『ロゴスドン 第78号』特集・続編その69 | ヌース出版のブログ

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本日、『ロゴスドン』Webの特集を更新しましたので、当ブログでも紹介します。

 

『ロゴスドン 第78号』特集・続編その69

 

哲学の揚棄を思想的立場として世界の三層構造から人間を考察され、季報『唯物論研究』編集長で大阪哲学学校世話人の哲学者・田畑稔先生にインタビュー!

 

 『ロゴスドン 第74号』の発行は、2008年(平成20年)6月1日でした。この号の特集テーマを「現代世界と人間」にしたのは、前号の特集でインタビューをさせて頂いた鷲田小彌太先生から、哲学・人間論を専攻されていた田畑稔先生をご推薦頂いたからです。鷲田先生と田畑先生は大阪大学大学院で共に哲学・哲学史を研究し合った学友だったそうです。田畑先生は当時、大阪経済大学人間科学部の教授をされていましたので、当研究室でインタビューをさせて頂きました。

 

 

 まず最初に、「哲学の現実形態にこだわる」という小見出しを付けたお話を頂きました。その後は、「マルクスは古くなったのか?」「マルクスと哲学」「マルクスの意識論、唯物論、国家論」「アソシエーション革命」という小見出しを付けたお話が続き、その流れで「日常生活世界の哲学」という小見出しを付けた次のようなインタビューが展開しました。

 

 

(宮本)田畑先生は、日常生活世界の哲学を長年研究されておられますが、今までお話しいただいたアソシエーション論とどうつながってくるのでしょうか。 

 

(田畑)日常生活世界の空洞化にどう対応するかということで、アソシエーション論を私の場合は主張しているものですから、日常生活世界論を抜きにアソシエーション論は語れないという面があるんです。日常生活世界の哲学というものに、この十年ほど時間をかけて、短い論文ですけど、すでに十五本ほど発表しているんです。それを一冊にまとめる形で、ちょっと分厚い本なんですが、今、取り組んでいるんです。

 まず、問題意識なんですが、旧来の変革論というのは私らの世代の反省点としてどうしても大きいんです。今は、ライフスタイルの政治というものを抜きにして、昔風のフランス革命やロシア革命のイメージで革命を考えられないと私は思っているんです。従来の変革論をとなえる人たちには、日常生活論がバサッと抜け落ちているわけですね。明治維新の革命とか戦後の民主化とか、国家権力が危機の時代に革命論がパッと出てくるんですが、そのベースにある日常生活世界の危機というのはかなり深刻化しているわけです。そういう部分に逆に目がいかない。政治の危機ばっかりを追っかけて、目がいってないんじゃないかと。むしろ、ライフスタイルの政治というふうに徐々に切り替えていかないと、新しい政治は展望できないというのが一つにあるんです。 

 

(宮本)「ハイデガーは、日常生活世界と日常性を混同している」と、田畑先生はある本に書いておられますが、どう違うのでしょうか。

 

(田畑)ハイデガーの『存在と時間』という本は非常に魅力あるものです。しかしこの本で日常生活世界がどの断面で切り取られているか。これを見ておく必要があります。平たく言えば、人間存在(現存在)の平均的な、日常的な、没人格的な、物象化された、死や決意性を忘却した、ぺちゃくちゃおしゃべりだけの「非本来的」なあり方が一方にあり、死(有限性)を自覚し決意と責任を自覚する「本来的」あり方が他方にあって、両者を対照的に描き出すこと、そして前者から後者への移行を現象学的に追跡すること、これがこの本の実質です。

 しかしこの「本来性」という捉え方は非常に臭い。哲学者ハイデガーの主要関心事が生活者の主要関心事でないことは自明です。しかし、なぜ哲学者の関心事が「本来性」なのでしょうか。「本来性」と「非本来性」を逆にとってもよいのではありませんか。哲学者たちは自分のそれ自身疎外されたあり方を疎外された世界の批判尺度としてあてがってしまっているというマルクスの厳しい批判を連想させられるわけです。日常生活世界が単なる存在忘却として、非本来としてしか見えてこないのは、生活世界から疎外された哲学者の視界に制約されているからではな いか、と意地悪く言いたくなります。

 哲学の可能性を「生活の吟味」の線で追求するのか、「知恵の愛求」の線で追求するのかという選択肢がここで絡んでくるのではないでしょうか。事実、ハイデガーは生活諸活動も、生活諸意識も、生活諸空間も、生活諸関係も、生活諸時間も、生活諸価値も、それらからなる総体としての日常生活世界も、日常生活世界の歴史的変容も、分節的に総体把握する必要をまったく感じていないように私には読めます。彼の基本関心がそれを必要としていないからです。

