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本日、『ロゴスドン』Webの特集を更新しましたので、当ブログでも紹介します。

 

『ロゴスドン 第78号』特集・続編その71

 

シンボリック相互作用論研究の第一人者で、東北大学文学部社会学科在学中に日本を代表する社会学者である新明正道の薫陶を受けた社会学博士の社会学者・船津衛先生にインタビュー!

 

 

 『ロゴスドン 第76号』の発行は、2008年(平成20年)12月1日でした。この号の特集テーマを「コミュニケーション」にしたのは、前号の特集インタビューにおける情報学者・西垣通先生の「~あらゆる生命のつくるネットワークの中でわれわれ人間も生きている。生命的なアクティビティーを尊重しないと滅びてしまうのです~」というお話があったからです。船津先生は当時、放送大学の教授をされていましたので、当大学の会議室でインタビューをさせて頂きました。

 

 

 

 まず最初に、「自我との関係でコミュニケーションを考える」という小見出しを付けたお話を頂きました。その後は、「自己目的的コミュニケーションへ」「内的世界を創造する人間のコミュニケーション」「自我は他者との関係で社会的に出来上がっている」「既存の役割の枠を超えて新しい人間形成を展開する」という小見出しを付けたお話が続き、その流れで「人々の感情疎外という事態が起こっている」という小見出しを付けた次のようなインタビューが展開しました。

                                                  

 

(宮本)ところで、ゴフマンの印象操作論についてですが、最近の若者は印象操作をうまくやって自己を表現する手段にしていますし、人と人とのコミュニケーションにおいても、言葉以外に、そういった外見も重要なメディアだと思われますが、自分の気持ちや意見を他者に表現する場合、実際はどんなものがあるのでしょうか。 

 

