HOODのブログ -299ページ目

それって、マジに神対応ぢゃね?

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世に俗語という言葉がある。

流行語に属する場合もあり、しばらくすると死語になっていたりする。

『あなたも知っている死語の世界』


マジぃ…?

俗語表現を人前やブログ、メール等で使うのは、先方に非礼であるし、軽薄に過ぎると私は考えているから避けているが、正しく回避しているかの自信がない。


まったくの塩だよ…(俗語というより狭義の慣用句だね、これは…)


最近の俗語は、対話性が少なくて発信者のみに自己完結なきらいがある。


もう、お腹いっぱいだから…。


うん、特に、この表現は避けたい。
本来は、食事に対する生理的反応に用いる表現言語なのに、発言者の潜在的拒否感、相手の言動や意思を否定支配するために目的化されているからだ。


この言葉を見聞すると、かなりシラケる。っか、萎える。


てゆうか…。

あぁ、止めてくれ。
これを女性が使うと、百年の恋も醒める。ましてや、男性が使うと…使い手の知性を疑い始めてしまう。


後世に伝承させたい俗語もある。

『ナウぃ』…数十年前から存在していた俗語。だが、外語を見事に形容詞化している。高校時代、アメリカの交換留学生の女の子(女優ばりに美人だった)が、この『ナウぃ』を気に入って、よく使っていた。彼女は、他にも『シブィ…』を絶賛する意味で口にしていたなぁ。

正月が苦手

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先日の撮影での事。

慌てて家を出たために、レンズを間違えて持参。しかも三脚に雲台が…ない。

なんて事だ。
望遠一つでは、舞台の引きは効かないし、このまま撮影に入れば手振れ連発の可能性が大だ。

家に戻るロスタイムで遅刻は惨めだし、仕方ない。手持ちの道具で、やるだけやった。

普段設定する感度を大幅に上げる。測光は変更。シャープネスも、通常より一段強め。しかし、望遠のみで撮影押さえるのために、構図は窮屈極まらない。

それが今年の最後の撮影になった。

今年も、私の任務は昨日で終わり。
夕方は、カメラをサービスセンターへ預けて清掃の依頼した。
明日、受け取りに行き…さて、どうやって正月明けまで、過ごそうか。

扉を開ける前にお読みください。

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新しい時代の扉が目の前にあったとする。
誰しも人は扉を開いてみたい…と思うだろう。
しかし、ちょっと待って欲しい。新しい扉を開けた本人自身も、次の部屋に即応しなければ身が滅ぶ。後ろには戻れない仕組みなのだ。


文学者や作家が名を残す、その存在を認められるの一つとして、次の時代を察知する能力を生かした仕事であるからだ…と云われる。

パンドラの箱か、あるいは玉手箱かは、開けてみなきゃ判らない。
しかし、開ける前に、箱の中身を想像する事、あるいは箱自体の存在を仮定したのが文芸作品として後世に伝わってゆく。


能の開祖である世阿弥の功績として、優れた作品を後世の我々に伝えた事が評価される。
だが、それ以上の成果として、これまで寺社勢力などの祭祀として演じられていた田楽や能を、都会の貴族や有力武家をパトロンとして迎えて、彼いわく『一座建立』という商業演劇化に導く道筋を作った事だ。

さらに実子元雅ではなく、甥の音阿弥が実質的な後継者となり現在に至る将来を見越した事。

世阿弥は、時代の中で一人の政治権力者(足利義満)が持つ限界を目の当たりし、能には果てなし…という境地を得た。

これからの時代、政治権力と商業、そして芸術の調和(アカデミズム、少し口悪く言えば岩波文化人コンプレックスだ)に位置して稽古を積まねば流派は滅びる。そういう視点を『風姿花伝』等の著作に記した。

新しい時代が、扉が開いた瞬間を知る…無情な歴史の事実とは、その知った瞬間に滅びるか、あるいは生き残っているかの、刹那な選択肢しかない事だ。

ゆえに、扉を開けないで眺めるだけにする生き方も、また正しいのだ。