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最初の半歩

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能『清経』
学生能(早稲田大学観世会)

約十年くらい前の舞台写真。
本気で舞台写真を志そうか…と思い始めた頃。当時は古いマニュアルカメラにズーム一本。
能を撮影したのは、たぶん二回目であった記憶がある。思ったよりピントがきているのに自信を持った。
実は、最初に撮影した能も『清経』であり、プロを志した契機になった能も『清経』撮影からなのだ。
たぶん私は、『清経』で始まり終わってゆく予感がする。
思えば、二十歳の頃読んでいた吉本隆明の『言語についての美とは何か』で論じられた能の時間支配…その題材も『清経』と『東北』(とうほく)であった。

そして当時、二十歳過ぎたばかりの私は、この本によって啓発され能楽に引き寄せられていった半歩、爪先の出だしであった。

能が見たい、舞いたい。

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『聖なる女』田中貴子著 斎宮 女神 中将姫 人文書院刊

神のジェンダー考察…特に能『三輪』の神婚伝説について述べられた論は、今更ながらに読み返す価値がある。
本来、女の元へ通う神なのだから男神であるはずだが、能『三輪』で演じられるのは女神の姿である。どうして女神の姿に変化したのか。
何故、救済を神が求めるのか…能『三輪』を詞章や構成から解釈すると諸点が幾つも上げられてしまうのだ。
ただ、舞台で能『三輪』を眺めた場合、男神から女神への異質な変換も違和感は皆無である。
そこが能の有する…能たる演出効果なのだろう。

話はズレてしまうが、もし私が好きな能を舞っても良い…と言われたら私は『羽衣』か『三輪』を選びたい。
『羽衣』の天女、『三輪』の女神…ともに、人まつろいながら最後まで孤独なままに去ってゆく。
誰のためなのか、何のために舞うのか…。
この二曲だけは撮影側よりは、舞う側でいたいなぁ…などと妄想をする。

一期も夢…どうせ消えてゆくのだ…自分の孤独を感じるには最適の能だと私は思う。

物狂い…弐

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浅見慈一『船橋』

能を愛好する層が、どのように分類されるのか私は知らない。
いかなる分野にもマニアはいる。…能楽マニアも例外ではない。
能楽マニアは役者論を展開し技術の是非を論じる。また楽屋話を知ることが『通』の証とされる。さらに、能楽界の展望という『政治』を語るのが、能楽マニアの王道なのだ。

能の作品論も、その範疇ではあるが多少の学術傾向を示す。加えて、随筆的洒脱や文才があれば作品論は、能評や『通』の目利きよりは能にスパイスを与えてくれそうだが…惜しいことに書ける著者が少ない。

フランス革命を背景に男女の悲劇を描いた女性劇画作家がいた。(あえて名前を伏せた)
彼女は幾多の作品を送り出したが、一方で私生活で『不倫』を経験している。
その大人の恋…とは必ずしも言い難い様相も、実は作品論的に考えると納得可能だ。世間的には無様な狂態だが、さらなる深みに落ちないと作品に男女の陰影など描けなかったのだろう。
能の『狂い』は、神々も含めてある種のトランスに突入する状態を描いている。
そして、この『物狂い』を洒脱に語るには、その状態を主観客観の双方から眺める能力や経験値が必要だと思う。

もし将来、能の新たな創造者が生まれるとしたら『演技としての狂気』と『作品論としての狂気』を両立させた人物に相違ない。