(船津)この問題は二つに大きく分けられると思います。第一は、自我形成のためのコミュニケーションの役割ということで、これはさらに三つほど考えています。一つ目は自己を他者に理解してもらう自己表現のためのコミュニケーション。二つ目は他者理解のためのコミュニケーション。三つ目は自己理解のためのコミュニケーションです。
 最初の自己表現のためにというのは、自分を表現しない限り相手からの認識や評価を得ることはできないから、表現をすることが必要だということです。二つ目の他者理解のためにというのは、自我は他者との関わりにおいて社会的にできあがっていますので、「鏡に映った自我」として、他者の認識や評価を知ることを通じ、自分の自我を知るようになる。それで、他者の意見や態度また期待を具体的に知るために他者とコミュニケーションをする必要があるということです。それから三つ目の自己理解のためにというのは、相手とコミュニケーションをすることを通じて自分を理解するということです。他者との外的コミュニケーションと同時に自己との内的コミュニケーションがなされる。内的コミュニケーションは自分を理解する、そういう形でのコミュニケーションが可能という意味で、自己とのコミュニケーションの関係を考えることができるということです。
 それに関連してコミュニケーション・メディアですが、一般的にはコミュニケーションというのは言葉が中心だし、最も重要なメディアというふうに言われてきているのですが、言葉が唯一のメディアではなく、言葉以外にさまざまなメディアがあります。一般的には顔の表情とか目の動きとか、身ぶり、手ぶりというのがあります。われわれ日本人の場合、微妙な目の動きに意味があるということがよく言われています。上目づかいとか、目くばせとか、流し目とかね。目というのは意外と大きなコミュニケーション・メディアになっているということが言われています。加えて、単なる身ぶり、手ぶり、顔の表情だけではなく、最近特に言われているのは、眼鏡とか髪の形とか服装とか、さまざまなモノです。これらは本来、別の機能を持っていました。例えば眼鏡は老眼とか近視とか乱視とか、そういうもののために使用するわけですけれど、それ以外の機能としてコミュニケーション・メディアになっているということです。服装も、寒いから、暑いからということではなくて、コミュニケーション・メディアになっている。髪の形も、実はそうなっているということがけっこう意味があります。
 最近、眼鏡屋さんに行きましたら、非常にカラフルになっていて、種類もたくさんある。眼鏡屋さんが言うには、眼鏡は気分に応じて使いわけるのだと。近眼だからということよりも、明るい眼鏡をかけることによって自分の明るさを表現するとか、その逆もありますけどね。だから眼鏡も自己表現するメディアになっている。 服装は、もう典型的なメディアで、どういう服装を着るかによって、その人が自分を表現する。だから、病院の中で白衣を着ていれば、ドクターかナースかって分かりますね。一流のブランドの製品を着ていれば、セレブかとか。そういう形で服装で身分の表現が可能であるということがあります。それから髪の形ですが、髪の形自体が実は自分がどうであるかを相手に伝えるすごいメディアになっている。だから、髪を切った後で、必ず、どうしたのと聞かれる。別に何でもないと思っていても、やっぱり気持ちの変化を相手に伝えることになると言われています。外見が、なぜ今、重視されるかということで、ゴフマンは、「人間は外見が大切な存在である。なぜ外見が大切かというと、人間の行為というのは演技である」ということを言ったのです。ちょっと極端ではないかと思うのですが、英語のアクションという言葉を字引で引くと、最初に「行為」とあり、二番目に「演技」があります。二番目に来ることにびっくりするのですが、アクターという言葉を引くと、アクターこそ俳優なのです。そして二番目に行為者だから、英語で言うと、行為と演技というのは、それほど違いはないと。そういう形で意外と現代の若者に受け入れられていまして。なぜ演技かというと、相手の目を意識してやるのだと。相手の目を意識して行為するというのが当たり前になった。相手の目を意識して自分の行為をするということがそこで行われているわけです。だから、若者が他人の目を気にするというのは、それほどおかしいわけではないと。そして他人の目を気にして何をするかというと、いいものを見せ、悪いものは見せたくない。これをゴフマンは「印象操作」(impression management)と言っているのです。自分をいいものに見せたい。中身ではなく外見が良ければいい。だから、外見を良くしなさいと。これは意外と、われわれもやっているのです。暗い顔をしないで、なるべく明るい顔をしなさいとか、若く見せようとかね。実際は太っているけれども、やせているように見せようとか。これらは印象操作を行っているということになるわけです。
 それと同時に、感情も操作していると。これは、ホックシールドという社会学者が言っているのですが、特にフライト・アテンダント、つまり客室乗務員のあのスマイルは何かというと、確かにスマイルを受けたほうはいい感じを持つわけですけれども、本人はスマイルすることが仕事になっていると。それを感情の商品化と言うわけです。
 そういうスマイルをすることによって、相手に対する関係を良くしようということは当たり前だと。そういうスマイルをすることが、ただ、顔だけではない。心の中も操作をしている。心の中というのは、感情表現だけではなくて、感情それ自体の操作もしていると。顔だけをスマイルにすることはできない。どういうふうにしているかというと、このお客さんは初めて飛行機に乗ったので、私に対する言葉遣いが分からないから、「お姉ちゃん」と言うのだろうと。そのようにして、怒らないという感情をつくりあげる。しかも、明るい感情をつくるようにしてしまう。
 だから、感情表現だけでなくて、感情それ自体の操作をしている。ゴフマンの場合の印象操作は表面的なものですが、感情操作は内面的だと。深層操作だと。深層操作で、感情自体を操作することだということを強調しています。
 今、女性が社会的進出をすると、多くがサービス産業につく。すると、女性の半分はこういう感情操作をしなければならない。それが労働になっているので、感情労働という言葉が使われます。女性の半分は感情労働で、男性もそういうサービス労働が増えてくると、多くの人が感情労働をしなければならない。それで結果としてどうなるかというと、笑いたいのに笑えないとか、自分の感情が疎外されてくる。自分の感情が何であるか分からないと。そういう感情疎外現象が起こってくるということが言われている。女性の社会的進出が、笑わない女性を増やすとか。笑いたくても笑えないという、そういう人が増えてくる。
 そういうことで出てくる一つの問題は、本当は怒っているけれども、笑っている。そうすると、笑っている自分は本当の自分ではない、うその自分だと。本当の自分はほかに置いてくる。うその自分で勝負するということをやるのが、まさに感情労働です。でも、これは結果として、心から笑えなくなる。笑えなくなるというのは本当の自分がなくなってしまうということです。うその一人歩きになってしまう。うその一人歩きになっていて、ハッと気がついたときに、自分がないという意味で、自己疎外が起こるということになる。そういう働きの中に人々の疎外現象が一般化してくるという問題が生じてきているのです。

