『シベリア』代々木能舞台…写真屋の独り言…弐
今回、主催者の好意により通し稽古と、仕上げのゲネを見せて頂いた。
私は芝居を見ながら楽しむ…というよりも、どうしても芝居側に入り込む癖がある。何やら感情移入が発生するのだ。
そのゲネを見ている最中、私の脳裏に突如として、『ぁあ、まさか…』と蘇った記憶があった。
それは、私が学生時代に出会った一組の老夫婦の面影であった。
もう二十年も昔になってしまうが、高田馬場駅前に一軒のバーがあり、その老夫婦の経営する店内は、訪れた客と会話しながら夜をひっそりと過ごす場であった。
店主である老人は長身であり、若い頃はダンディな青年であろうと想像された方。
昭和の始めに運転免許を取り、老人曰く…俺の番号は一桁だったよ…と。
元陸軍中尉で、戦後は苦労の連続だったらしい。
そして、その老人の奥様が…地方出の私に、都会の水を上手く飲む方法を教えてくれた一人でもあった。
『俺はね…○○さん。戦後は(奥様を見ながら…)、こいつの体一つに食わせてもらって、今まで生きてきたんだ…』…カウンター越しに、声を引き絞るように語る老人の声。簡単には切り離せない人の人生って、本当にあるんだ…。
私の閉じこめていた記憶が、芝居のゲネを見ていた最中に鮮明に思い出される。
もう少し、つづく。
『シベリア』代々木能舞台…写真屋の独り言
週始めから、毎日のように撮影活動の拠点である代々木能舞台に行っている。
今回、初めての試みとして本格的な演劇公演が、能舞台を使用して行われているのだ。
『シベリア』
銀波楼という名の娼家
原作小松重雄
脚本・作詞・演出
福田善之
昭和初期の東京下町、洲崎を舞台にして展開される男女の愛憎と悲哀を、人間達を見守る九十九神を語り部にして、劇は進行する。
さて…通常のホール舞台と異なり、能舞台は舞台自体が一種の潜在意識を有した場とも言える。役者や芝居を支える力も与えれば、逆に役者を殺すことすら可能な場でもある。
現在、『シベリア』は、公演中であり劇自体の内容には触れない。
この十年、代々木の舞台整備を手伝ってきた者として、一つ言える事がある。
それは、能舞台は現代演劇でも立派に支えきる力がある、役者の演技を助ける場になりうる…という事だ。
演劇とは、時に先鋭な存在である必要があって、言葉を変えれば『タブー』という表現制約を持たない。むしろ、もっとも忌み嫌う。ならばこそ、舞台表現とは人が支えて行かねば、瞬時にして滅びるものた…と。
また、見方を変えれば能は『タブー』を有さないのではなくて、『タブー』側から離れていった結果なのだ。
その視点で言えば、まさに現代演劇は、板一枚に張り付けられた男女にも似て、常に表裏一体と私は見ている。
この項。少し、続く…。


