物狂い能
数日の間、ブログを休んでいた。
舞台撮影や納品などに神経を奪われて、気が削がれていた…という事だ。
昨日は緑泉会『通盛』『班女』の二番。
私は能評を書く立場にはなく、また近現代の文芸としても能評には疑問がある…能評とは単に事後報告にすぎない…という見解なので、昨日の能には触れない。
しかし、一つだけ改めて理解できた事がある。
いわゆる『狂女物、物狂い能』が、単純に思いゆえに狂うのではなくて、時に自ら狂気を発し、あるいは周囲を装うために狂う。
また、舞うことでトランス状態に入り狂う…など様々な形態があるという事だ。
そして、『狂う』という感情は否定されるものではなく、人間本来の意志疎通を取り戻したい、と願う表現なのだ…。
『班女』の主人公花子の場合、…恋の喜びだけを見つめている…そんな可愛らしさがある。
夢幻能『井筒』と同様に、恋の快楽が主人公を支配している。時に、恋愛は『恋をしている私が一番好き』…嫉妬は自らの愛の証であると、激情を吐露してやまない危うさを招く。
しかし『班女』の花子は『恋慕への追想』だけに指向している。
実際には、そんな感情だけで『恋慕』など成立しないのが現実である。
むしろ、先日に紹介した『籠太鼓』の妻の方が、様々な感情と駆け引きが交錯して、『狂う』という表現が多彩であると思う。
しかし、歌物語的手法で『狂女』を眺めると、花子が演じる『班女』の描写には、能が希求している『花』の価値が大きい。
そこに時間支配を離れた夢幻能的面白さを感じるのだ。