 

(宮本)そうなりますと、本当の自分が出せる家族の役割というのは非常に高まってくると思われますが、今の一 般的な家族形態というのは核家族ですし、家庭でもコミュニケーションの希薄化が進んでいるという側面はあるにせよ、やはり家族とのコミュニケーションと企業組織でのコミュニケーションは随分と違ってくるでしょうね。 

 

(船津)これが、実は複雑に絡み合っているのです。基本としては、家族の中では親密な関係があって、そこで自我形成がなされると。これはクーリーという人が最初に強調した「第一次集団」です。第一次集団というのは、家族とか遊び仲間を指し、その中で身近な人間との親しい関係が生まれていく。そして、そこにおいて自我が形成される。だから、自我形成は家族の中で、家族の親しい人間との関係の中で生まれるというモデルがあったのです。そして逆に、企業ではそういうものはなくて、冷たい関係の中で自分を演じなければならない。そういう面があったのですが、最近、もうそう簡単ではなくなってしまった。 先ほどのターナーのインティメートな自我について新しい事実が明らかになりました。それは何かというと、T SM(True Self Methoed)という調査におきまして、本当の自分とは何かということと、本当でない自分、つまりうその自分ということを聞いたのです。うまくいったときにはいいのですが、失敗した場合には、これは本当の自分ではないと。それから、みんなで一緒にやるときにマイペースで自分本位でやってしまった。でも、これは本当の自分ではないと。と同時に、もう一つ、親しい人との関係の中に、これは自分ではないというのがよくある。どういうことかというと、親しい人間と話しているときに、これは自分ではないという不誠実な気持ちが起こる。どういうことかというと、親と話しているときに親に合わせる、友達と話しているときも、つい友達に合わせてしまう。でも、後でなんかこう、あれは自分ではないというのがある。だから、親しい人との関係の中でさえ、装っている。装った結果、これは本当の自分ではないという、そういう意味で、不誠実な自分だということが言われます。
 従来、企業の中で自分を装うということはあったけれど、最近では家庭、友達、そういう中で自分らしさを装うということがある。これは家族や親しい人間との親密性というものがちょっと変わってきたと。親密性というものが、本当に家族にあるかという話もありますが、親密性はそのまま自然に生まれてくるわけではなく、ある意味でつくっていかなければならない。家族の中でいつも親密性があって、自我が素直につくられていくということに必ずしもなっていなくて、現在では、むしろ装わなければならない。合わせなければならない。空気を読まなければならない。そういう意味で、けっこう親しい友達と話した後、疲れるというのがあるようです。
 仕事で一生懸命やって疲れて帰るのだけれど、うちに帰っても疲れると。これは考えてみると、企業の場合は、その中に居る人間と企業の理論が合わなくて、企業が合理性を重視して、あまり独自性を言ってはいけないと。企業の論理に従って、皆、同じようにやりなさいというふうにいっているときに、個性を発揮したり、自己実現したりということはうまくいかない。これはある意味でしょうがないと言われている。でも、家庭の中ではそんなことはしなくていいと。好きなようにと思ったのに、今、装わなければならないというのは、家庭とか親しい人間の関係それ自体が、ズレとか対立のようなものが入ってきた。そこに会社の論理が入ってきたということもあるけれど、同時に家庭や親しい人間関係自体が、自然に仲がいいもの、親密なものとも言えなくなってしまった。だから、改めて親密さとか優しさを考えて、つくり直していかなければならない。それ自体、逆になってきたということだと思います。

 

(宮本)最近の異常な犯罪も、そのあたりに原因があるのかもしれませんね。 

 

