伝える花があるのならば。
代々木能舞台
仕事に行きがけで、避暑を兼ねて書店に立ち寄った。古典芸能の書棚を眺めて感じるのは、落語や歌舞伎関係の書籍に比較して、能楽関連の本は少ない事だ。
いや、発行された関係書籍や能楽専門書は、けっして少なくないのだ。しかし、店内の書棚に多くは並ばない…と言うことなのだろう。
私も多少は関わっている写真を例に考えてみる。
能楽の場合、特定の能役者を扱った写真集というもの、その役者のメッセージが写真上からは、読者に伝わりにくいのだ。
歌舞伎であれば、その役者の肉体自体が存在して主体となる。そこに、演目を超越してゆく身体論が語られる。
だが、能楽の舞台写真は演目と能面、装束を記号化された銘や落款の証明でしかないように思える。
各説明文を読み理解されるという、つまりはカタログの域をでない。
(…通常は役者の素顔にて上演される狂言は、能よりは歌舞伎の身体に近いと思う)
すでに手垢がついた論法と言いながらも、改めて能楽における身体論を舞台写真の上で展開する撮り手側の創意、あるいは役者側の努力や工夫が得られないものか…と、仕事に赴く道すがら、よぎる思いがあった。
それに付けても、本という物は何か探している時には見つからず、見つかるときには連続して飛び込んでくる。
いわゆる男時女時(おどきめどき)に近い性質があるようだ。


