相手を呪ったりした面白い人ですけれど、そういうふうにして折り合いを取らざるをえなくなります。でも誠実に生きていった人は勝ってます。勝ったというのは「残る」ということですが。
 つまり、私たちの言葉というのは誠実ではないんです。裏切ります。でも言葉というのは、一つのアート、技術でしょう。言葉というのは、人間の精神を運ぶアートであると考えると、「思考の技術」の誠実を、ものを考える人間はつねに賭けている、ということができます。

 

 その後は、「ヘーゲルは森羅万象を書き、しかも明解である」「ヘーゲルの哲学は、成功者の哲学である」「基本的人権の根拠にあるのは、私有財産と命である」「仕事のストレスを通過しないと、力は身に付かない」「人生という締切りがあるから頑張ることができる」という小見出しをつけた非常に興味深いお話が展開していきました。

 

 この特集インタビューの全文は、『学問の英知に学ぶ 第六巻』(ロゴスドン編集部編/ヌース出版発行)の「六十五章 幸福への人生哲学」に収載してありますので、ぜひ全文を通してお読み頂き、人生に役立つ哲学について考えて頂ければと思います。