(船津)そうですね。最近はよく、子殺しとかあって、なぜ親が子殺しをするのかとかね。逆に言うと、親子の対立が激化してしまったというのもあるでしょうけれど、自分自身がどうしていいか分からないという人がけっこうあって、周りにいる人なら誰でもいい、一番近くにいる人を殺してしまう。だから、親子関係の対立として捉えるよりも、本人自身がどうしていいか分からないという面が本当にあって、こういう事態が出てくるのかなと思います。企業のほうは、合理性の倫理によって自己実現というものが押さえ付けられるために、組織離れというか、会社 を辞める若者が増えていますが、今の場合は会社を辞めてしまうとなかなか仕事がないといったフリーター問題がありますからね。そこで、企業に戻せばいいと、最近そういう政策が出ています。戻せばいいかというと、結局、また不満が出てくる。その不満の最大理由は、組織の合理化が進めば進むほど自己実現の可能性が薄められるということです。この問題が解決しなければ、企業の中でもただ正社員になればいいというわけでもない。正社員に戻ったときの企業組織の在り方として、少なくとも自己実現が可能となる、そういう組織の在り方にしなければならないということで、組織の在り方の変化みたいなこともこれから考えておくべきではないかと思われます。 

 

(宮本)その組織の中で最も合理的だとされているのが官僚制ですが、この制度もそろそろ見直す必要がありそうですね。


(船津)今、官僚制のようなものが全般に広がっていると思います。身近な形で起こっているのはマクドナルド化です。マクドナルド化というのは、官僚制の現代版だと、リッツアーという人が言いました。官僚制組織が広がり、それが現代版として出てきて、合理化して、どこにいても同じものがスムーズに出てくる。誰が来てもにこにことしてくれる。だから、モノのスムーズさ以上に、サービス、笑顔です。その笑顔はどこに行っても同じです。私が行こうが、誰が行こうが、みんなにこやかにやってくれる。そういう形で、どこに行っても同じものが出てくるという、そういう形での画一化というのがマクドナルド化と言われています。それで、このマクドナルド化を通じて、 逆に店員の方とか、そういうやり方にやはり先程言った感情疎外という事態も起こっているのです。これは非常に 深刻な問題だと思われます。 

 

 

 その後は、「人間同士のほっとするようなコミュニケーションへ!」という小見出しをつけた非常に興味深いお話が展開していきました。

 

 

 

 この特集インタビューの全文は、『学問の英知に学ぶ 第六巻』(ロゴスドン編集部編/ヌース出版発行)の「六十八章 自我のコミュニケーション哲学」に収載してありますので、ぜひ全文を通してお読み頂き、自我のあり方についてコミュニケーションとの関わりにおいて考えて頂ければと思います。

本日、『ロゴスドン』Webの特集を更新しましたので、当ブログでも紹介します。

 

『ロゴスドン 第78号』特集・続編その70

 

日立製作所主任研究員として第一線でOS等の研究をされた後、『デジタル・ナルシス』でサントリー学芸賞を受賞された工学博士で東京大学名誉教授の情報学者・西垣通先生にインタビュー!

 

 

 『ロゴスドン 第75号』の発行は、2008年(平成20年)9月1日でした。この号の特集テーマを「情報学」にしたのは、前号の特集インタビューにおける哲学者・田畑稔先生の「~二つの情報系として人間を理解していく~」というお話があったからです。西垣先生は当時、東京大学大学院情報学環の教授をされていましたので、当研究室でインタビューをさせて頂きました。

 

 

 

 まず最初に、「情報とは本来、生命的な存在である」という小見出しを付けたお話を頂きました。その後は、「第一人称的なところから迫ると、フレーム問題は解消する」「生命体は、オートポイエティック・システムである」「動物は経験的に、自分の中に意味構造をつくっていく」「一神教が普遍論理を生み、コンピュータが出来た」という小見出しを付けたお話が続き、その流れで「ネットを通じた身体性と人格の乖離が起きつつある」という小見出しを付けた次のようなインタビューが展開しました。

                                                  

 

(宮本)『ロゴスドン』第七四号の特集で、哲学者の田畑稔先生が、「サイバー機械としての人間を見て、人間と機械が接近し、その点でも人類史は曲り角にくる」とおっしゃいましたが、西垣先生は、どのようにお考えですか。 

 

