『ロゴスドン 第78号』特集・続編その68 | ヌース出版のブログ

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本日、『ロゴスドン』Webの特集を更新しましたので、当ブログでも紹介します。

 

『ロゴスドン 第78号』特集・続編その68

 

『大学教授になる方法』がベストセラーとなり、人生論を哲学の正道に戻すことを提唱される札幌大学名誉教授の哲学者・鷲田小彌太先生にインタビュー!

 

 

 『ロゴスドン 第73号』の発行は、2008年(平成20年)3月1日でした。この号の特集テーマを「哲学と人生論」にしたのは、前々号の特集インタビューにおける生命科学者・石浦章一先生の「哲学は大学でも一番役に立たないと思われている」というお話があったからです。それで、「わかって楽しい哲学講座」を連載して頂いていた哲学者の鷲田小彌太先生にご登場を願いました。鷲田先生は当時、札幌大学の教授をされていましたが冬休み期間中でしたので、札幌市内のホテルでインタビューをさせて頂きました。


 まず最初に、「哲学は、人生知と学問の根本に関わる」という小見出しを付けたお話を頂きました。その後は、「言葉で表現された欲望を人間は実現してしまう」という小見出しを付けたお話が続き、その流れで「我々が生きている場面で使える思考法」という小見出しを付けた次のようなインタビューが展開しました。

 

(宮本)本当の哲学というのは、本来、非常に人間の役に立つものだと思うのですが、一般の人々からは、あまりそうは思われていないようです。『ロゴスドン』第七十一号の特集でも、生命科学者の石浦章一先生が、「哲学は大学でも一番役に立たないと思われている」とおっしゃいましたが、なぜ、そんなことになってしまったのか、実際の学問としての哲学の現状を含めて、その真相を明らかにしていただけますか。 

 

(鷲田)そういう議論は昔からあって、武谷光夫さんが、「哲学は役に立たない」「科学にとっては何の役にも立たない」っていいましたが、だけど、役に立つとか役に立たないというのは、どういうレべルでいうのか、ということですよね。だって、ニュートリノだって、結局は、小柴先生がニュートリノが必ずあるのだといって実験した。それは、エネルギー保存の法則に反するから、そう確信したわけでしょう。法則に例外をつくってはいけないという、一つの哲学ですよね。
 科学っていうのは、例外が現われたら、その例外っていったい何なのかを科学的に究明しなければならない。だから、あれは仮説に基づいてやったんだけれど、絶対的に正しいかどうかは分からないけれど、その仮説は正しかった。したがって、エネルギー保存の法則っていうのは、哲学であると同時に科学でもあると思うんです。そういう意味でいうと、別に、哲学が、科学が、役に立たないというわけではない。けれども、大学で教えられている哲学っていうのは、専門外の人には理解できないんですよ。 

 

(宮本)確かに、難しいですよね。 

 

(鷲田)教えている本人たちにも分かっていないことをいっているんじゃないかと思うんです。自分では分かっているつもりでも、呪文みたいなものです。「南無阿弥陀仏」とは何かといったら分かりますよ。だけど、「南無阿弥陀仏」を「ありがとう」といってしまったら、有難味はないでしょう。南無は何なのかとか、南無の南は何なのかと展開するのが学問です。それから、哲学を専門にやっている人というのは、八割くらいは現実には役に立たないと思っています。 
 そう思わざるを得ないというのは、現実と哲学との連関を結べないですから。「カントの哲学というのは、実は大衆的な倫理学なんですよ」というと怒りますからね。ところが、「良心の痛みというのはモラルの根幹である。良心の痛みを感じないような人は、もう人間の尊厳を失っているから、人間ではない」というのがカントの意見です。こんなことは誰にでもわかることでしょう。でもそういったらカント学者は怒るんです。 

 

(宮本)それは、誰にでも分かるように簡単にいってしまうと、有難味がなくなるからでしょうか。 

 

