それって楽しい?
『超訳ニーチェ』
…書店店頭に平積みされている本を買ったのは久しぶりでした。
平積み、と言えば『ドラッカー』も見かけます。
いわゆる流行りモノなんでしょうか。
こういう類の書籍は、『脳内オヤツ』として摂取すると楽しい時間を過ごせますよね。
間違っても主食にしてはいけません。
オヤツはオヤツでしかないので、次第に刺激的な表現や視覚的な見せ物、皮肉な揶揄表現を好むようになり…気が付くと誰かの記述、コメントを『我が意を得たり…』と受け入れるだけの思考依存症に陥ります。
人に意見を述べる前に、その意見は本当に自分(私が出した)の意見か…?
と自分を疑うのは必要です。
断っておきますが、誰かの意見を『それ、お前の意見ぢゃなくて借り物だろ、自分で考えろ…』と心に思っても口にするのは止めましょう。
絶対に嫌われます。
人間の脳は本能思考を基礎として、その上に理性からの思考を積み上げただけなんでしょうね。
だから、タイプな女を見て欲情をする思考が、実は理屈や理念を支えている事には気が付かない。
本能的生存要求が脳内の深奥から、理念や思考を支配しているに過ぎないな…と思う、今日この頃です。
でも、本能的思考があるから、人は楽しく面白いんですよねぇ。
伝える花があるのならば…弐
昨日のブログにて、狂言は素顔で演じられるため身体表現としては歌舞伎に近い…と書き込んだため、少し補足する。
能、狂言の素顔(直面…ひためん)による演技は、その素顔を『仮託された面』として設定されている。つまり、能面の一つである…という事。
歌舞伎の場合、顔を塗る事で能面に対応したキャラクターを演出していると考える。しかも、役者が表情を作る事で喜怒哀楽が表現され、そこに役者の身体論としての個性や存在が、観客に訴えかける…贔屓を呼び込む力ともなるのだ。
この能、狂言と歌舞伎の両者には、顔という表現にも大きな隔たりがあるのだ。
狂言が歌舞伎の身体論に近い…と書いたのは狂言方の演技というものが、能役者よりも個性が表出しやすい、狂言方の演技が一つの演目を支配可能にしている事にある。
狂言方能楽師にスター的存在の役者が、近年多く排出したのは『役者の個性』が、現代の観客へメッセージが簡潔に伝えやすいのだ…と私は見ている。
また狂言は、その多くの演目において『口語』である事も理解しやすい一助であろう。
蛇足だが…『狂言師』という言葉は、能楽の世界にはないらしい。
能楽師狂言方という(あるいは狂言方能楽師か…)のが正しいようだ…ん、どっちかな。
芸人なだぎ武氏が、そのネタの中で『職業は狂言師…』と名乗る出し物がある。…ややこしや…と謳いながら歩くアレである。
ネタの中で、狂言師…と名乗ったのは、本職の狂言方を汚さない配慮だとするならば見事な細心さと思う。