(西垣)ご指摘の通り、これまでは、近代の人間モデルというものがあった。人間は普遍論理であらわされる理性を分かち持っている存在だというモデル。デカルトのいった理性ベースの近代人モデルですね。それが近代の価値観を作ってきたわけです。もはや王様や貴族が偉いのでなく、普通の人もそれぞれ理性を持っていて、それぞれに尊重されるべきだというのが近代のモデルです。
 それが今や、ITによって、変化しつつある。つまり、理性って何なのか、という話です。例えば、今、ブログなんてものがありますね。あれは単なる日記ではない。一人が複数の人格、多重人格みたいになれる。男が女になり、女が男になって書くことも出来る。僕が書いた『サイバーペット』(千倉書房)という小説はそういう話なんです。
 多重人格によって主人公が迷路に巻き込まれていって、犯罪をおかしてしまう、という話なんです。今までは、人間というのは、自立した身体と一体になっていて、かけがえのないインディビジュアル(個人)であると考えられていた。個人の心に理性が宿るというわけです。言葉というのも、本来は理性的な言葉であるべきだという理念もあった。それが、インターネットの中で、いわば、いろんな人格をつくり出せるようになった。逆に、何人か一緒になって融合人格みたいなものをつくり上げて、共通のブログを書いたっていいわけですよ。だからいわゆる、神聖なインディビジュアルという神話が崩れつつあるんです。端的に言えば、ITあるいはネットを通じた身体性と人格の乖離というものが起きつつある。これが、今までの近代人モデルというものを解体させつつあるということだと思います。

 

(宮本)無料で、簡単に出来るというのもありますが、ブログをやる人が急速に増えつつありますね。 

 

(西垣)実は、日本は世界一のブログ大国なんですよ。総務省の調査によりますと、アメリカも非常に多いんですが、日本はアメリカを抜いて一位ですね。もう、一千万人を軽く超えていますからね。

 

(宮本)日本で、そんなにブログが流行るというのは、どういう背景が考えられますか。 

 

(西垣)日本人は日記が好きなんですよ。ある意味では、ナルシスが多いとも言えますね。日記というのは、本来、自分で書けばいい。自分で書いて、自分で読んでいればいいわけです。しかし実はそういう自分を他人に見て欲しいわけですよ。誰かに、しかも、こっそりとね。ネットのなかのナルシスだから、デジタル・ナルシスなんです。 私が『デジタル・ナルシス』(岩波書店)という本を書いたのは、もう二〇年ちかく前なんです。発行は一九九一年ですが、八〇年代末から書いていた原稿をまとめた本ですからね。私にはその頃から、今のような状態が薄々見えていました。むろん、まだ、ブログは出ていませんでしたけれど。ブログが出てきたのは、九・一一テロ以降ですからね。 

 

(宮本)ブログによって知らず知らずのうちに身体性と人格の乖離が起きつつあるということを、ブログをやっている本人たちが気づいていないということも恐いですね。

 

(西垣)ブログは必ずしも、いいことばかりではないかもしれない。だけど、単にそれを否定してはいけないと思いますね。 

 

 

 その後は、「生命的な活力を抑圧しないタイプ3コンピュータへ!」という小見出しをつけた非常に興味深いお話が展開していきました。

 

 この特集インタビューの全文は、『学問の英知に学ぶ 第六巻』(ロゴスドン編集部編/ヌース出版発行)の「六十七章 意味作用の情報哲学」に収載してありますので、ぜひ全文を通してお読み頂き、意味作用と人間の為の魅力的な情報社会について考えて頂ければと思います。

 

 

本日、『ロゴスドン』Webの特集を更新しましたので、当ブログでも紹介します。

 

『ロゴスドン 第78号』特集・続編その69

 

哲学の揚棄を思想的立場として世界の三層構造から人間を考察され、季報『唯物論研究』編集長で大阪哲学学校世話人の哲学者・田畑稔先生にインタビュー!