(鷲田)ただし哲学者は難しくてもよかったのです。というのも、せいぜい五十人くらいの仲間で話した言葉ですからね。そのサークルというのは、十人から百人くらいです。その程度の数の人たちが議論しているわけです。難しくてもよくって当然じゃないでしょうか。しかし、今の大学というのは、もうそういう時代を完全に終えたと思います。普通の人、五十%以上の人を対象にして哲学の内容を述べるとしたら、かつてのような仲間内の言葉では述べない。お寺では、「何も分からなくていい。とにかくお経だけを唱えなさい。そのうちに分かりますよ」というでしょう。そんなやり方はしたくない。まあ、そんなことをいったら多くの哲学者に怒られますけどね。
 有効な哲学というのは、やはり革命的なんです。社会を思いっきり変えてやろうという意志があるんです。マルクス主義なんて、哲学かどうか分かりません。実存主義が哲「学」かどうか問題じゃないでしょう。マルクス主義から生きる原理、社会を理解する原理を取り出す。それから実存主義から生きる原理、社会を理解する原理を探し出す、というのが哲学者ですよ。構造主義が哲学なのかどうかは分かりませんが、構造主義を哲学原理として立てようとするのが、哲学の営みなわけです。構造主義というのは、実証主義、それからマルクス主義、さらには実存主義という、既存の思想を全部否定しようとするわけです。それらは原理的にいってしまえば、「呪文」である。人間の本質や社会の本質を理解しようとする場合、「原理」によることはできない。構造主義者たちが実際そういったかどうかは別として、構造主義哲学者は、世界をパラダイム・チェンジする、つまり、世界をこれまでとはまったく違うように観ることができる原理を提供しようとするわけです。
 構造主義がでて三~四十年くらいたちました。いまではその主張は社会の常識になっている。「関係性」で社会や人間をとらえている。昔とは違うネット社会に生きていることもあります。「多重人格」などと心理学者はいうけれど、人間は多重存在にすぎないとみんなが感じているでしょう。多重人格なんてのは、一昔前までは異常者とみなされていたんですよ。でも、今は違うでしょう。一つの人格しかないというのは、逆におかしいですよね。社会もそうです。社会は様々な階層を成しているだけでなく、ネット状になっていて、一つのつながりによって、一 つのものを理解できるようにはなっていないわけです。
 そうすると、全体と部分、個人と社会とが、どんなに分断されていようが、否応なしに私たちは社会につれ出されるんです。今の子供たちは非社会的だっていうけれど、私たちの時代の社会なんて、歩いて一日にせいぜい十里くらいしか歩けなかったのです。十里四方の世界の外に、自分の村から歩いて出ることはできなかった。私の実家は札幌から十キロくらいの所ですが、汽車やバスに乗らないといけません。子供には遠い世界です。だから、自分の村の世界しか知らない。また、泥棒が私たちの村に入って見つかり、逃げて、必ず捕まるんです。外には逃げられないんです。うろついて、捕まるんです。汽車に乗ろうとしたら駅が関所です。つまり、少し前まで「社会」というのは、このくらい狭かったんです。
 ところが、今、私たちは世界中と結びついている。実際に行くかどうかは別にしてです。社会の考え方、とらえ方が非常に違ってきて当然でしょう。そういう意味でいうと、哲学はなかなかうまい具合につかまえているなと思います。プラトンの時代から現代まで、哲学は人間の関係というものを、その一つ一つの関係性というものをトータルにつかまえようとするでしょう。まあ、学校哲学の人たちは無理かもしれませんが。それでも、加藤尚武さんとか、廣松渉先生とかは、単独という形ではないけれど、科学の最先端でも通用するようなことをやっています。 現実知と格闘するようなことをです。
 たしかに最先端でやるのは大事でしょう。でも私にとっては、現に私たちが生きている場面で使える思考法とは何なのか、が一番大切なんです。そういうことを考えようとしているから、お前のやっているのは哲学じゃないっていう人もいます。でも、どうでしょうか。「実用」というと変ですけれど、私は自分を修正主義者っていってきたんです。マルクス主義者の時代からです。なぜ「修正」でしょう。現実が変われば、自分の考え方も即応して変わる。考えを変えていくということは、考える原理も変えなければならない。その時は、しんどいですよ。なぜ変えたのかってことを、自分で説明しなければならない。なぜマルクス主義は間違っているのか、ということを自分で解明しなければならない。マルクス主義は間違っているかもしれない。だが、自分の抱いたものは大事だから、間違いをあまり強調せず、社会や人の考えが変わっていくのにまかせよう。でも俺はマルクス主義を守ってきたのだ。これじゃダメではないでしょうか 。 

