伝える花があるのならば…弐 | HOODのブログ

伝える花があるのならば…弐

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昨日のブログにて、狂言は素顔で演じられるため身体表現としては歌舞伎に近い…と書き込んだため、少し補足する。
能、狂言の素顔(直面…ひためん)による演技は、その素顔を『仮託された面』として設定されている。つまり、能面の一つである…という事。
歌舞伎の場合、顔を塗る事で能面に対応したキャラクターを演出していると考える。しかも、役者が表情を作る事で喜怒哀楽が表現され、そこに役者の身体論としての個性や存在が、観客に訴えかける…贔屓を呼び込む力ともなるのだ。
この能、狂言と歌舞伎の両者には、顔という表現にも大きな隔たりがあるのだ。

狂言が歌舞伎の身体論に近い…と書いたのは狂言方の演技というものが、能役者よりも個性が表出しやすい、狂言方の演技が一つの演目を支配可能にしている事にある。

狂言方能楽師にスター的存在の役者が、近年多く排出したのは『役者の個性』が、現代の観客へメッセージが簡潔に伝えやすいのだ…と私は見ている。

また狂言は、その多くの演目において『口語』である事も理解しやすい一助であろう。

蛇足だが…『狂言師』という言葉は、能楽の世界にはないらしい。
能楽師狂言方という(あるいは狂言方能楽師か…)のが正しいようだ…ん、どっちかな。

芸人なだぎ武氏が、そのネタの中で『職業は狂言師…』と名乗る出し物がある。…ややこしや…と謳いながら歩くアレである。
ネタの中で、狂言師…と名乗ったのは、本職の狂言方を汚さない配慮だとするならば見事な細心さと思う。