 

 『ロゴスドン 第74号』の発行は、2008年(平成20年)6月1日でした。この号の特集テーマを「現代世界と人間」にしたのは、前号の特集でインタビューをさせて頂いた鷲田小彌太先生から、哲学・人間論を専攻されていた田畑稔先生をご推薦頂いたからです。鷲田先生と田畑先生は大阪大学大学院で共に哲学・哲学史を研究し合った学友だったそうです。田畑先生は当時、大阪経済大学人間科学部の教授をされていましたので、当研究室でインタビューをさせて頂きました。

 

 

 まず最初に、「哲学の現実形態にこだわる」という小見出しを付けたお話を頂きました。その後は、「マルクスは古くなったのか?」「マルクスと哲学」「マルクスの意識論、唯物論、国家論」「アソシエーション革命」という小見出しを付けたお話が続き、その流れで「日常生活世界の哲学」という小見出しを付けた次のようなインタビューが展開しました。

 

 

(宮本)田畑先生は、日常生活世界の哲学を長年研究されておられますが、今までお話しいただいたアソシエーション論とどうつながってくるのでしょうか。 

 

(田畑)日常生活世界の空洞化にどう対応するかということで、アソシエーション論を私の場合は主張しているものですから、日常生活世界論を抜きにアソシエーション論は語れないという面があるんです。日常生活世界の哲学というものに、この十年ほど時間をかけて、短い論文ですけど、すでに十五本ほど発表しているんです。それを一冊にまとめる形で、ちょっと分厚い本なんですが、今、取り組んでいるんです。

 まず、問題意識なんですが、旧来の変革論というのは私らの世代の反省点としてどうしても大きいんです。今は、ライフスタイルの政治というものを抜きにして、昔風のフランス革命やロシア革命のイメージで革命を考えられないと私は思っているんです。従来の変革論をとなえる人たちには、日常生活論がバサッと抜け落ちているわけですね。明治維新の革命とか戦後の民主化とか、国家権力が危機の時代に革命論がパッと出てくるんですが、そのベースにある日常生活世界の危機というのはかなり深刻化しているわけです。そういう部分に逆に目がいかない。政治の危機ばっかりを追っかけて、目がいってないんじゃないかと。むしろ、ライフスタイルの政治というふうに徐々に切り替えていかないと、新しい政治は展望できないというのが一つにあるんです。 

 

(宮本)「ハイデガーは、日常生活世界と日常性を混同している」と、田畑先生はある本に書いておられますが、どう違うのでしょうか。

 

(田畑)ハイデガーの『存在と時間』という本は非常に魅力あるものです。しかしこの本で日常生活世界がどの断面で切り取られているか。これを見ておく必要があります。平たく言えば、人間存在(現存在)の平均的な、日常的な、没人格的な、物象化された、死や決意性を忘却した、ぺちゃくちゃおしゃべりだけの「非本来的」なあり方が一方にあり、死(有限性)を自覚し決意と責任を自覚する「本来的」あり方が他方にあって、両者を対照的に描き出すこと、そして前者から後者への移行を現象学的に追跡すること、これがこの本の実質です。

 しかしこの「本来性」という捉え方は非常に臭い。哲学者ハイデガーの主要関心事が生活者の主要関心事でないことは自明です。しかし、なぜ哲学者の関心事が「本来性」なのでしょうか。「本来性」と「非本来性」を逆にとってもよいのではありませんか。哲学者たちは自分のそれ自身疎外されたあり方を疎外された世界の批判尺度としてあてがってしまっているというマルクスの厳しい批判を連想させられるわけです。日常生活世界が単なる存在忘却として、非本来としてしか見えてこないのは、生活世界から疎外された哲学者の視界に制約されているからではな いか、と意地悪く言いたくなります。

 哲学の可能性を「生活の吟味」の線で追求するのか、「知恵の愛求」の線で追求するのかという選択肢がここで絡んでくるのではないでしょうか。事実、ハイデガーは生活諸活動も、生活諸意識も、生活諸空間も、生活諸関係も、生活諸時間も、生活諸価値も、それらからなる総体としての日常生活世界も、日常生活世界の歴史的変容も、分節的に総体把握する必要をまったく感じていないように私には読めます。彼の基本関心がそれを必要としていないからです。

 また現代世界は直接層としての日常生活世界だけからなるのではありませんよね。さらに歴史層としての「近代世界システム」、基底層としての自然世界。これら3つの基本層からなっています。日常生活世界は自律系ではなく歴史世界や自然世界を不断に織り込みながら個性的に織り上げられていくのです。ところが日常性を死の自覚や決意性へと超えることに基本関心があるために、彼の日常世界は歴史世界や自然世界へ展開しない。彼のナチス体験の欠陥は、死の自覚や決意性へと日常性を超えただけで歴史的実践に飛躍した点にあったとも言えます。