 また現代世界は直接層としての日常生活世界だけからなるのではありませんよね。さらに歴史層としての「近代世界システム」、基底層としての自然世界。これら3つの基本層からなっています。日常生活世界は自律系ではなく歴史世界や自然世界を不断に織り込みながら個性的に織り上げられていくのです。ところが日常性を死の自覚や決意性へと超えることに基本関心があるために、彼の日常世界は歴史世界や自然世界へ展開しない。彼のナチス体験の欠陥は、死の自覚や決意性へと日常性を超えただけで歴史的実践に飛躍した点にあったとも言えます。

 ハイデガーだけではなくて、ブローデル、それから現象学的社会学、日常意識分析で非常に魅力のある分析をやっているエスノメソドロジー。これらもしかし、日常生活世界論としては扱っていない。それから、柳田民俗学ですね。これは日常世界の中の古い層ですね。今も昔のお盆の行事が残っているという古層に着目していく。それで、昔の日常世界をそこから推測していく。これも非常に勉強になるんです。しかし、現に柳田国男自身が入り込んでいる日常生活世界があるはずですから、そういうところは正面から扱っているわけではもちろんない。民俗学ですから、いわば生活世界の中の古層をさぐりながら、過去の日常世界を推測するというのが柳田の方法です。

 現象学的精神医学というのも、日常性を理解する場合に大事なものです。例えば、統合失調症になりますと、日常性そのものが崩れるわけです。逆に日常性の持つ抑圧性も問題となる。そういう点でも非常に大事なんです。だからといって、現在における日常生活世界を批判的に吟味するという課題からすれば一つの重要なポイントではあるにしても、やはり一つのメスに留まる。

 日常生活世界を一番包括的に扱っているのは、私はルフェーブルだと思います。ルフェーブルで特にヒントになったのは、「生活空間論」です。ただ、日常生活世界を世界論として展開するというより、どちらかというと、資本主義が新しくステップアップするに従って、生活世界がどう変容していくかというような、そういう社会学的な分析です。

 そういう自負を持つ以上は、やっぱり、私もしっかりとした全体叙述をしないといけないということで現在執筆中なんですが、序論的にまず三つ書こうと思っています。一つが「哲学論」で、最初に言いましたように、生活の吟味として哲学を再定義する。それによって、日常生活世界を全体として扱うという課題設定がはっきりできるだろうと。社会学とかエスノメソドロジーとか、そういうものとは違って、むしろ哲学的な対象として世界論を持つことができるのではないか、というのが最初の前提です。それに続いて、「世界と自我」も序論に当たるわけですが、世界とは何かということですね。日常生活世界を自立系として見たら日常生活主義になってしまうものですから、私としては三層の世界で我々現代人は生きている。しかし、直接には日常生活世界で生きていて、これが歴史世界と自然世界とを織り込みながら、日常生活世界を織り上げていくと、こういうような世界論です。

 ヤスパースをはじめ多くの哲学者は世界論を書いているんですが、重層の世界という形では伝統的な世界論は扱っていないんです。私としては、一重の世界論ではダメだと思います。直接生きていくために構築する世界を織り上げようと思うと、当然歴史世界を織り込まないといけない。例えば、私の親とかお祖父ちゃんの代であれば、 家業で日常生活世界を織り上げることが出来ました。ところが今は労働市場で織り上げないとダメですから、歴史世界からまったく自由ではあり得ない。むしろ、歴史世界を織り込むことなしには、日常生活世界は成立しない。 その三つの世界を相互織り込みの関係として描いていく。日常生活世界を論じるのは、けっして日常生活世界だけを見ておればいいという意味ではないんです。日常生活世界に即して、三つの世界を見るということです。

 次に「自我論」ですが、日常生活世界は自然世界や歴史世界と異なり、人称的に分節化した世界です。その中心に「私」がありますが、この「私」はただちに「君」の「君」、「彼」の「彼」で相対的中心項にすぎません。「私」 は「君たち」とともに親密圏という日常生活世界のコアをつくっています。また「私」は「我々」という共同主観と不可分に生きていますが、この共同主観も情緒的共同主観、常識的共同主観、倫理的共同主観、言語的共同主観、 そして論理的共同主観のように重層をなしております。

