扉を開ける前にお読みください。
新しい時代の扉が目の前にあったとする。
誰しも人は扉を開いてみたい…と思うだろう。
しかし、ちょっと待って欲しい。新しい扉を開けた本人自身も、次の部屋に即応しなければ身が滅ぶ。後ろには戻れない仕組みなのだ。
文学者や作家が名を残す、その存在を認められるの一つとして、次の時代を察知する能力を生かした仕事であるからだ…と云われる。
パンドラの箱か、あるいは玉手箱かは、開けてみなきゃ判らない。
しかし、開ける前に、箱の中身を想像する事、あるいは箱自体の存在を仮定したのが文芸作品として後世に伝わってゆく。
能の開祖である世阿弥の功績として、優れた作品を後世の我々に伝えた事が評価される。
だが、それ以上の成果として、これまで寺社勢力などの祭祀として演じられていた田楽や能を、都会の貴族や有力武家をパトロンとして迎えて、彼いわく『一座建立』という商業演劇化に導く道筋を作った事だ。
さらに実子元雅ではなく、甥の音阿弥が実質的な後継者となり現在に至る将来を見越した事。
世阿弥は、時代の中で一人の政治権力者(足利義満)が持つ限界を目の当たりし、能には果てなし…という境地を得た。
これからの時代、政治権力と商業、そして芸術の調和(アカデミズム、少し口悪く言えば岩波文化人コンプレックスだ)に位置して稽古を積まねば流派は滅びる。そういう視点を『風姿花伝』等の著作に記した。
新しい時代が、扉が開いた瞬間を知る…無情な歴史の事実とは、その知った瞬間に滅びるか、あるいは生き残っているかの、刹那な選択肢しかない事だ。
ゆえに、扉を開けないで眺めるだけにする生き方も、また正しいのだ。