 ハイデガーだけではなくて、ブローデル、それから現象学的社会学、日常意識分析で非常に魅力のある分析をやっているエスノメソドロジー。これらもしかし、日常生活世界論としては扱っていない。それから、柳田民俗学ですね。これは日常世界の中の古い層ですね。今も昔のお盆の行事が残っているという古層に着目していく。それで、昔の日常世界をそこから推測していく。これも非常に勉強になるんです。しかし、現に柳田国男自身が入り込んでいる日常生活世界があるはずですから、そういうところは正面から扱っているわけではもちろんない。民俗学ですから、いわば生活世界の中の古層をさぐりながら、過去の日常世界を推測するというのが柳田の方法です。

 現象学的精神医学というのも、日常性を理解する場合に大事なものです。例えば、統合失調症になりますと、日常性そのものが崩れるわけです。逆に日常性の持つ抑圧性も問題となる。そういう点でも非常に大事なんです。だからといって、現在における日常生活世界を批判的に吟味するという課題からすれば一つの重要なポイントではあるにしても、やはり一つのメスに留まる。

 日常生活世界を一番包括的に扱っているのは、私はルフェーブルだと思います。ルフェーブルで特にヒントになったのは、「生活空間論」です。ただ、日常生活世界を世界論として展開するというより、どちらかというと、資本主義が新しくステップアップするに従って、生活世界がどう変容していくかというような、そういう社会学的な分析です。

 そういう自負を持つ以上は、やっぱり、私もしっかりとした全体叙述をしないといけないということで現在執筆中なんですが、序論的にまず三つ書こうと思っています。一つが「哲学論」で、最初に言いましたように、生活の吟味として哲学を再定義する。それによって、日常生活世界を全体として扱うという課題設定がはっきりできるだろうと。社会学とかエスノメソドロジーとか、そういうものとは違って、むしろ哲学的な対象として世界論を持つことができるのではないか、というのが最初の前提です。それに続いて、「世界と自我」も序論に当たるわけですが、世界とは何かということですね。日常生活世界を自立系として見たら日常生活主義になってしまうものですから、私としては三層の世界で我々現代人は生きている。しかし、直接には日常生活世界で生きていて、これが歴史世界と自然世界とを織り込みながら、日常生活世界を織り上げていくと、こういうような世界論です。

 ヤスパースをはじめ多くの哲学者は世界論を書いているんですが、重層の世界という形では伝統的な世界論は扱っていないんです。私としては、一重の世界論ではダメだと思います。直接生きていくために構築する世界を織り上げようと思うと、当然歴史世界を織り込まないといけない。例えば、私の親とかお祖父ちゃんの代であれば、 家業で日常生活世界を織り上げることが出来ました。ところが今は労働市場で織り上げないとダメですから、歴史世界からまったく自由ではあり得ない。むしろ、歴史世界を織り込むことなしには、日常生活世界は成立しない。 その三つの世界を相互織り込みの関係として描いていく。日常生活世界を論じるのは、けっして日常生活世界だけを見ておればいいという意味ではないんです。日常生活世界に即して、三つの世界を見るということです。

 次に「自我論」ですが、日常生活世界は自然世界や歴史世界と異なり、人称的に分節化した世界です。その中心に「私」がありますが、この「私」はただちに「君」の「君」、「彼」の「彼」で相対的中心項にすぎません。「私」 は「君たち」とともに親密圏という日常生活世界のコアをつくっています。また「私」は「我々」という共同主観と不可分に生きていますが、この共同主観も情緒的共同主観、常識的共同主観、倫理的共同主観、言語的共同主観、 そして論理的共同主観のように重層をなしております。

 「私の身体」は「今ここ」という世界の中心を成立させています。日常生活世界では生理学的身体でなく「生きられる身体」に注目しなければなりません。顔は相互視の中にあり、私の「顔」を見ることは私自身を見ることです。私の身体は人生を通して構築された身体技法の総体でもあります。「私」の同一性と責任主体の問題もあいかわらず重要ですし、「実存としての私」というテーマも、「私」の危機局面をとらえるものです。