 「私の身体」は「今ここ」という世界の中心を成立させています。日常生活世界では生理学的身体でなく「生きられる身体」に注目しなければなりません。顔は相互視の中にあり、私の「顔」を見ることは私自身を見ることです。私の身体は人生を通して構築された身体技法の総体でもあります。「私」の同一性と責任主体の問題もあいかわらず重要ですし、「実存としての私」というテーマも、「私」の危機局面をとらえるものです。

 総じて言えば「自己意識としての自我」はデカルトからカントやフッサールまで確実な知の基礎付けの線でだけ注目されてきました。しかしイェーナ期のヘーゲル以降、自己意識論は相互承認論として再展開され、これがミードの社会的自我やハーバーマスの相互行為論につながっています。この推移を押えることが重要でしょう。

 このように「哲学論」「世界論」「私論」という序論部分を終えた上で、これに続いて、「生活活動論」で生活活 動の全体図を描きつつ我々の時代の生活活動の偏りを論じ、「意識論」で日常知や日常意識や常識の特質を論じ、「生活空間論」で日常生活空間の断片化と変遷を論じ、「生活関係論」で家族をコアにした日常生活諸関係を論じ、「生活時間論」で人生を論じ、「生活価値論」で幸福を論じ、そして「生活世界の変容論」へと展開する予定になっております。

 

(宮本)田畑先生が編集長をされていらっしゃる季報『唯物論研究』の第九十五号で、田畑先生ご自身も論文を書いておられて、「時間から見た日常生活世界」は特に興味深かったんですが、これも日常生活世界の全体叙述の中に入りますよね。

 

(田畑)そうですね。日常的時間は、循環的時間と段階的時間とドラマ的時間があって、これはハイデガーの『存在と時間』を意識した話になるんです。生命や生活は吐く吸う吐く吸うとか、朝起きて学校に行って戻ってきて寝るとか、「循環的時間」がベースです。それと、誕生、成長と老衰といった「階段的時間」も流れますね。日常生活の時間は、主としてこの二つなんです。しかし、この循環的時間でも、一歩間違えばすぐに「ドラマ的時間」に移るわけです。例えば、朝起きて目が覚めたのに欝で会社へ行けない。この時、もう循環的時間は崩れます。会社から「君はもう、このまま会社を辞めて、他の会社を探しなさい」とか言われて弾きとばされる。そのようにドラマ型の時間が突然訪れてくる。それは日常的時間の切断です。

 ドラマというのは、いつも日常的時間から始まるんですが、突然切断されて、そこから劇の展開になっていきますよね。あれは、実生活の中にある時間を捉えていると思うんです。そのドラマ型時間は、日常生活世界にはないということではなくて、むしろ日常生活世界の一番の中心に危機の時間というのがある。ハイデガーの不安の問題とか、死の問題とか、そういうのは日常生活世界論でいえば、非常に重要な要素をなしてくると思います。実存的なものも、ここになろうかと思います。

 幸福論について言えば、いくつかの幸福類型を出して、その幸福類型の意味の変容を追跡する。若者たちは楽しい人生を求め、徳ある人生のような清貧の思想はあまり好まない。それから伝統社会としては、ラッキーとしてのハッピーで、たまたま幸せを恵んでもらえたという感謝の人生観ですね。そのような格好で、いくつか幸福論を類型化して、それで幸福の場合には価値判断ですから、尺度依存性があるということで、価値尺度をめぐる議論になっ ていくのではないかと考えています。

 最後が日常生活世界の歴史的変容ということで、その基軸は生活基盤が家業から労働市場に移ったことが一番大きいと思います。それと情報革命ですね。この情報革命もまだ最終的には何を意味するのか、我々は読み取れてないわけですけど、まだ五十年くらいしか経っていないわけですからね。産業革命は三百年、農業革命は一万年くらいですから、その意味はそれぞれなりにこなれてきてますけど、情報革命についてはまだ分かりません。これをどう捉えるかというのがポイントになろうかと思います。

 

 

 その後は、「人間科学の新展開」「人類史再考」という小見出しをつけた非常に興味深いお話が展開していきました。

 

 この特集インタビューの全文は、『学問の英知に学ぶ 第六巻』(ロゴスドン編集部編/ヌース出版発行)の「六十六章 現代世界の人間哲学」に収載してありますので、ぜひ全文を通してお読み頂き、世界の三層構造から人間について考えて頂ければと思います。