 

(宮本)そのうちに、矛盾が生じたり、無理が出てきますよね。 

 

(鷲田)というよりも、何も発言できなくなると思うんです。考えるとは、問題解決能力を発揮することです。つまり、実用的ということで一番大事なことは、どんな問題でも「解決」できるということです。ただし「全面的な解決」はできません。解決といっても、「盤根錯節」を断つように、スパッと全面的に解決するなんてことは、逆にいうと有り得ない。どこまで解決できるのか、それはいったいどんな解決点になるのか、ということをきちんとわきまえていえるかどうか、が決定的に重要なのです。
 だから、清算主義とか武力主義、根本的な革命主義、こういうのは哲学にとって、ほとんど意味を持たなくなってきたと思います。たとえば、構造主義は、対象を共時態と通時態でつかまえます。共時的な問題が解決しても、通時的な問題は解決できない。通時的な問題は形を変えて、また次に現れてくるわけです。人間とは何か(人間の本質)なんて、変わらないでしょう。だけど、人間はいつまでも同じかというと、絶対にそんなことはない。私自身のことを考えても、小さい時からずーっと変わってきている。もともと変なヤツだとは言われてきたけれど、私自身は常識的な人間だと思っています。これも人間の「本質」に関わっているわけです。
 それと、もう一つは、自分でやっぱり納得しないとダメですね。人間が一番すごい点は、自分を納得させる能力をもつことです。賢い人というのは、自分で納得しないことを人にはいわないでしょう。だけど、学校の教師は自分で納得しないことでも人(生徒)にいわなければならない。会社の上司もそうじゃないでしょうか。だけど、自分で納得したからって、大したことではない、ということも大事ですよね。そういう意味で、私たちは常に、出された問題について、自分はこう答える、それから社会とか組織とかが変わらないのなら、自分はここまで変わることができる。こういわないと、「誠実」ではないということですよね。誠実というのもやっかいですね。ドイツ語 で Ehrlichkeit で、「正直」のことです。「一所懸命」やるってことですよ。まずは自分に正直になって、できる限りのことをやるということです。 

 

(宮本)特に、哲学にとっては、それが大事ですよね。 

 

(鷲田)それが基本です。やっぱり歴史に残っている哲学者というのはほとんどが誠実です。ただ、ライプニッツのような人もいるから、簡単じゃないのですが。でも結局、ライプニッツも、いろんな社会の中で泥にまみれてみて、自分の考えを放棄したり、相手を呪ったりした面白い人ですけれど、そういうふうにして折り合いを取らざるをえなくなります。でも誠実に生きていった人は勝ってます。勝ったというのは「残る」ということですが。
 つまり、私たちの言葉というのは誠実ではないんです。裏切ります。でも言葉というのは、一つのアート、技術でしょう。言葉というのは、人間の精神を運ぶアートであると考えると、「思考の技術」の誠実を、ものを考える人間はつねに賭けている、ということができます。

 

 その後は、「ヘーゲルは森羅万象を書き、しかも明解である」「ヘーゲルの哲学は、成功者の哲学である」「基本的人権の根拠にあるのは、私有財産と命である」「仕事のストレスを通過しないと、力は身に付かない」「人生という締切りがあるから頑張ることができる」という小見出しをつけた非常に興味深いお話が展開していきました。

 

 この特集インタビューの全文は、『学問の英知に学ぶ 第六巻』(ロゴスドン編集部編/ヌース出版発行)の「六十五章 幸福への人生哲学」に収載してありますので、ぜひ全文を通してお読み頂き、人生に役立つ哲学について考えて頂ければと思います。