 総じて言えば「自己意識としての自我」はデカルトからカントやフッサールまで確実な知の基礎付けの線でだけ注目されてきました。しかしイェーナ期のヘーゲル以降、自己意識論は相互承認論として再展開され、これがミードの社会的自我やハーバーマスの相互行為論につながっています。この推移を押えることが重要でしょう。

 このように「哲学論」「世界論」「私論」という序論部分を終えた上で、これに続いて、「生活活動論」で生活活 動の全体図を描きつつ我々の時代の生活活動の偏りを論じ、「意識論」で日常知や日常意識や常識の特質を論じ、「生活空間論」で日常生活空間の断片化と変遷を論じ、「生活関係論」で家族をコアにした日常生活諸関係を論じ、「生活時間論」で人生を論じ、「生活価値論」で幸福を論じ、そして「生活世界の変容論」へと展開する予定になっております。

 

(宮本)田畑先生が編集長をされていらっしゃる季報『唯物論研究』の第九十五号で、田畑先生ご自身も論文を書いておられて、「時間から見た日常生活世界」は特に興味深かったんですが、これも日常生活世界の全体叙述の中に入りますよね。

 

(田畑)そうですね。日常的時間は、循環的時間と段階的時間とドラマ的時間があって、これはハイデガーの『存在と時間』を意識した話になるんです。生命や生活は吐く吸う吐く吸うとか、朝起きて学校に行って戻ってきて寝るとか、「循環的時間」がベースです。それと、誕生、成長と老衰といった「階段的時間」も流れますね。日常生活の時間は、主としてこの二つなんです。しかし、この循環的時間でも、一歩間違えばすぐに「ドラマ的時間」に移るわけです。例えば、朝起きて目が覚めたのに欝で会社へ行けない。この時、もう循環的時間は崩れます。会社から「君はもう、このまま会社を辞めて、他の会社を探しなさい」とか言われて弾きとばされる。そのようにドラマ型の時間が突然訪れてくる。それは日常的時間の切断です。

 ドラマというのは、いつも日常的時間から始まるんですが、突然切断されて、そこから劇の展開になっていきますよね。あれは、実生活の中にある時間を捉えていると思うんです。そのドラマ型時間は、日常生活世界にはないということではなくて、むしろ日常生活世界の一番の中心に危機の時間というのがある。ハイデガーの不安の問題とか、死の問題とか、そういうのは日常生活世界論でいえば、非常に重要な要素をなしてくると思います。実存的なものも、ここになろうかと思います。

 幸福論について言えば、いくつかの幸福類型を出して、その幸福類型の意味の変容を追跡する。若者たちは楽しい人生を求め、徳ある人生のような清貧の思想はあまり好まない。それから伝統社会としては、ラッキーとしてのハッピーで、たまたま幸せを恵んでもらえたという感謝の人生観ですね。そのような格好で、いくつか幸福論を類型化して、それで幸福の場合には価値判断ですから、尺度依存性があるということで、価値尺度をめぐる議論になっ ていくのではないかと考えています。

 最後が日常生活世界の歴史的変容ということで、その基軸は生活基盤が家業から労働市場に移ったことが一番大きいと思います。それと情報革命ですね。この情報革命もまだ最終的には何を意味するのか、我々は読み取れてないわけですけど、まだ五十年くらいしか経っていないわけですからね。産業革命は三百年、農業革命は一万年くらいですから、その意味はそれぞれなりにこなれてきてますけど、情報革命についてはまだ分かりません。これをどう捉えるかというのがポイントになろうかと思います。

 

 

 その後は、「人間科学の新展開」「人類史再考」という小見出しをつけた非常に興味深いお話が展開していきました。

 

 この特集インタビューの全文は、『学問の英知に学ぶ 第六巻』(ロゴスドン編集部編/ヌース出版発行)の「六十六章 現代世界の人間哲学」に収載してありますので、ぜひ全文を通してお読み頂き、世界の三層構造から人間について考えて頂ければと思います。